ペリー 来航 いつ。 中学歴史 江戸時代の終わり(ペリー来航~幕府の滅亡)まとめと問題

ペリー来航の1回目と2回目の正確な時間が知りたい

ペリー 来航 いつ

「 幕末」とは、江戸幕府末期のこと。 一般的には、 1853年のペリーの 黒船来航から 戊辰戦争が終わる1869年の 16年間 を指します。 どんな時代かを一言でいえば「開国したことによる日本の混乱と大転換」。 混乱しているだけに、話もややこしいです。 ということで、今回は「 とりあえず、これだけ知っておけば幕末の流れがわかる年表&ストーリー」で、ざっくりと時代の流れをお伝えしていきます! まずは、幕末の流れを大まかな年表で。 幕末の16年間に何があったのか。 大河ドラマなどでもよく取り上げられるキーワードを中心に年表にまとめてみました。 幕末がややこしくなるのは、「桜田門外の変」ののち、幕末の舞台が京都に移ってからではないでしょうか。 京都に移った理由は、一言でいうと「 天皇がいるから」です。 幕府の力が弱まる中、天皇の力を利用しようとする人たちが京都に集まったということです。 特に、天皇愛が強すぎるがゆえの、長州藩士たちの動きが、ややこしさに拍車をかけています。 その辺もできるだけわかりやすく、16年の歴史ストーリーを3つのブロックにわけてお伝えしていきます。 開国~桜田門外の変 ペリーが黒船に乗ってやってきて、開国をせまります。 そこで、幕府は 日米和親条約を結び、日本は開国しました。 さらにアメリカは、通商条約を結ぶことを要求してきます。 実は、天皇は開国(和親条約)にはOKを出したのですが、通商条約にはNO!と言います。 理由は「和親条約はアメリカに燃料や水をわけてあげるのでOK(上から目線的)だけど、対等の立場で貿易をするのはNO!」と考えたからでした。 しかし、幕府はアメリカにおどされて、勅許(天皇の許可)をもらえないまま 日米修好通商条約に調印してしまいます。 その時の大老は 井伊直弼。 大老は幕府の最高責任者です。 この頃、将軍の後継問題などもあって、とにかく幕府内はゴタゴタしていました。 加えて、幕府を批判する人も相次ぎ、井伊は、反対勢力や批判する人を徹底的に弾圧しました。 それが「 安政の大獄」です。 これで処刑された一人が 吉田松陰です。 結局、井伊は「 桜田門外の変」で水戸と薩摩の浪士に暗殺されてしまいました。 ここから本格的に幕末の激動へと向かっていくのです。 com 天誅ブーム~薩長同盟 「桜田門外の変」以降、本格的に広まったのが「尊王攘夷(尊皇攘夷)」という考え方です。 「 尊王」は天皇を尊ぶこと。 幕末では、勅許なしに通商条約を結んだ幕府に反発する側の人を指す。 「 攘夷」は外国人を武力で追い払うこと。 外国を追い出さないと日本が危ない!という考え。 幕府は「尊王攘夷」に反する!ということで、幕府の役人などが浪士たちに暗殺される「天誅」がブームになります。 それを取り締まるために結成されたのが「 新選組」です。 幕末に登場する代表的な藩といえば、薩摩、長州、会津ですよね。 薩摩は幕府と手を組み、朝廷と連携して武家が政治を行う「 公武合体」派 長州は幕府に反対し、同じ考えの公家と手を組む「 尊王攘夷」派 に分かれていました。 そして、京都の治安を守るために「京都守護職」に任命されたのが、 会津藩主・松平容保です。 ということで、このような図式で対立していました。 薩摩、会津(幕府側・公武合体派) VS 長州(反幕府側・尊王攘夷派) 長州は、同じ考え(尊王攘夷)の公家と手を組み、朝廷に入り込んでいました。 孝明天皇は「外国はイヤだけど、おだやかにね」ということで、長州や一部の公家の過激な尊王攘夷には困っていました。 そこで、薩摩と会津が、長州を一気に京都から追い出す作戦に出ます。 それが「 八月十八日の政変」です。 長州藩士たちは、七名の公家とともに長州に逃げ帰ります(七卿落ち)。 なんとか挽回したい長州。 そこで、さらに過激な人たちが京都に潜入し、テロを計画します。 その密談に踏み込み、計画を阻止したのが新選組。 「 池田屋事件」です。 長州は「朝廷にはむかうつもりはなく、長州は無実!」と説明するために京都に向かいます。 しかし、願いは届かず、長州の強硬派が攻撃を開始。 結果的に長州は薩摩・会津に敗北、しかも御所に向かって発砲したため、長州は「朝敵」になってしまいます。 これが「 禁門の変」または「 蛤御門の変」です。 薩摩と長州が犬猿の仲だったのは、こうした理由からでした。 しかし、禁門の変の約1年半後、薩摩(西郷隆盛)と長州(桂小五郎)は、土佐浪士の坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介で手を組むことになります。 有名な「 薩長同盟」ですね。 薩長同盟は、もともとは立場の悪くなった長州を、薩摩が支援するものでした。 しかしその後、薩摩が倒幕への意思を固める中で連携を深めていったのです。 慶喜将軍就任~戊辰戦争 徳川慶喜が将軍になったのは、薩長同盟の後のこと。 時代の空気は、幕府側についていた薩摩も倒幕の意思を固め、いよいよ幕府が戦で倒されるかも・・・という流れになってきました。 そこで慶喜は、政権を朝廷に返上する「 大政奉還」を行います。 倒幕は、幕府から政権を奪うためのものなので、政権を朝廷に返してしまえば、その理由がなくなるという作戦です。 慶喜には「朝廷に政治はできないので、また幕府を頼るだろう」という考えもありました。 ところが、公家の岩倉具視が画策し、「 王政復古の大号令」が発せられます。 これは、幕府を廃止し、新たな政府を立ち上げますよと宣言したクーデターです。 納得のいかない旧幕府軍と、戦で幕府を倒したい新政府軍が戦ったのが「 戊辰戦争」です。 この戦いは「鳥羽・伏見の戦い」で始まり、新政府軍が勝ちながら東へ進んでいきました。 そして、江戸城総攻撃の直前に、新政府側の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟が会談し、実現したのが「 江戸無血開城」です。 戊辰戦争は、会津戦争などを経て、「函館戦争」で幕を閉じました。 時はすでに 明治2年(1869年)。 ここで「幕末」は終わりを告げます。 【関連記事】.

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【6月3日ペリー来日】黒船来航に揺れた浦賀!国民と幕府の反応

ペリー 来航 いつ

この日米修好通商条約は朝廷の許可なく結ばれました。 岩倉具視ら多数の公家が日米修好通商条約を締結することに反対し、孝明天皇は条約締結を拒否しました。 開国後の日本 貿易が開始されたことにより、安価な綿製品が大量に輸入、生糸、お茶の値段が高騰します。 商人による米や生糸の買い占め、金の流出と銀の流入を防ぐために質の悪い万延小判が発行、インフレを招いて経済が混乱します。 下級武士、庶民の暮らしは大打撃を受け、幕府への不満が高まります。 1858年、井伊直弼は幕府を批判する者を厳しく処罰 安政の大獄 、長州藩士の 吉田松陰らが殺されました。 後に将軍となる徳川慶喜も日米修好通商条約を締結した井伊直弼を詰問したかどで、謹慎処分を受けました。 井伊直弼はもと水戸藩の藩士によって、殺されてしまいます 桜田門外の変。 井伊直弼は彦根藩主、井伊掃部頭 かもんのかみ 直弼とも称しています。 吉田松陰と松下村塾 吉田松蔭が主宰した 松下村塾の塾生には、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、幕末~明治に活躍した人物が多くいました。 桂小五郎 木戸孝允 は松下村塾の塾生ではありませんが、明倫館で松蔭に教わっていました。 安政の大獄と西郷隆盛 勤王派の僧である月照も安政の大獄で幕府から追われるようになりました。 西郷隆盛は自身の恩人でもある月照を保護しようとしましたが、薩摩藩では月照の追放を決めてしまい、西郷は月照と入水をし、西郷のみが助かりました。 ・ 尊王=天皇 朝廷 を尊ぶ ・ 攘夷=外国人を排除する 幕府は朝廷との結びつきを強める 公武合体策を進め、天皇の妹である 和宮を14代将軍家茂と結婚させます。 薩摩藩は1862年にイギリス人を殺害する 生麦事件を、翌年薩英戦争が起こります。 長州藩は1863年下関海峡の外国船を砲撃 下関戦争 、翌年イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合艦隊に砲撃されるという事件が起こります。 江戸幕府の終わり 15代将軍慶喜は政権を朝廷に返し、旧幕府軍と新政府軍が戦って負け、江戸幕府がついに終わりを迎えます。 薩長同盟 1866年、 西郷隆盛 薩摩藩 と 木戸孝允 長州藩 が 坂本龍馬 土佐藩 が仲介して同盟を結びました。

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【6月3日ペリー来日】黒船来航に揺れた浦賀!国民と幕府の反応

ペリー 来航 いつ

アヘン戦争の直後の1844年、唯一日本と接触があるヨーロッパ… オランダ国王が手紙を送ってきます。 「 世界情勢から見て、このまま鎖国を続けるのは危険です。 開国した方が良いですよ」と。 これにたいし、幕府は丁重ないい方ながら、これを拒否、鎖国政策を維持します。 オランダの忠告を裏付けるように2年後の1846年、 アメリカ使節が来航、平和的に! 開国を求めますが、幕府はこれも拒否します。 さらに1852年、オランダはご丁寧にも「 アメリカとロシアに日本来航の計画がある」との緊急情報を伝え、「 こんな条約ならどうですか」という案まで示しますが、 幕府上層部はこれをにぎりつぶし、現場に情報を伝えないまま放置します。 日本開国に並々ならぬ意欲をもつ彼は、日本やアジアに関する資料に目を通し、一つの確信を得ます。 「 アジア人は丁寧な対応をしてもダメだ。 高飛車にでて、脅しつけないと何も動かない」と。 日本側にプレッシャーを掛けため、海軍局にかけあい、最新鋭艦をできるだけたくさん集めました。 そして1853年、 ペリーは琉球王国、小笠原諸島を経由して江戸湾の入り口浦賀にやってきます。 太平洋横断ではなく大西洋、インド洋経由で。 長崎ではなく、江戸湾の入り口にいくことで、「 おれたちは甘くはないぞ、これまでの日本のルールなんか聞く気はない」と行動で示すように。 なぜペリーが、琉球・小笠原を経由したか分かりますか。 彼は日本開国がうまくいかないときは、 琉球王国や小笠原諸島をアメリカ領にすることも計画していたのです。 ちなみに小笠原諸島にはアメリカ人とイギリス人、ハワイ人などが移住しており、イギリスも領有をめざしていました。 庶民は黒船やペリーをこのようにイメージしている。 帝国書院「図録日本史総覧」P195 ここにペリーが 四隻の軍艦(うち2隻が蒸気船)でやってきたのです。 黒船がやってきたといって人々が恐れおののいたといういい方がされますが、それは ペリーが自分の手柄を誇るために、記録に記したことで、 実際には見物客が小舟をだして、黒船の回りを取り囲み、ペリーが大砲を撃っても空砲だと分かると「花火だ、花火だ」と喜んだとも言われます。 でも奉行所の役人が出てきたとたんに蜘蛛の子を散らすように逃げていったといわれます。 「うれしがり」で「おバカ」な江戸時代の庶民、とってもお茶目で、愛すべきものです。 高圧的なペリーと幕府 ペリーは 高圧的な態度で臨みます。 「 下っ端は相手にしない。 責任者がこい」と。 やむなく、奉行所は役職をごまかして「 自分が責任者である」として対応する。 船には乗せてもらえても、ペリーは出てこずに副官が対応する。 「長崎に行け」といっても拒否をし、「 大統領という国家の最高責任者の文書を渡すのだから、そちらもそれなりの人物が出てこい」といった対応をします。 「 すぐに返事をしないと直接江戸に行って将軍に手渡すぞ」と脅しつけます。 さらに、ペリーは日本側に 白旗を渡し「 この旗は降伏するときに使うのだ」といったと伝えられます。 現在は否定的みたいですが、こういう話が残るほど、ペリーの態度は高圧的だったのです。 こうしてペリーの「予習」は功を奏し、幕府はやむなく 正式の国書の受け取ります。 このときの要求は、主に アメリカ船に開港場を確保し、水や食料、燃料を補給してほしいとの内容で、 貿易には触れていません。 国書をうけとった日本は、 一年後に回答と答わざるを得ませんでした。 これで帰ると幕府が安心した直後、ペリーは江戸が見えるところまで船をすすめ、さらに圧力をかけてから日本を去ります。 いかついですね。 アメリカの高圧的な対応に対し、何ら有効な対応ができず、ルールを曲げて国書を受け取ったという事実は、多くの人々、とくに知識人や武士たちのプライドを傷つけ、幕府への不信を感じさせる出発点となったといえるかもしれませんね。 しかし、これですむものではありません。 3つめ、アメリカはこういったと思います。 「 ロシアやイギリスもやってきて条約を結ぶと思います。 もし、その内容がこの条約より良いものなら先に来たアメリカが不利です。 だから他の国と結んだ条約がもっと良いのなら、その内容が自動的にこの条約に組みこまれると約束してください」。 こういった条項を 最恵国条項といい、日本側も異存なかったと思います。 しかし、ここに落とし穴があります。 本来最恵国待遇は、日本がアメリカに対して認めるなら、アメリカも日本に対して認めるのが国際法的な常識でした。 「 アメリカがイギリスとの結んだ条約が日本にとっても有利なら、同様にこの条約に組み込むことができる」という 双務的最恵国待遇が平等な国同士の条約のあり方です。 ところがこうした条項が欠落しています。 日本はアメリカに認めるが、アメリカは日本に認めない、これを 片務的最恵国条項と呼び、この時点でこの条約も不平等条約であったのです。 最初、彼は担当者に対し 数時間にわたってまくし立てたそうです。 「アヘン戦争で見られるようにイギリスは日本にとって脅威だが、アメリカは『平和を愛する国』で日本の友好国だ」といった世界の状況、最初にアメリカと貿易することの有利さなどなど。 かなり誇張したり、話も盛ったり、はったりをかましたりしながら。 彼からすれば「 どうせ未開の国、ばれるわけないわ。 脅してなんぼ…」そんな気持ちだったのでしょう。 しかし、幕府も一筋縄ではいきません。 勘定奉行所では、ただちに ハリスが話した一つ一つの事例について丁寧な吟味をし、誤りや誇張、はったりを、きっちりと調べあげました。 そして「 メキシコから土地を強奪しておいて『平和を愛する国』なんていっている。 ハリスの話には 嘘やはったりが多い」ということを知ります。 ハリスがこのことを知ったらびびったでしょうね。 しかしこのことは、幕府の内部資料としておきます。 突きつけたらおもろかったのに・・・。 すでに日米和親条約も不平等条約の性格を持っていたのですが、この条約はいっそう 不平等条約の性格 を強めます。 主な項目を、プリントに即して確認していきます。 一つ目は開港場です。 あらたに神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港が決められ、代わりに下田が閉港され、箱館とあわせ五港が開港となります。 とくに 神奈川(実際には横浜に変更)が翌1859年から開港されます。 兵庫 実際は神戸に変更 と新潟もつづけて開港していく。 江戸と大坂にもアメリカ人がはいることを認める(開市)。 貿易のやりかたは数量などの制限を設けないという 自由貿易です。 ただし、 貿易にかかる税(関税)は話し合いで関税率を決めるという 協定関税というやり方がとられます。 関税は国内産業の保護などのため、それぞれの国が自由に決める権利を持つ 関税自主権)というのが先進国間の常識です。 しかし自由に関税が掛けられない 関税自主権がない)不平等条約です。 捜査段階では、逆さづりやギザギザの板の上に座らせられて膝の上に石を抱かされたり、木刀や竹刀で殴られるなどの 拷問をうけ自白を強要されます。 その証拠?に基づき、 弁護士もおかれないまま、お白洲という土の上に正座させられて裁判をうけます。 そして、その刑罰は、 首をはねたり「 腹を切らされたり」。 言葉が通じない、基本的人権なんて観念がない国で…。 そんな裁きをうけたいですか? アメリカや欧米諸国が、自国民をこのような目に合わせられないと考えたのは当然です。 幕府側からしても、外国人を裁判に掛けてトラブルになるのはいやでしょう。 いつも通りのことをやっていたら強烈なクレームがくるのは、目に見えていますから。 だから、「 この条約は、外国の力に押しきられた不当で屈辱的なものであったり、勅許というきっちりとした手続きができていない問題点が多すぎる条約である。 だから、いったん条約を破棄して、もう一度交渉して、条約を結び直そう」という主張が出てきます。 こういう考え方を 破約攘夷といいます。 方法としては、 暴力を用いてもかまわないという立場から、穏やかな話合いですすめようという考え方までさまざまな中身が含まれています。 攘夷というから「鎖国に戻せ」という考えばかりではないのです。 次の時間は、通商条約の開始によって何が起こったのかを見ていきます。 そして、その次の時間から、開国以後の政治の流れを見ていくことにします。

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