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「M-1史上最高得点」で優勝を飾ったミルクボーイ 左:駒場孝、右:内海崇。 2人の漫才の魅力とは? 写真:日刊スポーツ新聞社 12月22日に放送された漫才日本一を決める『M-1グランプリ2019』(ABC・テレビ朝日系)で優勝を果たしたのは、無名のダークホースであるミルクボーイだった。 無骨な外見の彼らが披露した漫才はうねるような大爆笑を巻き起こし、ファーストステージでは『M-1』史上最高得点となる681点を記録。 最終決戦でも勢いそのままに審査員7人中6人の支持を得て栄冠を手にした。 ミルクボーイの漫才はなぜ大ウケしたのか。 どこが面白かったのか。 以下、その理由について漫才の内容を紹介しながら分析していく。 松本も絶賛!「行ったり来たり漫才」の魅力 決勝で彼らは2本の漫才を演じた。 基本的なフォーマットはいずれも同じだ。 駒場孝が1つの話題を提示して、それを軸に会話が進んでいく。 1本目の漫才では、駒場が「母親が好きな朝ご飯を思い出せなくて困っている」と言う。 相方の内海崇は、駒場の母親が好きな朝ご飯を言い当てるため、彼女がどんな特徴を挙げていたのか教えてほしいと頼む。 何気ないところだが、この導入は秀逸だ。 漫才の冒頭で駒場が謎を提示し、内海がその謎を解くという形で会話が進んでいく。 「謎」は物語を駆動させる推進力になる。 ドラマでも小説でも、謎解きを基調にしたミステリーという分野には根強い人気がある。 謎が提示されると思わず解きたくなってしまうのが人間の本能だ。 ここで彼らは、漫才という短い会話劇の世界に観客を引き込むことに成功している。 駒場は「甘くてカリカリしていて牛乳をかけて食べるやつ」という特徴を挙げる。 これを聞いた内海は拍子抜けしたように「コーンフレークやないか。 その特徴はもう完全にコーンフレークやないか」と断言する。 だが、駒場の表情は晴れない。 駒場は、母親が「死ぬ前の最後のご飯もそれでいい」と言っていたと続ける。 そこで内海も「ほなコーンフレークと違うか」と答えを撤回する。 その後、駒場がコーンフレークっぽい特徴とそうではない特徴を交互に出していき、そのたびに内海の意見がコロコロ変わる。 それが延々と繰り返されることで、駒場の母親が好きだったのはいったい何だったのか、その答えは見失われていく。 この時点ですでに、謎解きは漫才の主題ではなくなっている。 謎解きを軸にすると見せかけて、まっすぐ進んでいたはずの車は、駒場の大胆なハンドルさばきによって大きく左右に揺さぶられる。 審査員の1人である松本人志が2人の漫才を「行ったり来たり漫才」と名付けたのはここから来ている。

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ミルクボーイ【動画】ネタまとめ!M1優勝史上最高得点で大注目!!

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『M-1グランプリ 2019』ではミルクボーイが優勝した。 無名の漫才コンビが、一夜にして有名になった。 そのシンデレラストーリーが今年も見られた。 一晩で芸人の人生が変わる様子は、見ている者も幸せな気分にしてくれる。 ミルクボーイが見せた「ボケ数」が少なくても受ける漫才の凄み ミルクボーイの漫才は力強かった。 決勝の第一ステージで見せた漫才は「コーンフレーク」の話。 ファイナルステージでは同じパターンの「最中 もなか 」の話だった。 ボケの数が多いわけではない。 設定としては、「うちの母が、好きな『朝ごはん』の名前を忘れてしまったので、それが何かを2人で考えてみる」というものだ。 2回目はそれが「好きなお菓子」の名前になる。 どちらも最初のひと言で「コーンフレーク」や「最中 もなか 」であることがわかり、本当にコーンフレークや最中 もなか なのかという検証で4分を過ごす。 コーンフレーク編では、やりとりが10回あった。 「甘くてカリカリしてて牛乳かけて食べるもの」というコーンフレークそのものの説明があって、あと9回、説明がある。 「死ぬ前の食事にできる」から始まり「栄養バランスの五角形が大きい」「晩ごはんでも食べる」「子供のころの憧れ」「お坊さんの修行でも食べる」「パフェで使われる」「ジャンルは中華」「食べてるときに感謝しにくい」と続いて、最後に「でも母はコーンフレークではないと言っている」と9回続く。 いわば4分間で9回しかぼけていない。 M-1の決勝ステージでの漫才としては、ボケの数がとても少ない。 (最後に締めのお父さんの言葉が入るので、通算でボケは10回)。 ただ、どれも笑いが深く、大きかった。 おかんの言葉を伝えるボケ役(駒場)が「死ぬ前の最後のごはんもそれでいいと言うんや」と言い、それを受けてツッコミ(内海)が「ほな、コーンフレークと違うか。 コーンフレークはまだ寿命に余裕があるから食べてられるんや」で爆笑を取り、一気につかんでいった。 彼らがチャンピオンになったのは、この最初のツッコミにあったとおもう。 「コーンフレークは、まだ寿命に余裕があるから食べてられるんや」にはまいった。 そんなこと考えたこともなければ、聞いたこともない。 でも言われてみればそのとおりだ。 このひと言でつかまれ、その味わいを持続したままハイテンションでつっきり、ファイナルステージの最後まで持っていかれた。 二人の音のバランスもいい。 ボケのおとなしめだがクリアな言葉と、ツッコミ役がどんどん大きな声になって、わかりやすく説明する声。 このバランスが笑いを生み続けた。 ファイナルステージの「最中 もなか 」も同じである。 「薄茶色のぱりぱりの皮でアンコを包んだやつ」という説明のあとに、こんどは5往復10回の説明があった。 同じパターンだけど、2回目も笑いに笑う。 ツッコミ内海の説明が、しだいに想像を越えてくるからだ。 いままで聞いたことのない表現で最中 もなか を説明しながら、それでいて「言えてるなー」とおもわせるセンスがすごかった。 この漫才の内容は古びない。 落語的でもある。 何度でも聞ける。 世にコーンフレークと最中 もなか があるかぎり演じられる。 おそらく他の漫才師が寄席の舞台で話しても(彼らほどではないにしても)受ける内容である。 古典化できる内容である。 そこもすばらしい。 かまいたちが見せた「わざと崩す」技術と、ぺこぱの衝撃 2位になった「かまいたち」もすばらしかった。 1つめは「USJをUFJと言い間違えた男」の話で、2つめは「トトロを見ていないことを自慢する男」だった。 いかにもありそうなテーマながら、自説を曲げずに異様なテンションになっていく男を見せる。 他人の話を聞かずに自説を固持し、少し狂気じみていくさまを見せて、どんどん引き込んでいった。 ただ、かまいたちの凄さは、そのまま走りきらないで、ゴール手前でまた妙なギャグを入れてくるところにもある。 1回めのステージでは「一回聞いただけでは意味が取れないフレーズ」を入れてきて漫才そのものを止めた。 最終ステージでは「不思議なところで息継ぎをする」ということをやった。 残り1分を切ったあたりで、それを入れてきた。 お笑い好きにとっては、こういうのがたまらない。 勢いで逃げ切ればいいのに、そんなことしないで、もう1つサービスしてくれるのである。 かまいたちのステージは笑いの数は多い。 最初のステージでは29、ファイナルでは19だった。 そして、いま指摘した変な笑いは29のうちの26番目と19のうちの17番目だった。 この「わざと崩してくる笑い」は高く評価されているとおもう。 3位のぺこぱは新鮮だった。 何だかつかみにくいボケに対して、ツッコミは正統にツッコミかけるが、途中から相手の行動を認めてしまう。 やさしさに満ちている。 つっこまないツッコミである。 こんな漫才はいままで見たことがなかった。 私はいまセリフを書き写してボケ数を数えているのだが、彼らの漫才は、文章ではまったくおもしろさが伝わらない。 ボケは言葉ではなく動きで見せるものが多く、ツッコミもたとえば「どこ見て運転してるんだよ、と言えてる時点で、無事でよかった」という文章になってしまう。 テンションがわからず読むと、まあそのとおりだ、としかおもえない。 ツッコミが途中で転調していきなり許すモードになっていく、その転調の音として面白いのであって、言葉がおもしろいわけではない。 書いてみるとよくわかる。 ぺこぱの笑うポイントはだいたい17から18である。 ツッコミが反転していく回数がそんなものなのだ。 人を許す「やさしい漫才」でもある。 こんなツッコミをしてくれる人が現実にはぜったいいない。 そのぶん強い笑いを誘ってるように見える。 やさしい漫才は、いまの世情の何かを反映しているように見える。 上沼恵美子は和牛のどこを叱っていたのか 惜しくもファイナルステージ残れなかったのが4位の和牛。 最初ゆるやかな笑いで入っていって、最後にどんどん盛り上がっていく漫才だった。 全部でお笑いポイントは24くらい。 しっかりした笑いにするのは15番目くらいからで、そこまではツッコミも静かである。 後半どんどん声を張っていって、ツッコミが「いいね」というのがボケの味わいも出していって、19番目くらいから最後までが大笑いのツボになっていた。 最初小さい笑いで始め、最後大笑いで終える。 しかも和牛は、大丈夫まっててね、最後は笑えるから、というような余裕を感じさせるステージを見せていた。 ちゃんとした商品になっている。 上沼恵美子はそこを指摘したのだ。 「ここは、そんなキレイな芸を見せるとことちゃうで」ということなのだろう(推測です)。 「みんな必死で笑い取りに来てるのに、なんでもっとがむしゃらに来いひんねん、なんで他の連中とは違うでというような余裕みせてんねん」というおもいだったのではないか。 「あんたらもう、こんなとこ出てる芸人ちゃうで、もう上のほうへ行きなさい」という意味にも感じた(あくまで個人的な推察です)。 笑いのポイントの数を数えていると、それぞれの笑いのスタイルの特徴がわかってくる。 見取り図は、いちおうボケとツッコミがしっかり分かれていて、それは二人の声質が違うというところにも明確にあらわれてる(ミルクボーイの二人も、そこをかなり意識的にやっていたとおもう)。 でも途中、お互いを罵り合うところで、ボケ役もツッコミセリフを言うようになり、それをツッコミの盛山が拾う。 ただ盛山のツッコミセリフをボケ役はいっさい拾わない。 その構図がどんどんおもしろくなってくる。 会話の成り立ってない二人、という味わいなのだ。 笑うポイントは25回だった。 ゆったり喋ってるようで、けっこう詰め込んできている。 からし蓮根はきれいにボケとツッコミを分けているコンビだ。 ボケはあまり言葉でボケずに身体的な動きでボケることが多い。 そのぶん、ツッコミの台詞が長くなる。 だいたい笑いポイント(ボケ数)は20。 ツッコミが熊本弁なので、一瞬わからないのがいくつかあった。 申し訳ない。 文章に起こしても笑えるオズワルド オズワルドも、オーソドックスなボケとツッコミの漫才。 彼らのやりとりは、文章で起こしても笑えるものだった。 「ふつうに考えてプロの板前とただのシロウト、どっちがいいかわかるだろ」「逆に聞かせてもらうけどさ、猿が見つけた松茸と、アメリカで食べる茶碗蒸し、これどっちがいいかわかるよね」「……それ板前はどっち?」 文章力の高そうな漫才である。 ボケ数は全体で22くらいあって、8番目くらいまではかなり低いテンションで展開し、そこからどんどん上げていく漫才だった。 その構成もじつに見事だった。 すゑひろがりずは、かなり飛び道具な漫才である。 昔の三河万歳 みかわまんざい のような格好で出てきて(能楽師か狂言師なのかもしれない)片方が扇子を持ってボケ、片方が鼓を叩いてツッコむ。 それですべてである。 私の知っている昭和時代に残っていた昔の「万歳 まんざい 」とも全然違う。 言葉のやりとり(行き違い、勘違い)としてのボケの数は少ない。 行き違いとしては1回だけ(合コンとは豪華な金色堂の略)、あとクイズ形式のやりとりを入れても9回しかない。 ただ「さすらば店の者を呼んで参ります」というふつうセリフが、すでにボケでもあるので、数え方が難しい。 それを入れたらとんでもなく多いが、それぞれくすくす笑いしか起こっていないので、正式なボケとは数えにくい。 言葉のやりとりの漫才ではなく、ディスコミュニケーションから笑いを取ってるたぐいの漫才で、格好は古いが、内容はかなり現代的である。 二人の作る世界をただ楽しむしかない。 インディアンスは、元気にふざけているボケの田渕が、相方の制止も聞かずに好き放題喋る漫才である。 ふだんの番組で、何組かの1つとして出てくると箸休め的に楽しいのだが、1つずつを真剣にみるコンテストでは、ちょっとつらかった。 笑わせようとしてるポイント(ボケの数)を数えようとすると、田渕のいろんなセリフは、ほぼただの悪ふざけの一人言とみなすしかなく、相方が拾ったものだけを笑いポイントと数えるほかはないのだ。 田渕の喋りは、場は明るくなるが、笑いにはなっていない。 ツッコミの重要性があらためてよくわかる。 だから「小さなボケ14」というのが私が数えたボケ数である。 それも刹那的なギャグばかりだ。 ひとつだけ「かわいくもたれかかって寝る女子が無呼吸症」という設定にのっとったボケだった。 1つだけではむずかしい。 ボケる回数と漫才の質 トップバッターだったニューヨークは歌ネタだったので、ボケ役はただ歌うだけで、ツッコミは傍観しつつときどきツッコむという展開だった。 言葉のやりとりがない。 松本人志は、半笑いでツッコむなと言っていたが、それは二人が会話してないからである。 ずっと歌っている相方の横で、傍観者としてときどき感想を言うばかりだから、それは半笑いにもなるだろう。 松本が注意したのは、二人の距離感でもあったとおもう。 ニューヨークのボケの数は30だった。 数だけはトップである。 勝手にボケてツッコミを待たないので多くなる。 ボケ数が最高数だったが、審査員の得点は一番低かった。 残念である。 漫才はボケ数が多ければいい、というものではない。 数値化するとより明確になる。 質であり、客を笑いに引き込む深さである。 演者はうしろにどんな深さを感じさせるのかも測られている。 今年もまたいろんな新しい漫才が生まれた。 野心を持った若い連中が、その才能を注ぎ込む場となった漫才の世界は、いつみても衝撃的におもしろい。

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ミルクボーイコーンフレークネタ文字起こしで内容もオチも完璧に!ツイッターも

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『M-1グランプリ 2019』ではミルクボーイが優勝した。 無名の漫才コンビが、一夜にして有名になった。 そのシンデレラストーリーが今年も見られた。 一晩で芸人の人生が変わる様子は、見ている者も幸せな気分にしてくれる。 ミルクボーイが見せた「ボケ数」が少なくても受ける漫才の凄み ミルクボーイの漫才は力強かった。 決勝の第一ステージで見せた漫才は「コーンフレーク」の話。 ファイナルステージでは同じパターンの「最中 もなか 」の話だった。 ボケの数が多いわけではない。 設定としては、「うちの母が、好きな『朝ごはん』の名前を忘れてしまったので、それが何かを2人で考えてみる」というものだ。 2回目はそれが「好きなお菓子」の名前になる。 どちらも最初のひと言で「コーンフレーク」や「最中 もなか 」であることがわかり、本当にコーンフレークや最中 もなか なのかという検証で4分を過ごす。 コーンフレーク編では、やりとりが10回あった。 「甘くてカリカリしてて牛乳かけて食べるもの」というコーンフレークそのものの説明があって、あと9回、説明がある。 「死ぬ前の食事にできる」から始まり「栄養バランスの五角形が大きい」「晩ごはんでも食べる」「子供のころの憧れ」「お坊さんの修行でも食べる」「パフェで使われる」「ジャンルは中華」「食べてるときに感謝しにくい」と続いて、最後に「でも母はコーンフレークではないと言っている」と9回続く。 いわば4分間で9回しかぼけていない。 M-1の決勝ステージでの漫才としては、ボケの数がとても少ない。 (最後に締めのお父さんの言葉が入るので、通算でボケは10回)。 ただ、どれも笑いが深く、大きかった。 おかんの言葉を伝えるボケ役(駒場)が「死ぬ前の最後のごはんもそれでいいと言うんや」と言い、それを受けてツッコミ(内海)が「ほな、コーンフレークと違うか。 コーンフレークはまだ寿命に余裕があるから食べてられるんや」で爆笑を取り、一気につかんでいった。 彼らがチャンピオンになったのは、この最初のツッコミにあったとおもう。 「コーンフレークは、まだ寿命に余裕があるから食べてられるんや」にはまいった。 そんなこと考えたこともなければ、聞いたこともない。 でも言われてみればそのとおりだ。 このひと言でつかまれ、その味わいを持続したままハイテンションでつっきり、ファイナルステージの最後まで持っていかれた。 二人の音のバランスもいい。 ボケのおとなしめだがクリアな言葉と、ツッコミ役がどんどん大きな声になって、わかりやすく説明する声。 このバランスが笑いを生み続けた。 ファイナルステージの「最中 もなか 」も同じである。 「薄茶色のぱりぱりの皮でアンコを包んだやつ」という説明のあとに、こんどは5往復10回の説明があった。 同じパターンだけど、2回目も笑いに笑う。 ツッコミ内海の説明が、しだいに想像を越えてくるからだ。 いままで聞いたことのない表現で最中 もなか を説明しながら、それでいて「言えてるなー」とおもわせるセンスがすごかった。 この漫才の内容は古びない。 落語的でもある。 何度でも聞ける。 世にコーンフレークと最中 もなか があるかぎり演じられる。 おそらく他の漫才師が寄席の舞台で話しても(彼らほどではないにしても)受ける内容である。 古典化できる内容である。 そこもすばらしい。 かまいたちが見せた「わざと崩す」技術と、ぺこぱの衝撃 2位になった「かまいたち」もすばらしかった。 1つめは「USJをUFJと言い間違えた男」の話で、2つめは「トトロを見ていないことを自慢する男」だった。 いかにもありそうなテーマながら、自説を曲げずに異様なテンションになっていく男を見せる。 他人の話を聞かずに自説を固持し、少し狂気じみていくさまを見せて、どんどん引き込んでいった。 ただ、かまいたちの凄さは、そのまま走りきらないで、ゴール手前でまた妙なギャグを入れてくるところにもある。 1回めのステージでは「一回聞いただけでは意味が取れないフレーズ」を入れてきて漫才そのものを止めた。 最終ステージでは「不思議なところで息継ぎをする」ということをやった。 残り1分を切ったあたりで、それを入れてきた。 お笑い好きにとっては、こういうのがたまらない。 勢いで逃げ切ればいいのに、そんなことしないで、もう1つサービスしてくれるのである。 かまいたちのステージは笑いの数は多い。 最初のステージでは29、ファイナルでは19だった。 そして、いま指摘した変な笑いは29のうちの26番目と19のうちの17番目だった。 この「わざと崩してくる笑い」は高く評価されているとおもう。 3位のぺこぱは新鮮だった。 何だかつかみにくいボケに対して、ツッコミは正統にツッコミかけるが、途中から相手の行動を認めてしまう。 やさしさに満ちている。 つっこまないツッコミである。 こんな漫才はいままで見たことがなかった。 私はいまセリフを書き写してボケ数を数えているのだが、彼らの漫才は、文章ではまったくおもしろさが伝わらない。 ボケは言葉ではなく動きで見せるものが多く、ツッコミもたとえば「どこ見て運転してるんだよ、と言えてる時点で、無事でよかった」という文章になってしまう。 テンションがわからず読むと、まあそのとおりだ、としかおもえない。 ツッコミが途中で転調していきなり許すモードになっていく、その転調の音として面白いのであって、言葉がおもしろいわけではない。 書いてみるとよくわかる。 ぺこぱの笑うポイントはだいたい17から18である。 ツッコミが反転していく回数がそんなものなのだ。 人を許す「やさしい漫才」でもある。 こんなツッコミをしてくれる人が現実にはぜったいいない。 そのぶん強い笑いを誘ってるように見える。 やさしい漫才は、いまの世情の何かを反映しているように見える。 上沼恵美子は和牛のどこを叱っていたのか 惜しくもファイナルステージ残れなかったのが4位の和牛。 最初ゆるやかな笑いで入っていって、最後にどんどん盛り上がっていく漫才だった。 全部でお笑いポイントは24くらい。 しっかりした笑いにするのは15番目くらいからで、そこまではツッコミも静かである。 後半どんどん声を張っていって、ツッコミが「いいね」というのがボケの味わいも出していって、19番目くらいから最後までが大笑いのツボになっていた。 最初小さい笑いで始め、最後大笑いで終える。 しかも和牛は、大丈夫まっててね、最後は笑えるから、というような余裕を感じさせるステージを見せていた。 ちゃんとした商品になっている。 上沼恵美子はそこを指摘したのだ。 「ここは、そんなキレイな芸を見せるとことちゃうで」ということなのだろう(推測です)。 「みんな必死で笑い取りに来てるのに、なんでもっとがむしゃらに来いひんねん、なんで他の連中とは違うでというような余裕みせてんねん」というおもいだったのではないか。 「あんたらもう、こんなとこ出てる芸人ちゃうで、もう上のほうへ行きなさい」という意味にも感じた(あくまで個人的な推察です)。 笑いのポイントの数を数えていると、それぞれの笑いのスタイルの特徴がわかってくる。 見取り図は、いちおうボケとツッコミがしっかり分かれていて、それは二人の声質が違うというところにも明確にあらわれてる(ミルクボーイの二人も、そこをかなり意識的にやっていたとおもう)。 でも途中、お互いを罵り合うところで、ボケ役もツッコミセリフを言うようになり、それをツッコミの盛山が拾う。 ただ盛山のツッコミセリフをボケ役はいっさい拾わない。 その構図がどんどんおもしろくなってくる。 会話の成り立ってない二人、という味わいなのだ。 笑うポイントは25回だった。 ゆったり喋ってるようで、けっこう詰め込んできている。 からし蓮根はきれいにボケとツッコミを分けているコンビだ。 ボケはあまり言葉でボケずに身体的な動きでボケることが多い。 そのぶん、ツッコミの台詞が長くなる。 だいたい笑いポイント(ボケ数)は20。 ツッコミが熊本弁なので、一瞬わからないのがいくつかあった。 申し訳ない。 文章に起こしても笑えるオズワルド オズワルドも、オーソドックスなボケとツッコミの漫才。 彼らのやりとりは、文章で起こしても笑えるものだった。 「ふつうに考えてプロの板前とただのシロウト、どっちがいいかわかるだろ」「逆に聞かせてもらうけどさ、猿が見つけた松茸と、アメリカで食べる茶碗蒸し、これどっちがいいかわかるよね」「……それ板前はどっち?」 文章力の高そうな漫才である。 ボケ数は全体で22くらいあって、8番目くらいまではかなり低いテンションで展開し、そこからどんどん上げていく漫才だった。 その構成もじつに見事だった。 すゑひろがりずは、かなり飛び道具な漫才である。 昔の三河万歳 みかわまんざい のような格好で出てきて(能楽師か狂言師なのかもしれない)片方が扇子を持ってボケ、片方が鼓を叩いてツッコむ。 それですべてである。 私の知っている昭和時代に残っていた昔の「万歳 まんざい 」とも全然違う。 言葉のやりとり(行き違い、勘違い)としてのボケの数は少ない。 行き違いとしては1回だけ(合コンとは豪華な金色堂の略)、あとクイズ形式のやりとりを入れても9回しかない。 ただ「さすらば店の者を呼んで参ります」というふつうセリフが、すでにボケでもあるので、数え方が難しい。 それを入れたらとんでもなく多いが、それぞれくすくす笑いしか起こっていないので、正式なボケとは数えにくい。 言葉のやりとりの漫才ではなく、ディスコミュニケーションから笑いを取ってるたぐいの漫才で、格好は古いが、内容はかなり現代的である。 二人の作る世界をただ楽しむしかない。 インディアンスは、元気にふざけているボケの田渕が、相方の制止も聞かずに好き放題喋る漫才である。 ふだんの番組で、何組かの1つとして出てくると箸休め的に楽しいのだが、1つずつを真剣にみるコンテストでは、ちょっとつらかった。 笑わせようとしてるポイント(ボケの数)を数えようとすると、田渕のいろんなセリフは、ほぼただの悪ふざけの一人言とみなすしかなく、相方が拾ったものだけを笑いポイントと数えるほかはないのだ。 田渕の喋りは、場は明るくなるが、笑いにはなっていない。 ツッコミの重要性があらためてよくわかる。 だから「小さなボケ14」というのが私が数えたボケ数である。 それも刹那的なギャグばかりだ。 ひとつだけ「かわいくもたれかかって寝る女子が無呼吸症」という設定にのっとったボケだった。 1つだけではむずかしい。 ボケる回数と漫才の質 トップバッターだったニューヨークは歌ネタだったので、ボケ役はただ歌うだけで、ツッコミは傍観しつつときどきツッコむという展開だった。 言葉のやりとりがない。 松本人志は、半笑いでツッコむなと言っていたが、それは二人が会話してないからである。 ずっと歌っている相方の横で、傍観者としてときどき感想を言うばかりだから、それは半笑いにもなるだろう。 松本が注意したのは、二人の距離感でもあったとおもう。 ニューヨークのボケの数は30だった。 数だけはトップである。 勝手にボケてツッコミを待たないので多くなる。 ボケ数が最高数だったが、審査員の得点は一番低かった。 残念である。 漫才はボケ数が多ければいい、というものではない。 数値化するとより明確になる。 質であり、客を笑いに引き込む深さである。 演者はうしろにどんな深さを感じさせるのかも測られている。 今年もまたいろんな新しい漫才が生まれた。 野心を持った若い連中が、その才能を注ぎ込む場となった漫才の世界は、いつみても衝撃的におもしろい。

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