情動 は こうして つく られる 脳 の 隠れ た 働き と 構成 主義 的 情動 理論。 情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論

『情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(リサ・フェルドマン・バレット)の感想(7レビュー)

情動 は こうして つく られる 脳 の 隠れ た 働き と 構成 主義 的 情動 理論

情動(emotion)の研究を続けてきた心理学者・学者が、「情動とは何か?」に関する自身の学説をまとめた一冊。 500ページくらいの本文に、何百項目にもわたる巻末注がつく、長大な本だ。 しかし語り口は平易で、重要で面白い話題が続くので、飽きずに読み通すことができた。 訳文は非常に丁寧に作成されていることが感じられ、また「訳者あとがき」では本書のキーワードについて補足してくれていて、それも読解の大きな助けになった。 *** 情動(emotion)とは何か。 私たちは、普通こう考える。 情動には、「怒り」「怖れ」「喜び」「幸福感」「驚き」などのいくつかの種類がある。 誰かに言われたことや、タイムラインで流れてきたニュースが引き金となり、それら情動が引き起こされる。 情動には、主観的な経験とともに、汗をかいたり、動悸がしたり、リラックスしたりといった身体反応が伴う。 また、情動はよく「理性」と衝突する。 情動は、ネズミなど他の動物の脳にも存在するメズムであり、人間ならではの理性で「動物的」な情動を抑え込むことが大事である(感情的になるな! Don't be emotional! しかし本書の著者、バレット氏によれば、 上記のほとんどすべてが間違っている。 心理学・学に照らしてな情動観がどう間違っているか、そして、正しく情動を理解することが日常を生き社会を営む私たちにとってどのような意味を持つかを論じたのが、本書『情動はこうしてつくられる』(原題: How Emotions are Made)である。 情動は、顔にも身体にも脳にも一貫して表れない な情動理解は何が間違っているのか。 著者が出発点にするのが、情動の客観的指標の不存在である。 研究者たちは、「悲しみ」「怖れ」「喜び」などの情動を、顔の表情や身体反応によって定義することで、情動を調べてきた。 たとえば、「怒っている顔」「悲しんでいる顔」などについて、概ねすべての人が一致して判断できると思われてきており、「普遍的な情動カテゴリー」の存在が前提にされてきた。 しかし、著者の行ったメタ分析(複数の実験結果を統計的に統合する分析)によると、この前提は怪しいことが分かってきた。 膨大な時間と資金が投入されてきたにもかかわらず、いかなる情動に関しても、それに対応する一貫した身体的指標は見出されていないのである。 38) 内心ものすごく悲しいにも関わらず、涙が一滴も出ない人や、ワールドで大活躍して内心は有頂天なはずなのに、落ち着き払って見える選手なども、その一例といえるだろうか。 脳を調べても、「怒りの脳活動」や「喜びの脳活動」は見つけられなかった。 「脳画像法を用いて怒り、嫌悪、幸福、怖れ、悲しみについて調査したあらゆる論文を精査し、メタ分析」を行った結果、「古典的情動理論を裏づける証拠はほとんど得られなかった」(p. 47)という。 概して言えば、われわれは、どの脳領域も、いかなる情動の指標も含まないことを発見した(p. 48) つまり、情動は、顔にも身体にも脳にも一貫して表れない。 ではいったい、「怒り」や「怖れ」や「喜び」とは何なのか? 情動は、概念や言葉を介して、社会的につくられる な情動理解に代わって著者が打ち立てるのが、「 的情動理論(theory of constructed emotion)」である。 情動は私たちによって作られる。 私たちは情動を認識したり、特定したりはしない。 そうではなく、私たちは自分の情動経験や他者の情動の知覚を、さまざまなシステムの複雑な相互作用を通じて、必要に応じてその場で構築するのだ。 79) 情動は、私たちがもって生まれる出来合いのカテゴリーではなく、その場で「つくられる」。 そのつくられ方、表れ方は人それぞれであるために、身体や脳に情動の指標は存在しようもないのだ。 著者は「心拍を速める、呼吸のペースを落とす、多量のを分泌する、のを高める」といった身体を維持するメズムを、「身体予算管理(body-budgeting)」とよぶ。 そして情動は、この予算管理を効果的に行うためにあるという。 心拍数や各臓器の状態などが脳に送られる内受容感覚(introception)の「要約」が情動概念、たとえば「怒り」と結びつくとき、「怒り」の情動ができるのだと著者はいう。 では、「怒り」という「概念」はどこから来たのか。 「怒り」などの概念を学習するにつれ、子どもは、自身の身体感覚や、微笑み、すくめた肩、叫び、ささやき、噛みしめた唇、大きく見開いた目、まったく動かないことも含めて他者の動作や発生に意味を与えたり、予測したりすることで、怒りの知覚を構築できるようになる。 172) つまり、著者によれば「怒り」や「怖れ」などは、社会的に構築(構成)された概念である。 怒りや怖れは、身体や顔面の特定の変化が意味を持つという点に同意する一群の人々にとって、現実のものになる(p. 223) 情動概念は、自然界の一部をなす人間の脳内に形成される心のなかだけに存在する(p. 223) 情動が構築物だとしたら、何が言えるか? 本の後半では、このような「構成論的情動理論」に立つとき、私たちの日常生活や社会にどんな含意があるかが論じられていく。 子どもへの情動に関する教育、などの疾病、法律と責任概念など話題は多岐にわたる。 一つだけ挙げれば、「情動粒度を高めよう」というアドが印象に残った。 著者の理論では、情動はあらかじめ脳に刻み込まれたものではなく、私たちが学習して身につけるものだ。 したがって、「いかにきめ細かな情動を構築し経験できるかは、人によって異なる」。 より細やかな情動をもっていれば、「感覚刺激を効率的に予測して分類し、状況や環境に即した行動を起こせるようになる」。 対してたとえばや不安障害などの疾病をもつ人は情動粒度が低いことが分かっているという。 そこで、様々な経験をしたり、新しい語彙を身に着けることによって、情報粒度を高めていこう、と著者は提案する。 (わが身を顧みても、有用なアドだと思う。 同じ人と付き合い、同じ情報に触れ続けていることによって、いつのまにか情動のレパートリーがやせ細っていないだろうか?) 訳者も、本書の情動観がもたらす社会への含意には大きな期待を抱いているらしく、それがこの大著を訳すモチベーションになったようだ。 訳者の見立てでは、(…)政治、経済、教育、メディア論など多方面の領域に著者の的情動理論を適用し、それらの分野を新たな視点でとらえることができる。 本書がこの世界をより良い世界に導く強力なパワーを秘めていることを、訳者は固く信じている。 (訳者あとがき) 大雑把な感想と疑問 「情動は、生得的にプログラムされたものではなく、社会的につくられるものである」という本書の考え方は、著者の言うように、心理学・学の研究の流れからすると非常識的で、大きなシフトなのかもしれない。 一方、素朴には世界の側に実在するカテゴリーだと思われていた概念が、人間の言語によって構築されたものだという考え方は、の「言語論的展開」や、のに通じるようにも感じられ、捉え方によってはそれほど違和感はないのではないかと思う。 しかし、現役のサイエンティストが、大真面目にこういう考え方を理論の中心にもってきたことには、驚きを感じる。 最後に、二つほど敢えて疑問を呈してみたい。 疑問1:「構築」と「反応」は背反なのか?• 疑問2:本書の情動理論をもとに、研究を蓄積することはできるのか? 著者は、情動はこれまで思われてきたように、外界で起こったことへの「反応」ではなく、「構築」されるものだという。 しかし、情動にともなう身体や神経活動のレパートリーが構築(学習)されたものだとしても、それは個別の事象においては「反応」しているともいえるのではないか。 つまり、「反応」という言葉を使っている研究者の情動観と、バレット氏の情動理論は両立しうるのではないかと思えた。 また著者は、その情動理論において「何が情動か」の範囲をかなり狭めている。 そのうえ、や脳活動と「一対一対応」が不可能なものとして「情動」を捉えている。 にもかかわらず、それを科学的には消去されるべき「素朴心理学」と捉えるのではなく、科学の研究対象にすべきだとしている。 はたして、著者の定義する「情動」が、どのように研究可能なのだろうか、という疑問が湧く。 著者も認めるように、著者が自身の理論を説明するのに使う諸概念も、世界の実在からくる不可避なものというよりは、便宜的に著者(ら)が「構築」したものだ。 だから、より科学研究に資する「概念」があれば、そちらに移っていくのだろう。 本書の意義は、な情動理論がよって立つ普遍的な情動カテゴリーという前提が研究を袋小路に追い込んでいる状況を正視したこと、そして、情動カテゴリーを含む緒概念が社会的に構築されたものであることを正面から受け止める視点を提供している点だろう。 関連記事 …本書とはまるで逆ともいえる、情動観(=情動は世界の価値的な在り方を感受するはたらきである)を提示した本。 個人的には、こちらにも強い魅力を覚える。 たとえば、バレット著では「人生で一回しか経験しない情動」が説明できないように思えるが、信原著の「価値感受説」はそれを説明するように思える。 バレット氏の情動観とは共通する部分と、一部齟齬がある部分があるように思われる。 …バレット著で扱われる「情動は人間だけのものか」という問題は、「は人間だけのものか」という問題と同型だと思われるので、挙げておく。 どちらの場合も、もちろん答えは「定義による」。 問題はどちらの定義が有用か、ということになるのだと思う。

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「情動はこうしてつくられる」の感想(と2020年以降のSNS)|Jun Nakama|note

情動 は こうして つく られる 脳 の 隠れ た 働き と 構成 主義 的 情動 理論

情動(emotion)の研究を続けてきた心理学者・学者が、「情動とは何か?」に関する自身の学説をまとめた一冊。 500ページくらいの本文に、何百項目にもわたる巻末注がつく、長大な本だ。 しかし語り口は平易で、重要で面白い話題が続くので、飽きずに読み通すことができた。 訳文は非常に丁寧に作成されていることが感じられ、また「訳者あとがき」では本書のキーワードについて補足してくれていて、それも読解の大きな助けになった。 *** 情動(emotion)とは何か。 私たちは、普通こう考える。 情動には、「怒り」「怖れ」「喜び」「幸福感」「驚き」などのいくつかの種類がある。 誰かに言われたことや、タイムラインで流れてきたニュースが引き金となり、それら情動が引き起こされる。 情動には、主観的な経験とともに、汗をかいたり、動悸がしたり、リラックスしたりといった身体反応が伴う。 また、情動はよく「理性」と衝突する。 情動は、ネズミなど他の動物の脳にも存在するメズムであり、人間ならではの理性で「動物的」な情動を抑え込むことが大事である(感情的になるな! Don't be emotional! しかし本書の著者、バレット氏によれば、 上記のほとんどすべてが間違っている。 心理学・学に照らしてな情動観がどう間違っているか、そして、正しく情動を理解することが日常を生き社会を営む私たちにとってどのような意味を持つかを論じたのが、本書『情動はこうしてつくられる』(原題: How Emotions are Made)である。 情動は、顔にも身体にも脳にも一貫して表れない な情動理解は何が間違っているのか。 著者が出発点にするのが、情動の客観的指標の不存在である。 研究者たちは、「悲しみ」「怖れ」「喜び」などの情動を、顔の表情や身体反応によって定義することで、情動を調べてきた。 たとえば、「怒っている顔」「悲しんでいる顔」などについて、概ねすべての人が一致して判断できると思われてきており、「普遍的な情動カテゴリー」の存在が前提にされてきた。 しかし、著者の行ったメタ分析(複数の実験結果を統計的に統合する分析)によると、この前提は怪しいことが分かってきた。 膨大な時間と資金が投入されてきたにもかかわらず、いかなる情動に関しても、それに対応する一貫した身体的指標は見出されていないのである。 38) 内心ものすごく悲しいにも関わらず、涙が一滴も出ない人や、ワールドで大活躍して内心は有頂天なはずなのに、落ち着き払って見える選手なども、その一例といえるだろうか。 脳を調べても、「怒りの脳活動」や「喜びの脳活動」は見つけられなかった。 「脳画像法を用いて怒り、嫌悪、幸福、怖れ、悲しみについて調査したあらゆる論文を精査し、メタ分析」を行った結果、「古典的情動理論を裏づける証拠はほとんど得られなかった」(p. 47)という。 概して言えば、われわれは、どの脳領域も、いかなる情動の指標も含まないことを発見した(p. 48) つまり、情動は、顔にも身体にも脳にも一貫して表れない。 ではいったい、「怒り」や「怖れ」や「喜び」とは何なのか? 情動は、概念や言葉を介して、社会的につくられる な情動理解に代わって著者が打ち立てるのが、「 的情動理論(theory of constructed emotion)」である。 情動は私たちによって作られる。 私たちは情動を認識したり、特定したりはしない。 そうではなく、私たちは自分の情動経験や他者の情動の知覚を、さまざまなシステムの複雑な相互作用を通じて、必要に応じてその場で構築するのだ。 79) 情動は、私たちがもって生まれる出来合いのカテゴリーではなく、その場で「つくられる」。 そのつくられ方、表れ方は人それぞれであるために、身体や脳に情動の指標は存在しようもないのだ。 著者は「心拍を速める、呼吸のペースを落とす、多量のを分泌する、のを高める」といった身体を維持するメズムを、「身体予算管理(body-budgeting)」とよぶ。 そして情動は、この予算管理を効果的に行うためにあるという。 心拍数や各臓器の状態などが脳に送られる内受容感覚(introception)の「要約」が情動概念、たとえば「怒り」と結びつくとき、「怒り」の情動ができるのだと著者はいう。 では、「怒り」という「概念」はどこから来たのか。 「怒り」などの概念を学習するにつれ、子どもは、自身の身体感覚や、微笑み、すくめた肩、叫び、ささやき、噛みしめた唇、大きく見開いた目、まったく動かないことも含めて他者の動作や発生に意味を与えたり、予測したりすることで、怒りの知覚を構築できるようになる。 172) つまり、著者によれば「怒り」や「怖れ」などは、社会的に構築(構成)された概念である。 怒りや怖れは、身体や顔面の特定の変化が意味を持つという点に同意する一群の人々にとって、現実のものになる(p. 223) 情動概念は、自然界の一部をなす人間の脳内に形成される心のなかだけに存在する(p. 223) 情動が構築物だとしたら、何が言えるか? 本の後半では、このような「構成論的情動理論」に立つとき、私たちの日常生活や社会にどんな含意があるかが論じられていく。 子どもへの情動に関する教育、などの疾病、法律と責任概念など話題は多岐にわたる。 一つだけ挙げれば、「情動粒度を高めよう」というアドが印象に残った。 著者の理論では、情動はあらかじめ脳に刻み込まれたものではなく、私たちが学習して身につけるものだ。 したがって、「いかにきめ細かな情動を構築し経験できるかは、人によって異なる」。 より細やかな情動をもっていれば、「感覚刺激を効率的に予測して分類し、状況や環境に即した行動を起こせるようになる」。 対してたとえばや不安障害などの疾病をもつ人は情動粒度が低いことが分かっているという。 そこで、様々な経験をしたり、新しい語彙を身に着けることによって、情報粒度を高めていこう、と著者は提案する。 (わが身を顧みても、有用なアドだと思う。 同じ人と付き合い、同じ情報に触れ続けていることによって、いつのまにか情動のレパートリーがやせ細っていないだろうか?) 訳者も、本書の情動観がもたらす社会への含意には大きな期待を抱いているらしく、それがこの大著を訳すモチベーションになったようだ。 訳者の見立てでは、(…)政治、経済、教育、メディア論など多方面の領域に著者の的情動理論を適用し、それらの分野を新たな視点でとらえることができる。 本書がこの世界をより良い世界に導く強力なパワーを秘めていることを、訳者は固く信じている。 (訳者あとがき) 大雑把な感想と疑問 「情動は、生得的にプログラムされたものではなく、社会的につくられるものである」という本書の考え方は、著者の言うように、心理学・学の研究の流れからすると非常識的で、大きなシフトなのかもしれない。 一方、素朴には世界の側に実在するカテゴリーだと思われていた概念が、人間の言語によって構築されたものだという考え方は、の「言語論的展開」や、のに通じるようにも感じられ、捉え方によってはそれほど違和感はないのではないかと思う。 しかし、現役のサイエンティストが、大真面目にこういう考え方を理論の中心にもってきたことには、驚きを感じる。 最後に、二つほど敢えて疑問を呈してみたい。 疑問1:「構築」と「反応」は背反なのか?• 疑問2:本書の情動理論をもとに、研究を蓄積することはできるのか? 著者は、情動はこれまで思われてきたように、外界で起こったことへの「反応」ではなく、「構築」されるものだという。 しかし、情動にともなう身体や神経活動のレパートリーが構築(学習)されたものだとしても、それは個別の事象においては「反応」しているともいえるのではないか。 つまり、「反応」という言葉を使っている研究者の情動観と、バレット氏の情動理論は両立しうるのではないかと思えた。 また著者は、その情動理論において「何が情動か」の範囲をかなり狭めている。 そのうえ、や脳活動と「一対一対応」が不可能なものとして「情動」を捉えている。 にもかかわらず、それを科学的には消去されるべき「素朴心理学」と捉えるのではなく、科学の研究対象にすべきだとしている。 はたして、著者の定義する「情動」が、どのように研究可能なのだろうか、という疑問が湧く。 著者も認めるように、著者が自身の理論を説明するのに使う諸概念も、世界の実在からくる不可避なものというよりは、便宜的に著者(ら)が「構築」したものだ。 だから、より科学研究に資する「概念」があれば、そちらに移っていくのだろう。 本書の意義は、な情動理論がよって立つ普遍的な情動カテゴリーという前提が研究を袋小路に追い込んでいる状況を正視したこと、そして、情動カテゴリーを含む緒概念が社会的に構築されたものであることを正面から受け止める視点を提供している点だろう。 関連記事 …本書とはまるで逆ともいえる、情動観(=情動は世界の価値的な在り方を感受するはたらきである)を提示した本。 個人的には、こちらにも強い魅力を覚える。 たとえば、バレット著では「人生で一回しか経験しない情動」が説明できないように思えるが、信原著の「価値感受説」はそれを説明するように思える。 バレット氏の情動観とは共通する部分と、一部齟齬がある部分があるように思われる。 …バレット著で扱われる「情動は人間だけのものか」という問題は、「は人間だけのものか」という問題と同型だと思われるので、挙げておく。 どちらの場合も、もちろん答えは「定義による」。 問題はどちらの定義が有用か、ということになるのだと思う。

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情動はこうしてつくられる 脳の隠れた働きと構成主義的情動理論の通販/リサ・フェルドマン・バレット/高橋 洋

情動 は こうして つく られる 脳 の 隠れ た 働き と 構成 主義 的 情動 理論

情動には客観的な指標は存在しない だが、近年の研究によって、情動には客観的な指標となりえるパターンは存在しないことがわかってきた。 本書は、脳は都度外界と反応し、特別なパターンを情動として「作り出しているのだ」とする、構成主義的情動理論についての一冊なのだけれども、構成主義的情動理論と対比して、そうした「情動とは内から沸き起こってくる普遍的なパターンであり、理性はそうした情動をねじ伏せるものであるとする」考えを古典的情動理論と名付け、それがいかに社会の基本法則として用いられているか、またそれがいかに間違っていて、どのような問題が存在するのかを広く指摘していく。 たとえば、数百人の被験者に対して日常生活を送る上で感じた情動を報告してほしいと依頼した実験では、情動に関連する用語が、複数の被験者間で、同じ意味では使われていなかった。 たとえば、「すばらしい気分」には細かく分割すれば幸福、満足、興奮、リラックス、喜び、希望、啓発、至福、感謝など無数の陰影があるわけだが、その全てを「幸福」にまとめてしまう人もいる。 それだけなら「いうて普遍的な反応をどう表現するかに能力の違いが現れているだけでは」という感じではあるのだけれども、じゃあその普遍的な反応って何なのよ、というのがそもそも定義不可能なのである。 たとえば、顔面筋電図と呼ばれる、皮膚の表面に電極をとりつける技法がある。 笑いなら笑い、悲しみなら悲しみでみなが同じ顔をするなら、顔面筋電図には感情ごとに特定のパターンが現れるはずだ。 だが、実際にはそんなパターンは現れず、被験者が怒っているのか悲しんでいるのか、個別の情動を予測する役には立たないことがわかるだけだった。 概して言えば、われわれはどの脳領域も、いかなる情動の指標も含まないことを発見した。 しかも複数の脳領域の結合 脳のネットワーク をまとめて考慮した場合でも、個々のニューロンに電気刺激を与えた場合でも、指標は見つかっていない。 情動を司る神経回路を持つとされるサルやラットなどの動物を用いた実験でも、同じ結果が得られている。 情動がニューロンの発火によって生じるのは確かだが、情動のみに関わっているニューロンは存在しない。 じゃあいったい情動ってなんなのよ じゃあいったい情動って何なのよ、という話になってくるのだが、普遍的なパターンが存在しないということは、あらかじめ人間の内部にパターンとして組み込まれたものではなく、都度都度外界に応じて「内部で特殊に作り出されるもの」なのである。 たとえば尊い人命が失われたとあるスピーチを聞いた時、心臓の鼓動がはやまって、顔面は紅潮し、胃が収縮したとする。 それを「悲しみ」と捉える文化圏で育っていれば、その人はそれを悲しみを表現するだろう。 だが、まったく同じ症状が、結婚式のような異なる状況のもとでは「喜び」や「感謝」として表現されるのである。 情動は、さまざまな身体特性、環境に合わせて自身を配線する能力を持つ柔軟な脳、文化、養育の結合として生じる。 情動は実在するが、「分子やニューロンは実在する」と言うときに込められている客観性という意味において実在するのではなく、「お金は現実のものだ」などと言うときの意味で現実なのであり、情動は幻覚ではなく、人々のあいだで得られた同意の産物なのだ。 と、本書では情動がいかにして生成されるのかについて、詳しい脳科学的な側面からの説明もあるのだが本稿ではそこまで深くは立ち入らない。 重要なのは、こうしてわかってきた構成主義的情動理論によって古典的情動理論が否定され、古典的情動理論が前提としてきた法制度や思考の枠組みが見直しが迫られているという側面にある。 古典的情動理論を前提とした社会 どういうことか? たとえば、空港警備を担当する米国運輸保安局の職員は、顔や身体の動きに基づいて欺瞞をあばいたりリスクを評価したりする技術を教え込まれていた。 自閉症スペクトラム障害や精神疾患を持つ子供は、他者とのコミュニケーション方法を会得するために、相貌から特定の情動を判別する訓練を受けている。 だが、実際には相貌を「読んで」感情を推し量ることなどできない のにそれを教えている。 陪審制度では被告がいかに悲しみ、反省をしているのかというのが刑罰の重みに影響を与えるが、実際には「どれだけ悲しんでいるか」や「反省しているか」を示す客観的な指標はどこにも存在しない。 裁判では時に、感情の爆発が理性で抑えきれずに反抗に至った事例で「激情」弁護といって自己の行動に関する責任が部分的に軽減されることがあるが、これもたった一つの普遍的な怒りの存在を前提としている。 それだけではなく、突発的な怒りは自己の内なる野獣が解き放たれたような、個人の自由意志では制御不可能なものであるかのように扱われるという前提もそこには存在しているが、実際にはこれも間違っているのである。 つまり、精神疾患から法制度まで、広範に渡る常識を捉え直す必要があるということだ。

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