浄土宗とは。 浄土宗 - 浄土宗平和協会

浄土宗と浄土真宗3つの違い・どっちが助かりやすい?

浄土宗とは

浄土宗• この中でも、浄土宗と特に繋がりが深いのがです。 浄土真宗の宗祖とされる親鸞は、法然の弟子の1人だからですね。 親鸞の教えを元に開宗された宗派が浄土真宗なのです。 同じ浄土宗でも、さらにいくつかの派に分かれています。 その中で2大勢力が「鎮西派 ちんぜいは 」と「西山派 せいざんは 」になります。 浄土宗の歴史 鎮西派と西山派について説明する前に、浄土宗の歴史について簡単に説明します。 宗祖である法然の弟子の中で、浄土宗の歴史に関わりが深い弟子が7人います。 法然が入滅後、浄土宗を引き継いだのは長老であった「信空」という弟子でした。 一方、他の人6人はというと、法然の教えを学びつつも互いに解釈が少し異なっていました。 そして信空が入滅後、6人は別々の道を歩み始めます。 証空・・・後の 西山派• 弁長・・・後の 鎮西派• この浄土四流の中で、現在まで流れを引き継いでいるのは証空と弁長の教えの流れのみです。 すなわち西山派と鎮西派です。 嘉禄の法難 少し話は逸れますが、浄土宗の歴史を語る上で欠かせない一つの事件に「嘉禄の法難 かろくのほうなん 」があります。 法然の死の十数年後、浄土系仏教 念仏教団 への弾圧が起こりました。 この際、法然の遺体を鴨川に捨てられてしまう危険が迫ったのです。 弟子達は法然の遺体を、知恩院から運び出して危険を回避しました。 これを「嘉禄の法難」と呼んでいます。 法然の命日である1月24日には、毎年「嘉禄の法難念仏行脚」という行事が行われ、 浄土系の団体が宗派の垣根を越えて法然を偲んでいます。 この時ばかりは鎮西派も西山派も関係ないのです。 念仏行脚は京都冬の風物詩の一つにもなっていますので、興味のある方は見に行ってみるのも面白いでしょう。 スポンサーリンク 鎮西派と西山派の違い 鎮西派 西山派 宗教法人浄土宗 含まれる 含まれない 教義 二類各生説 一類往生説 大きな違いは上記の通りです。 詳しく解説していきます。 宗教法人浄土宗に西山派は含まれない 浄土宗の2大勢力の鎮西派と西山派。 しかし、現在「浄土宗」と呼ぶと、多くの場合は鎮西派のことを指すのです。 西山派は浄土宗とは別の宗派なのです。 つまり、同じ「浄土」の文字が入ってはいるものの、宗教法人浄土宗に西山派は含まれないということです。 法然が開いた浄土宗に端を発することは、両派ともに同じです。 しかし開宗以降、法然が開いた浄土宗は、長い歴史の中で分派統合を繰り返していきます。 いくつにも分かれた宗派を、鎮西派を中心にまとめたのが現在の「宗教法人浄土宗」なのです。 この統合された「宗教法人浄土宗」に西山派は含まれなかったのです。 鎮西派と西山派の教義の違い 両者の大きな違いの一つが教義です。 鎮西派は「二類各生説」を、西山派は「一類往生説」を説いています。 一類往生説とは 一類往生説とは「念仏を唱えましょう。 念仏こそが皆が極楽往生できる唯一の方法です」という思想です。 念仏を唱え、仏を念じることで他力によって往生することを、第一に考えるという浄土宗の基本思想ですね。 簡単に言うと「 自力では往生できず、他力 =阿弥陀の力 による往生しか不可能だ」ということです。 二類各生説とは 一方、二類各生説はというと… 「念仏を唱えましょう。 念仏は皆が極楽往生できる方法です。 ただ善行を働くことも極楽往生するための方法になりますよ」という思想です。 言い換えると「 阿弥陀仏による他力往生だけではなく、自分の行い=自力である善行によっても極楽往生が可能」ということです。 両者とも「極楽往生」のために、念仏に重きを置いていることは共通しています。 しかし、西山派は「他力のみ」であるのに対し、鎮西派は「他力でも自力 善行 でも」極楽往生の手段になると説いているのです。 この点が鎮西派と西山派の大きな違いと言えます。 西山派の種類|西山三派 鎮西派は様々な流派が統合され、宗教法人浄土宗となりました。 しかし、西山派には統一されていない流派があり、それらは「西山三派」と呼ばれています。

次の

毎日のおつとめ

浄土宗とは

「」ともいう。 いかなるであろうと、へのを目指すならといえる。 例えば あしゅくぶつのへのを目指す教えもである。 また、のへのも、広い意味ではに含められる。 ただし、一般にという場合、「」等に説かれるところの、のへのを目指す教え・を指すことが大半である。 これは諸々の仏・の中で、・が群を抜いて広くを集めたからといえよう。 以下では、この(すなわち)へのを目指す教えに限って述べる。 [教理] の教えは二段階でを目指す点に特色がある。 以外の教え(門)が、この迷いので直接を目指すのに対し、()は、この迷いのではまずへのを目指し、にしたのち、そこでを積んで・を目指す。 よって、が説かれていても、へのが目指されていなければ、それは厳密な意味ではとはならない。 には二つの条件がある。 一つは行。 するために必要な「」のことである。 の根本聖典である『』では、はの第十八・十九・二十願、および下巻の冒頭とそれに続く段に説かれると見なすのが一般的である。 特にその後のの歴史において、はの中心としてより明確にされるようになってゆく傾向を有し、また自体もからへと重心が推移してゆく傾向がみられる。 そしてこれらの傾向の到達点がである。 は第十八願のみにが説かれているとして、そこに説かれるはのみ、しかもそれはに限るとした。 また、は門の行が難行であるのに対し、の行は易行であると位置づけ、その後のにおける基準となってゆく。 もう一つの条件は信である。 また後半の「我が国に生ぜんと欲」する心も、心として広い意味での信に分類され、その意味ではにおいて信は最初期の段階からの必要条件であった。 ただし、信は行と並列的に重視されたかというと、基本的に以前は信より行が重視されていたといえる。 例えば、『』なども、行を中心に全体が構成されていて、信が行と対等、もしくはそれ以上に重視されるようになるのは、やはりをもってその 嚆矢 こうしとする。 この行と信という二つの条件が揃えば、は自身の(力)すなわちをにし、はそのに乗じてにすることになる(なお、の考え方が明確に説き示されるようになるのは、中国の以降といえる)。 ところで、そのものは基本的には死の瞬間になされる。 その際、『』の第十九願に説かれるごとく、はやのを受け、に いんじょうされてに向かう。 までの所要時間は、「」のいずれにおいても瞬時とされる。 また、生まれる際はの蓮池にある蓮のつぼみの中に けしょうする。 その蓮が開いて後は、でを行う。 の諸要素はに最適の環境となっており、とが増進する。 さらににすれば皆、のとなる故に、が退転することもない。 しかも、第十一と第二十二において、はにした者をに至らしめると誓っているので、すれば必ずすることができることになる。 なお、後のについてはあまり述べられることはないが、『』では「の諸」や「諸もろの門」(聖典一・二六〇/)が、また『』では段で・といった行が説かれる。 も後の行として、『』で「にせさせおわしまして、観音を師として『法華』のの妙理、『』の第一義空、の、一切の、心のままに 解 さとらせおわしますべし」(聖典四・三九五/昭法全六三二)と説いている。 [の起源] は他方仏・・といった的要素を前提としており、まさにの教えの一つといえる。 としては最古の教えの一つで、紀元前後にその原型が現れ、紀元一、二世紀頃に『』『』の原初形態が成立したものと推測されている(ただし『』は四、五世紀の成立で、成立地についても中央アジアをはじめ、諸説がある)。 ・に言及する経典の漢訳者の出身地や燃灯仏との関係などからして、は西北インドで成立したと推測されている。 やに言及する経典は『』をはじめとして二九〇以上現存するが、・、そしてそこへのを主題とする経典はいわゆる「」に限るということができる。 一方、論書としては、まず作と伝える『』が、等に対する「()」を初めて明確に説き示した点()、ののに注目される()を説く点で重要である。 また、『』の説などもとの類似性が指摘されているが、何といっても()作と伝える『』は、現存するインド典籍で唯一、のみについて説く論書である点、という体系的なを説いた点でも重要といえる。 したがってでは「」に本書を加えて「」とし、所依の論書に位置づけている。 八世紀中国のが『』に「諸教の讃ずるところ、多くにあり」()と述べているように、インド以来、のとが他を圧倒していたことがわかる。 それらの中でも特に重要なものとして、はを、はとを挙げ、また『』には五〇〇部を超えるの典籍が列挙されている。 中国における独自のは、はやく東晋のにはじまる。 は有志とともに結社を組織してに励んだといわれている。 つづく南北朝になると、の像が多く造られるとともに、万善万行の実践とそのによるを願うようになった。 ただしへの希求やとの融合が顕著で、の純粋なとは異なる。 これが南北朝末期になると、ようやくの造像・への・としてのの三者が揃ってくる。 それは『』の流布と係ではない。 つまり『』に説かれる因(実践行)と果()の関係が浸透してきた結果である。 つづく隋唐でも『』の影響は大きく、経典の注解だけではなく、を通した、、、の実践が民衆に広まり、、、の教理を取り入れたは新たな局面へと進展していった。 それを牽引したのはや、またやであった。 また、この時代の各種類に、経典に説かれている実践体系の拘束を受けないが土着的習俗とともに描写されていることは注目できる。 隋唐までのはや組織が厳格ではなく、単なるグループにとどまっていた。 しかし長い間諸宗に附属するグループであったということが、結果的にはの教理を深化させることになった(たとえば華厳・天台・・禅浄・律浄などの台頭)。 これらの相違をめぐる議論と実践の過程ではしだいに醸成されていったのであり、実はこのことがの衰退を抑止したともいえる。 宋代になり、宗暁の『』やの『』において、それぞれ六祖との説が立てられ、また東晋のを慕う士大夫や知識人らが新しい結社を組織して盛んに活動を展開することにより、を独立した宗派として立ち上げようとする機運が高まっていく。 ついで一六世紀明代の うんせいしゅこうが八祖に選定されると、は中国における地位を獲得するにいたる。 近代以後のの基礎は、このによって確立された。 その著作はによって『』三四巻としてまとめられた。 満州族が支配した清朝のはといわれるように、在家知識人による研究と実践が盛んであり、清末になるとの権威は失墜していく。 では彭際清が『観経約論』一巻や『』九巻を著しての宣揚につとめ、楊文会も中国で散逸した聖典を日本から譲り受けて金陵刻経処において発刊した。 者ではが各種事業や書を印行するとともに、を広めた功績により第一三祖となる。 その少し後に出た太虚は人間、禅をした傑僧として著名である。 現代中国においてもは広く社会に浸透しているが、全国のを統括するような組織というものはなく、真俗一貫のとしてや『』がされ、地域を問わず親しまれている。 特に旧暦の一一月一一日から一七日までは、大陸も台湾もの誕生日を祝う打仏七(打七・打七)を盛大に行っているが多数ある。 【参考】望月信亨『支那浄土教理史』(法蔵館、一九四二)、小笠原宣秀『中国近世浄土教史の研究』(百華苑、一九六三)、道端良秀『中国浄土教史の研究』(法蔵館、一九八〇)、野上俊静『中国浄土教史論』(同、一九八一)、陳揚炯著・大河内康憲訳『中国浄土宗通史』(東方書店、二〇〇六) 【執筆者:齊藤隆信】 三 [日本] 日本においては、飛鳥時代の七世紀初めにが伝来していたようで、既に恵隠が七世紀中頃に『』の講義を行っている。 ただし、・・薬師などに比べるとそのは微々たるものであったと考えられるが、に広まりをみせてゆき、・が伝来・作成され、さらには奈良時代になるとが造立された記録が残されている。 経典としては『』『』が普及し、論書では・系と新羅系が多く伝来した。 の論書を著した学僧としては、の、の ちけい(憬)、の善珠が知られるが、そこにはの影響が強く見られる。 また、この時代ではやといった現存するの伝来・作成も見逃せない。 ただし、少なくとも奈良時代までは、は説かれても、それはが目的であり、またそのも庶民まで浸透していたかは不明である。 平安時代になると、三祖が、唐より持ち帰ったのを常行として修し、それが(特にのそれを「山の」と呼ぶ)となって、天台の礎が築かれることになる。 そして九世紀後半から一〇世紀には、増命・実性などの者が現れ、・・禅瑜・・覚運などがの論書を著すに至る。 その一方で一〇世紀には あみだひじりと呼ばれるが出て、庶民にを広めたと伝える。 その中で、日本にを定着させるに最も功績があったのは、やはりといえよう。 その著『』がに与えた影響は、同時代・を問わず、非常に大きい。 例えば結社のの成立もその一つであり、さらには平安後期から鎌倉期に掛けて盛んに作成された「」も、に影響された よししげのやすたねが『』を著したのに始まる。 この『』を契機として、貴族・を中心に、個人として自身のを願うが格段に広まってゆくこととなる。 さらに天台の広まりを受けて、ではを中心に・・覚樹・重誉などが、また系でも かくばん・・仏厳などがを宣揚した。 なお、平安時代は貴族等へのの広まりとあいまって、や・、さらには・など、文化が最も花開いた時代といえる。 むかえこう()が始まったのもこの時代とされる。 このの広まりと並行して、僧、すなわち 聖 ひじりが数的にも質的にもその活動を活発化させてゆく。 この聖のうちの相当数は者と推定され、しかも聖はに住するか、諸国をしたので、民衆と接する機会も多く、民衆にを広めるのに大きな役割を果たしたようである。 このような中、平安末から鎌倉初期にかけてが出てをたて、ここにが史上初めて、一宗として独立した。 しかもその教えは「」という、それまでのとは一線を画する革新的な教えであった。 現在、日本に弘まっているのうち、を祖とするを除けば、・・・など、すべてがの流れを汲むものである。 室町時代になると、も再び神祇やと関係を持つようになり、また思想の影響も見られるようになる。 その一方で、他の宗派同様、民衆とのつながりを一層深めてゆく。 それはが葬儀と強く結び付いた事実や、の成立、の教えがの精神的支柱となったことなどからうかがえる。 江戸時代になると、系諸宗も江戸幕府という強靱な国家体制の中に組み込まれることとなる。 における「」の復活や、におけるなど、新たな展開も見られるが、基本的には的傾向を強め、の時代のや、室町期のといった、反権力的性格は見られなくなる。 明治に入るとが界を襲うが、その中、では 養鸕 うがい 徹定 てつじょう・、では清沢満之・ 暁烏敏 あけがらすはやなどが活躍して、との維持に努めた。 これらの西域ルートを通じて、関係の典籍も中国へともたらされ漢訳された。 後漢末に『』を訳した 支婁迦讖 しるかせんは大月支(氏)の出身、後秦代に『』を訳したはクチャ(亀茲)の出身であり、西域の諸地域において経典がある程度流布しのが行われていたであろうことが推測される。 また、『』は、西域出身の きょうりょうやしゃの訳とされているが、サンスクリット原典もチベット訳もないため、西域で行われていたのを整理しの悲劇を舞台設定として、トルファン付近で成立したのではないかとする説もある。 また、後代には漢訳の『』が語にも翻訳されており、西域での流行がうかがわれる。 また、西域には多くのが 開鑿 かいさくされ、それらの遺跡が各地に残っている。 そこには、明確にと特定しうるやは見られないが、クチャのキジル千仏洞やクムトラ千仏洞、トルファンのベゼクリク千仏洞の遺跡などから出土したや絹画の断片には、隋唐代に流行した中原地域におけるの影響が見られることから、を経て西域へとの芸術が伝わったものと考えられる。 に関しては、にしを願ったコータン語の文などがわずかに残っているが、資料的に限られておりその全容は明らかでない。 総じていえば中国や日本の阿に特化した宗派的なではなく、仏や仏などとともにもされていたものと考えられる。 【執筆者:西本照真】 五 [新羅] 七世紀後半、朝鮮半島に最初の統一国家を樹立した新羅(四世紀半ば—九三五)では、隋唐の影響を受けてが隆盛した。 新羅のの起源については諸説あるが、統一以前、真平王代(五七九—六三一)に恵宿がをし栄州に寺を創建したことが早い事例である。 またこの頃からの研究も盛んになった。 その代表的な僧が、慈蔵(六〇八—六七七頃)、 円測 えんじき(六一三—六九六)、 がんぎょう、、義湘(六二五—七〇二)、、 きょうごう、遁倫(六六〇—七三〇頃)、、などである。 慈蔵は皇龍寺に居住し、『』一巻(欠)、『』一巻(欠)を著した。 これが新羅でもっとも早い経典の注釈書である。 と義湘は慈蔵の居住した皇龍寺でした。 は義湘とともに入唐を志したが途中で中止して帰国した。 その後、研究にし百余部を著した。 その一割がに関するものであり、『』一巻、『』一巻(共に正蔵三七)、『』一巻(正蔵四七)などがある。 『』は偽作説が有力である。 は研究とともに民衆に励み、歌舞・音曲をもちいてを広め、新羅社会にが盛んになった。 義湘はと分かれて入唐し、中国二祖の 智儼 ちごんについて華厳を学び、帰国して浮石寺を開創し、ここを中心に華厳教学を広め海東の初祖と仰がれるが、にも関心が深く、『』一巻(欠)を著し、浮石寺の根本法堂を「殿」としを安置した。 とは伝記不詳であるが、とにはの影響があるので、は・より先輩であり、とは同時代である。 の『疏』二巻、『』二巻は散逸し、『』二巻のみはの復元本(一部損欠)がある。 は伝記不詳だが、義湘のの一人である。 多数の著作があり、韓国・日本の目録類によると二七部を数える。 そのうち五部が経典の注釈であり、『両巻疏』三巻、『疏』三巻、『綱要』、『疏』一巻は散逸し、『述義記』はの復元本がある。 のはの流れを汲むが、・の思想の影響が見える点に特色がある。 は百済の人で、百済が新羅に併合されると新羅の文武王に尊重され、次の神文王のときに国師・国老となった。 学の学僧として著名であり、多数の著作を著している。 関係の著作には『』三巻(正蔵三七)、『略疏』(欠)、『』二巻(欠)、『三経疏』一巻(正蔵三八)などがある。 以上の諸師の思想系統は、の系統と慈恩大師基の系統とに分けられる。 前者は、慈蔵、、義湘、、、などであり、後者は円測、、、遁倫などである。 しかし最近ではをはじめとする『』の思想に立脚する系統と、思想に立脚するらの系統とに分ける説も提示されている。 いずれにしろ諸師は地論・華厳・法相などの教学と並行してを研究する立場で日本のような純粋ではない。 では『』に関心が強く、したがってのについての議論すなわちの分類・名称に関して詳論し、特に第十八願・第十九願・第二十願を重視している。 そして第十八願のについて詳細な議論がなされ自説を提示する。 共通して、『』のと『発問経』の悲等のとを関連させてする点に特色がある。 すなわち、は、をのとし、を助因とし、にのと隠密のがあるとして、『』のはのでのであり、『発問経』の慈等のは隠密のでの念ではなく初地以上ののであり、『』第十八願のはと隠密の両義を合わせたであると主張する。 は、『』第十八・第十九・第二十のを『』のと関係づけて、第十八願を、第十九願を、第二十願をに配当し、第十八願のは上三品人のおこすであるから『発問経』のと同じであり、のではない、という立場に立って『』と『』のとを区別している。 そして『』のを下のとする。 は、の説をほとんどそのまま踏襲している。 は、第十八願を上三品の願とする点はと同じであるが、第十八願のは『』のと同じくのであると主張し、等が第十八願のを『発問経』のと同視するのを批判した。 は、『』第十八願のと『』下のはともにのであって、その中に『発問経』の十種がされると主張した。 と関連しての問題、の問題、のの問題などが議論されている。 諸師の間では、の仏身・仏土を じゅゆうしん・ じゅゆうど、もしくは へんげしん・ 土 へんげどとなすのが大方で、の・説は見えない。 また、新羅ではとが並行してされ、上でも両者の対立・論争はほとんどなかった。 それもの特質である。 は八世紀頃に日本に受容され、平安中期以前のに大きな影響を与えた。 第一のものは、ゲルク派の派祖ツォンカパ・ロサンタクパ(一三五七—一四一九)にはじまる伝統である。 この伝統は主として『』に基づく観想法を整理したツォンカパ作の『』を起源とする。 そしてチャンキャ(一六四二—一七一四)などのゲルク派の学僧やニンマ派に所属するミパムギャムツォ(一八四六—一九一二)たちによる注釈書あるいは観想手引書類がこの伝統の中で著されてきた。 その起源をなす『』の中でツォンカパは『』を引用しながら「時」や「機」の問題に言及し、「欣求の対象である〔〕のを要略したこれらを詳しくして、かの国へのに対する欣求を繰り返しして強い欣求を起こすことが非常に重要である」とし、また「私のような劣った能力を持った者達にはそのように語らなければしたいという欣求の対象を詳しくし得ない。 詳しく出来ないならのを見ての要因をしようという強い欣求が生じない」として、との観想を勧めている。 ツォンカパにしてもチャンキャにしてものための積極的な行を勧めており、しかもその行の中心はあくまでもの「観想」なのである。 そして、それ以外の諸を時機不相応な難行として退けることは決してなかった。 第二番目の系統は、カギュ派系カルマ派のラーガアスヤによって著されたと伝承される同じく『』と題するを起源としたものである。 ラーガアスヤも同じく『』に主として基づいているが、特に彼は「」のに注目している。 彼は教証として『』のいわゆる「」を引用しながらを勧めている。 また「の御眼差しは、昼に三回、夜に三回のに、のすべてを慈しみをもって常に御覧になっており、それは例えば明鏡に映像が映るように、あるいはに明星がのぼるように紛うことなくお分かりになるのである。 即ち、すべてのが心に何を思い起こしているのか、どんな雑念が通り過ぎているのかを常時事細かに御心でご了解なさっており、常にすべてのが語る言葉が何であるかを一つも洩らさず紛うことなく御耳でお聞きになっている」と説明している。 さらに「只の一回のでも、たった一度の尊崇でも確かにお考え頂けるのだ、ご了解頂けるのだと心得て、疑いなくあるのが極めて重要なのである」として、との呼応関係を説明し、それを根拠にしながらのを勧めている。 このように両伝統とも的な要素を少なからず含むが、そのの中心はの観想であり、その観想の手順も的なものであると言える。 は一般には「ツェラ」つまりを司る仏であるとチベットでは理解されており、上記の二系統のも作者の意図であるの行ということに止まらず、延命と結びついて修されてきた。 同じく延命の法として宗派を問わず伝えられているものに『阿』に基づく儀規がある。 例えば、ジャムヤン・ロテルワンポ(一八四七—一九二四)が当時チベットに伝承されていた儀規を集めて編集した『ギュデ・クントゥー(タントラ部集成)』所収のの中、第一一番目のものはを主尊とするものである。 この儀規はチョナン派の典籍に由来するものであるとも言われる。 チョナン派の学者ターラナータ(一五七五—一六三四)による同種類の成就法儀規の系譜にも明らかなように、儀規の内容は主としての大学者ジターリ(九六〇—一〇四〇)の著作に由来している。 すなわちを対象とする数々の観相が重層的に織り込まれた一種の延命を願う法とも言えるものである。 いわゆる的な要素はそこでは少なく、の父母等の存在も記述されることなど、日本のでは全く馴染みのないを含む。 あるいはをの対象とする成就法はサキャ派のの一人であるサキャパンディタ(一一八二—一二五一)やドゴン・パクパ(一二三五—一二八〇)によっても著され多くの他の宗派、例えばシチェ派などでもされてきたようである。 これらの成就法では、は自ら観想で念じたと一体となってをし、自身は無死の()によって長寿を授かるとされる。 そもそもこのような成就法がチベットにおけるを支えてきたのであって、易行としてのが宗派をなすほどの独自性を持たなかった理由もそのあたりにあると言える。 その先駆となるのがマックス・ミュラーであり、彼と南条が明治一五年(一八八二)にサンスクリット本の『』と『』を英訳して出版した頃に始まり、次のような三段階を有している。 [欧米語での紹介の時期] 明治四三年(一九一〇)に、A・ロイドが東京で英語本『とその業績』を、H・ハースがライプチヒでドイツ語本『陀』(『文章』二—一)を、同四四年にはが京都で英語本『—生涯と全業績—』を出版し、大正一〇年(一九二一)には鈴木夫妻によって英語文「との理想」が『イースタン・ブッディスト』第一巻に掲載された。 これらによっての欧米への発信の端緒がもたらされた。 そして同一四年には、『(勅修御伝)』が、 Honen, the Buddhist Saintとしてと青山学院のコーツとによって京都から英訳出版された。 これは、七五〇年記念出版であった。 この英訳書によって欧米の知識人や研究者の間でのことが知られるようになった。 以後、欧米の研究者の業績としては、一九二八年のL・ビーガーによるフランス語本『阿主義』、翌年のA・ゲルバーによるドイツ語本『—初期日本中世の者—』(『大和』一)、そして一九三五年にはロンドンでJ・エリオットの英語本『日本』が出版され、四〇年代にはドイツのH・ブチュクがドイツ語で『ルターのと日本の教におけるその相応性』を出した。 これらは欧米における研究の拡がりを呈しているといえる。 一九五五年にはH・リュバックがフランス語で『阿』を出版し、サンフランシスコ編『と—アメリカの教会—』が英語本で出された。 [研究における具体的理解の進展期] 昭和三三年(一九五八)に日本で開催された第九際史学会で、中の研究者が日本を訪れ実地にを・体験する機会が生まれ、会長のR・ペッタッツォーニによる「西洋との歴史的発展におけるいくつかの対比」において、積極的に日本ととの対比が指摘され注目された。 一九六〇年代に入ると、ドイツの史学者F・ハイラーが『人間の』で「日本人の庶民生活の中に更に深く教が浸透した。 教はすでに奈良時代に日本に流布されたが、派出身のが独自の宗派へのイニシアティブを最初にとった。 その独自の宗派の本来の創始者は、僧職名でと呼ばれるであり、元来、同じように天台院の僧である。 彼は中国の派のテクストについての研究に身を捧げ…そして門に対して…を…対立させた。 は、この崇拝文(の)を一日に六万回自ら称えたという。 ただのみにかかっているのであるから、何人も、僧や尼僧だけでなく、鍛冶屋も大工も同じように救いにあずかりうるのである」(二一三頁以下)と述べている。 一方で、神学者のK・バルトが『教会学』一—二で「真の」の項の註記で詳しくのについて言及していることは注目すべきである。 また、E・ベンツは論文「と心の」を発表し比較研究の視点を開いた。 英語圏においては、A・ブルームが一九六五年の『の純粋恩寵の福音』で「はの名を声に出して朗誦することを力説した。 はに従った。 そして、その名を朗誦することの卓越さについてのの主張をより一層絶対的なものとした。 はの側面を強調することと感謝の表現のための朗誦の実践を持越すことによって、それまでの全伝統を越えていった」(二五頁)と捉える。 このように、ドイツを中心とした史と神学の高名な研究者とアメリカの専門研究家によって、と・について論及され、欧米における研究の課題として積極的に取り上げられる状況が生まれた。 [日本語文献を解読して研究論考する時期] 現在では、欧米の研究者が来日して日本の研究者と交流し、実地で文献を解読し研究論考している。 アメリカにおいては、先に紹介したハワイ大学のA・ブルームの著作とバーモント大学のA・アンドリュースの『の救い—著書抄と初期年譜による房の生涯と思想—』、ドイツではミュンヘン大学のJ・ラウベの「ルターととの場合の活動」(教授資格就任記念講演)と「についての研究文献への問い」(藤本淨彦『攷』に日本語訳所収)などが注目される。 これらの欧米の研究者は数年間日本に滞在研究し漢文・古文の解読理解を自ら行って学術的評価を得ている。 彼らが欧米の大学でを講義し資料紹介と講読理解に従事していることは、その次の世代へと継続することを意味する。 すなわち、次世代の研究者は日本語および文献解読に優れた能力を発揮し、例えば、カリフォルニア大学バークレー校のM・ブラムの・・・研究、ドイツではミュンヘン大学のC・クライネのの的研究、M・レップの思想の神学的研究、S・ハイデッガーの・の宗派の研究、フランスではJ・デュコールの『』のフランス語訳や研究などがある。 研究の学会としては、国際学会などが定期的に開催されている。 の場合には、アメリカ・ロサンゼルスのロサンゼルス校と北米の共催での学会や、での学会などが単発的に開催され、では国際関係部門で継続的に情報の発信と収集を行っている。 【参考】藤吉慈海「欧米における浄土教的契機」(佛大紀要三九、一九六一)、J・ラウベ著/藤本淨彦訳「法然についての研究文献への問い」(『法然浄土教思想論攷』平楽寺書店、一九八八)、藤本淨彦「法然東漸」(『法然浄土教の普遍』四恩社、一九九七) 【執筆者:藤本淨彦】.

次の

浄土教

浄土宗とは

浄土宗と浄土真宗の違い は、平安時代の終わりに上人の開かれたです。 当時、あまりに急速に広まったために権力者からの弾圧を受け、 法然上人の教団はちりぢりばらばらになりました。 そのためは、法然上人のお弟子によって、色々なに分かれています。 現在も残るのは、 1.弁長の鎮西派、 2.証空の西山派、 3.のの3つです。 その中、現代で1番多いのは、で、 現在といわれているのは、 そのほとんどが2番目に多い、鎮西派です。 どのような違いがあるのでしょうか? 浄土宗と浄土真宗の3つの違い 1.本尊 の本尊は、の木像や絵像ですが、 はの名号のみを本尊とします。 (この違いを分かりやすく、の8代目、蓮如上人は、 「他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。 当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり」 と言われています) また、西山派では、本尊は阿弥陀如来ですが、さらに、では何かのご縁で阿弥陀如来以外の仏やを本尊としてもさしつかえないとしています。 2.出家と在家 には、仏教の伝統があり、もあります。 は、親鸞聖人の肉食妻帯により、 しなくても救われることを明らかにされ、 ももありません。 3.臨終行儀 では、臨終行儀を行いますが、 では、臨終行儀を行いません。 なぜこのような違いが出てくるのでしょうか? 浄土宗と浄土真宗の共通点 も、も、共通しているのは、 の本願の救いを求めることです。 なぜなら、お釈迦さま自身も含めて、 のお弟子である、やのような諸仏には、 でのできる、過去世からをしてきたすぐれた人でなければ 助ける力がないとお釈迦さまが説かれているからです。 私たちのようなややのに満ちた者は、 罪が重すぎて浮かばせることができないのです。 ちょうど、海で溺れている人が、 浮かばせる力のない浮きにすがったら、 浮きも一緒にどんどん沈んで行くようなものです。 そこで、私たちを助ける力のある 諸仏の王であるに助けてもらおうとするのが、 の共通するところです。 このように、の本願の救いを求めるのは共通しているのですが、 そのの本願の信じ方が違います。 一体どのように違うのでしょうか? 1.浄土宗鎮西派の信じ方 は本願に、このようにお約束されています。 「 どんな人も私の与える信心を獲てを称える者が、 もし真実の浄土へできぬことがあれば、私は仏の座を捨てよう」 ところが弁長の鎮西派では、 まったくのお力だけで助けてもらえるということはありえないだろうと疑って、を称えた功徳によってを願います。 に助けてくださいと祈願して、 一日5万回6万回とを称えることによって、 信心決定し、臨終にの来迎にあって、 へ往き、正定聚のに生まれます。 「 正定聚」とは仏になるに定まった人ということです。 ただし、この世でどれだけを称えたかによって、 どんなに生まれるかは差別があります。 さらに、の本願にお約束された行ではない 以外のも、諸仏に共通の本願なので、浄土できる教えます。 そして、もあります。 このように、鎮西派の教えには、のやのが混じりこみ、 のみを勧められた法然上人の教えとは大きく異なります。 浄土宗の有名な僧侶の事例 実際、ので浄土できるのでしょうか? ので往く浄土は「 報土」という万人共通の浄土ですが、 ので往く浄土は、報土の周りの「 化土」といわれるところです。 を称えているといっても、の場合は、人それぞれ違いがあります。 を何回称えたのかなど、その人のその人のたねまきによって にしたがって、 生まれる化土は千差万別だとお釈迦さまは説かれています。 ですから、の塊で、罪の重い私たちは、 ちょっとやそっとのでは化土へは往けません。 化土へ往けるほどを称えていれば、 死んで化土へ往けます。 それは一日何万べんものを 死ぬまで称え続けなければなりません。 明治時代、の管長で、本山の知恩院の住職もつとめた 福田行誡(ぎょうかい)というは、 一日何万べんものを死ぬまで称えていたと言われます。 その福田行誡は、臨終に、 「 化土へ往ければいいがな……」 と言って死んだそうです。 これが阿弥陀仏の本願を疑う心です。 このように、疑いのあるのでは、 報土は絶対にできませんし、 化土へ往けるかどうかも、死んでみないと分かりませんから、 死ぬまではなくなりません。 2.浄土宗西山派の信じ方 証空の開いた西山派では、の諸行ではできず、 まったくによって救われるとしています。 ところが、まったく他力というもの、人間には仏性があり、その仏性を主体として、願生心をおこして阿弥陀如来のお力で救われるといいます。 これを「 領解(りょうげ)」とか「 安心(あんじん)」といいます。 安心や領解が起きれば、諸行をの中におさめて、は往生の為になるといいますので、 「 諸行を生け捕りにした」 と言われています。 このように、自分で願生心をおこす所や、救われた後に自分でやる善が往生のためになるところは、やはりが混じり込んでいます。 このように、自分の心と口と身体の行いが、救われるのに役立つとするのは、諸行といい、 の本願にかなわないため、 自力では真実の浄土はできません。 3.浄土真宗の信じ方 親鸞のではどうかというと、 のお約束を疑いなく信じ、 生きているときに苦悩の根元を断ち切られて、 生きているときに、この世で正定聚のになります。 これが大安心、大満足の絶対の幸福です。 そして、死ねばへ往って仏に生まれます。 報土です。 そのため、真のであるということで、 といわれます。 このように、浄土宗と浄土真宗の一番大きな違いは、自力がまじるのか、まったく他力なのかという所にあります。 それによってその他の色々な違いが出てきますし、一番重要な救われるかどうかも変わります。 では、どの宗派が正しく教えを継承しているのか、法然上人に判定して頂きましょう。 法然上人の教えを正しく継承しているのは? まず、法然上人は、 「 浄土門に入らんとおもわば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてて、えらんで正行に帰すべし」(選択本願念仏集) と教えられています。 浄土門に入るには、雑行をすてて、正行に帰しなければなりません。 「 正行」とは、阿弥陀如来に向かっての正しい行を正行といいます。 「 雑行」というのは、ここではそれ以外の行をいいます。 ですから、御本尊は阿弥陀如来ではない仏や菩薩はなげすてなければならないのに、さしつかえないとなると、浄土門とは言えません。 まず大前提として、阿弥陀如来に助けて頂くのが浄土門であり、浄土宗です。 では法然上人は、阿弥陀如来をどのように信じなさいと教えられているでしょうか。 まず自力というのはどういうことかというと『 和語燈』にはこう教えられています。 「 自力というは我が力を励みて往生を求むるなり。 他力というは唯仏の力をたのみ奉るなり」(和語燈) 自分の力を励んで助かろうとするのは自力といいます。 他力というのは、ただ仏の力をたよりにすることです。 唯というのは、二つも三つもない、唯一つということで、仏の力だけに打ち任せるということです。 そして、このように教えられています。 「 我らが往生はゆめゆめ我が身の善悪には依り候まじ。 偏に仏の御力計にて候べきなり」(和語燈) 往生は自分の善悪には決してよらず、まったく阿弥陀仏の御力だけによる、ということです。 また、こうもいわれています。 「 我が力にて生死を離れん事、励み難くして、偏に他力の弥陀の本願をたのむなり」 自分の力で生死を離れることはできないから、ひとえに阿弥陀如来の本願他力によれ、と教えられています。 救われるのは100%阿弥陀仏のお力である、ということです。 念仏についてはこう教えられています。 「 他力の念仏は往生すべし。 自力の念仏は全く往生すべからず」(和語燈) 他力の念仏は助かるけれど、自分の力が往生のためになると思って称える念仏では、助からないということです。 このように、法然上人は、自力では助からないと教えられているので、現在残っている宗派で、法然上人の教えを正しく継承し、自力をすてて他力に帰せよと教えられるのは、浄土真宗となります。 それで歴史上、自力を徹底的に捨てよと教えられる浄土真宗では、 以外でも、たくさんの在家の人がに救われてきました。 それらの喜びの身となった人をといわれます。 そのことを宗教哲学者の柳宗悦さんは、 「 もとより妙好人はに現れるはずであるが、 なぜか系の仏徒から圧倒的にたくさん現れてくるのである」 と言っています。 なぜ浄土真宗で救われた人が多いのか なぜ妙好人が浄土真宗から圧倒的にたくさん現れるのかという疑問の答えは、浄土宗には自力がまじりますが、浄土真宗は、純粋な他力だからです。 そのことを浄土真宗の8代目の蓮如上人は、こう教えられています。 「 されば自余の浄土宗はもろもろの雑行を許す。 わが聖人は雑行をえらびたまう。 この故に真実報土の往生を遂ぐるなり。 この謂あるが故に別して真の字を入れたまうなり」(御文章) 「 雑行」というのは、ここでは自力のことです。 「 自余の浄土宗はもろもろの雑行を許す」というのは、浄土真宗以外の浄土宗は、自力を許すということです。 「 わが聖人は雑行をえらびたまう」というのは、親鸞聖人は、自力を捨てよと厳しく教えられるということです。 「 真実報土の往生」というのは、本当の極楽往生のことですが、自力では本当の極楽には往生できません。 自力を捨てるから、生きている時に阿弥陀仏に救われ、死ぬと同時に、極楽へ往って仏に生まれるのです。 このように、本当に救われるのが浄土真宗だから、浄土宗に真の字を入れて、浄土真宗といわれるのだ、と教えられています。 ではどうすれば、生きているときに苦悩の根元を断ち切られて、 に救われ、死んでへ往けるのかについては、 仏教の真髄ですので、小冊子とメール講座にまとめておきました。 ぜひ読んでみてください。 メニュー•

次の