やまと ごころ。 やまとごころとUDS、合弁旅行会社「エリスタ」でインバウンド向け着地型ツアーを展開

【Press Release】UDSとやまとごころが合弁で旅行事業会社を設立

やまと ごころ

エリスタは着地型ツアーの企画販売と、旅に関したインバウンド分野の各種ソリューションを提供します。 インバウンドに特化した様々なノウハウ・リレーションを持つやまとごころと、日本の各地で地域活性のプロジェクトを手がけるUDSの強みを重ね合わせることで、日本各地におけるインバウンドを中心とした交流人口の増加を目指します。 一方、UDSは鹿児島県薩摩 川内市や新潟県上越市、福井県福井市の公共施設など全国各地でプロジェクトを手がけてきました。 その取り組みの中で、地域が抱える課題「地域活性」のためには「交流人口の増加」が必須であり、交流人口増加につながる実際の取り組みの重要性を強く感じていました。 エリスタはこの両者の想いを背景に誕生しました。 やまとごころのノウハウとリレーションを生かして日本各地のインバウンド・観光事業者と連携しながら、ローカルの魅力を体感する現地発着型のツアーを造成し、UDSの運営拠点を活用して販売していきます。 同店ではインバウンド事業者が観光や商品などのPR を行いながら、外国人旅行者のニーズを調査することができるマーケティング機能も展開します。 「地域の暮らし」に触れる「体験」を旅として「編集」することができる「人」のこと指します。 旅行事業 着地型ツアー企画販売 地域のパートナーと共に文化・体験を編集し、着地型ツアーを企画販売。 トラベルソリューション事業 旅行事業でのノウハウや海外旅行会社とのネットワークを元に、旅行に関するインバウンド分野の各種ソリューションを提供します。 ・ 着地型旅行商品造成支援 ・ 海外旅行会社営業支援 ・ インバウンド人材の育成 ・ インバウンドマーケティング <やまとごころについて> 株式会社やまとごころは「日本のインバウンドを熱くする」をテーマに、2007年にインバウンド情報ポータルサイト「やまとごころ. jp」をスタートさせ創業。 その後、インバウンドビジネスで必要とされるサービスを展開してきました。 現在、「やまとごころ. jp」は月間18万ページビューを超えるまでに成長。 メールマガジン会員数は15,000名以上に達し、日本最大のインバウンドポータルサイトと認知されています。 自社主催のインバウンドセミナーの開催や企業や自治体などでの研修の企画・運営を行うなど、業界で活するインバウンド人材の育成を目指しています。 また、日本唯一のインバウンド専門求人サイト「やまとごころキャリア」を運営。 2017年6月には3冊目となるインバウンドの書籍『インバウンドビジネス集客講座』を出版。 コンサルティングやコーディネート等、インバウンドに従事する企業や団体を課題やニーズに併せてトータルでサポートしています。 HP: Facebook : <UDSについて> UDS株式会社は、事業性と社会性を実現するしくみ=「システム」で都市を豊かに楽しくすることを目指し、まちづくりにつながる「事業企画」、「建築設計」、「店舗運営」を手がけています。 コーポラティブハウス事業からスタートしたUDSはユーザーのニーズを引き出し調整するコーディネート力を基盤に、同事業で培った「エンドユーザー視点」と、企画から設計、運営まで全てを手がけることができることを強みとしています。 教育施設をリノベーションした「ホテル カンラ 京都」など建物の再生活用をはじめとした不動産リノベーション事業や、子供の職業体験施設「キッザニア東京」など、独自の仕組みをもつ施設の企画・設計・運営において数多くの実績を有しています。 全国でホテル・ホステルを7か所運営し日々数多くの外国人ゲストを迎えており、中国現地法人、誉都思では中国人を中心とする約40名の社員が、日本同様のプロジェクトを北京、上海、海南島などで手がけています。 HP: Facebook :.

次の

会社情報

やまと ごころ

<第4回>日本の歴史と心の原形 やまとごころの歴史観 今回は、ひとつの小話から始めたいと思います。 ある日のこと、宇宙人が地球にやって来ました。 地球に不慣れな宇宙人は、道端で途方に暮れていました。 そこへ、イギリス人、フランス人、アメリカ人、そして日本人がやって来ました。 四人の地球人は、宇宙人と仲良くなろうとしました。 イギリス人は宇宙人に、地球上での「紳士のふるまい」について教えてあげようと言いました。 フランス人は「愛のささやき」について、アメリカ人は「勇気ある行動」について教えてあげようと言いました。 その様子を見ていた日本人は宇宙人に、あなた方の技術や文化を日本語に翻訳させて欲しいと言いました。 半年ほど経って、宇宙人はだいぶ地球に慣れてきました。 宇宙人はイギリス人、フランス人、アメリカ人の事を良く理解できましたが、日本人の事はあまり理解できませんでした。 その事を聞いた日本人は悩み、腹を立て、宇宙人にこう言いました。 「われわれはあなた方の事を良く理解しているのに、どうしてあなた方は、われわれの事を理解してくれないのか?」 日本の歴史に関する本を読んでいると、この小話のように日本人が悩んでいる場面が多く見つかります。 1905年に日露戦争が終結してから1945年に第2次世界大戦が終結するまでの40年間が特にそうですし、戦後も、そして21世紀になった現在でも、理解されにくいという日本人の悩みは続いているような気がします。 この小話の中で、日本人が宇宙人に教えられることがあるならば、それは地球人の「心の原形」だと思います。 日本人は古代から受け継がれて来た素朴で純真な「心の原形」を、「やまとごころ」「大和魂」と呼んで大切にしてきました。 「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍らめ」(紫式部 『源氏物語 乙女』10世紀の小説) 「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」(本居宣長 18世紀の和歌) 日本人が持ち続けている「心の原形(やまとごころ)」を、諸外国の人々が理解しやすいように説明するためには、どのような工夫が必要でしょうか。 今回の教材は、その工夫の一つです。 これからお話しするのは、生活者(教材作家)の視点で書かれた日本の歴史です。 この歴史観は、研究者(学者)や教育者(教師)によって学校で教えられる科学的歴史観とは異なる、一般の生活者による常識的(日常の生活観に基づく)歴史観の一つです。 「真理を得る為には、直観と演繹という精神の基本的な誤りようのない二つの能力を使用すれば足りる・・・(真理を得る為の)仕事の背後では、目に見えぬ、極度に純化された常識(コモンセンス)が働いている」(小林秀雄 『常識について』) 「やまとごころの歴史観」では、「常識」という言葉をこのように捉え、専門的な「科学」という言葉に惑わされず、日常的な「常識(コモンセンス・やまとごころ)」をもって歴史を認識しようとしています。 それでは、西欧数学の座標その他の図と、日本の古い歴史観、世界観を組み合わせながら、心の原形(やまとごころ)の基本となる、 3つの原理 3つの動機 3つの意欲 について順にお話ししたいと思います。 <第1原理> 社会は「わたし(ONE)」と、私以外の「みんな(ALL)」からできている。 <第2原理> 社会で生きる力は、公私調和(ONE-ALL-LINE)をめざす。 <第3原理> 公私調和をめざす力は、信仰の純化によって強まる。 第1原理は、社会が私と私以外の人々によって成り立っているという基本構成を表します。 この事をわかりやすくするために、社会を公私座標(ONE- ALL座標)で表現してみます。 ヨコ軸が「わたし(ONE)」、タテ軸が「みんな(ALL)」です。 これはある時点での社会が私的利益と公的利益のどちらを重視しているか、そのバランスや利益の大きさを、座標を使ってベクトルで表現してみようというものです。 物質的精神的利益に関する具体的な数値の代入はできなくても、時代間の変化など相対的な表現は可能だと思います。 第2原理(社会で生きる力は、公私調和(ONE-ALL-LINE)をめざす)は、社会で生きる力は、ヨコ軸(ONE)とタテ軸(ALL)が調和(ONE=ALL)するように働くことを表します。 社会が調和点(a1)にあるとき、ある人が自分のために活動して利益(b1)を得ると、それは他の人の幸福をも増大させて新しい調和点(a2)に達します。 社会が調和点(a2)にあるとき、ある人が自分の利益をかえりみず、みんなのために活動して他の人々が利益(b2)を得ると、それは活動した人の個人的な利益をも増大させて新しい調和点(a3)に達します。 しかしこの力は、社会の様々な要因によって調和点から外れてしまうのが普通です。 たとえば特定の個人の利益のために社会全体の利益が犠牲になると(ONE>ALLの場合)、格差が拡大して資本主義的弊害が強くなり、反対に、社会全体の利益のために個人の利益を抑圧すると(ONE<ALLの場合)、社会の活力が弱まって社会主義的弊害が強くなります。 社会全体の利益を最大化する政策は、社会が本来持っている公私調和(ONE=ALL)をめざす力を、精神の自由を尊重しながら、最大限に発揮させるための環境を整えることにあるでしょう。 この公私調和をめざす自然な力は、戦国時代のような統一政権が存在しない混乱期(ALL<0の場合)にあっても強く働き、社会を統一と平和へと導いて行きます。 しかし、強力な軍事力やイデオロギー等による専制政治が行われると、精神の自由が認められないため(ONE<0の場合)、公私調和へ向う力は政策的に無力化されて、抑圧期が長期間に渡って継続することになります(何世紀にも渡る中世という時代や、軍事力または思想の力による独裁政権の継続など)。 第3原理(公私調和をめざす力は、信仰の純化によって強まる)は、人それぞれの異なる信仰心が、一人一人が持っている社会全体を調和に向わせる力を強めるということです。 信仰(祈り)は、後に述べる3つの意欲から生まれます。 様々な宗教は、その3つの意欲を高める働きを持っていると言えます。 ヨーロッパやアジアの国々では、社会の原理といえば、宗教です。 日本では、宗教以前にある普遍的なこれらの3つの原理が社会の原理と言えるので、おおらかで相対的なものの見方をするのですが、絶対的な宗教や思想を持つ他の国々から見ると、無宗教、無原理とも受け取られがちです。 しかし、中世キリスト教や中世儒教(朱子学)といった絶対的で重厚な教義によって、何世紀にも渡って社会の統制が図られるということがなかった日本の歴史から見ると、日本人のこのような精神こそ、ヨーロッパやアジアの国々でも古代において共通に見られた「心の原形」ではないかと考えられるのです。 「心の原形(やまとごころ)」を持つ人は、現実の社会が、理想的な公私調和状態にどれだけ近づきつつあるか、あるいは離れつつあるか(無常ということ)について感じ取るセンサー(常なるもの)を保持しています。 日本は歴史上一度だけ、公私調和へのベクトル(方向と力)が比較的長期間に渡って不安定となり、公私調和線の左右を大きく振れた後、左方向へほぼ垂直になるまで動いた時期があります。 先ほど述べた1905年から1945年までの40年間です。 次の文章は、その最終段階である1942年、日本がアメリカとの戦争に突入してから半年を過ぎた頃に発表された、「心の原形(やまとごころ)」をもって書かれた作品の一節です。 「現代人には…無常という事がわかっていない。 生の動機は、生の意味を考えることができる、人間だけが持つ高度な動機です。 「知りたい」という意欲を生み出す動機です。 死の動機は、死の意味を考えることができる、人間だけが持つ高度な動機です。 「残したい(作りたい)」という意欲を生み出す動機です。 勝の動機は、人間も他の生物も持っている動機です。 「なわばりの動機」と言ってもいいでしょう。 「相手に勝ちたい」「相手に認めさせたい」という意欲を生み出す動機です。 なわばりを宣言し、生活の伴侶を呼び寄せ、子孫を残し、食と住みかと安全とを勝ち取る等、生命の営みの基礎を構築するための動機です。 人間以外の生物は、勝の動機の中に、生も死も含まれています。 現実の試練に直面した時に、臨機応変な対処に成功して勝った者が生き、なわばりを守り、子孫を残す事ができます。 そして対処を誤って負けた者が死に、なわばりを失うのです。 勝の動機は、変異や自然淘汰、適者生存という進化論で説明される動機です。 第1意欲である「知りたい」という知識意欲は、生の動機から生じる「自分が生きている意味を知りたい」という意欲です。 それは社会や自然に関するものなど様々な知識を得ようとする意欲へと発展します。 効果的な知識の獲得には、受動的な「学び」と、能動的な「問い掛け」の両方が必要とされます。 前者は「古典の尊重」、後者は「合理的な精神」へとつながります。 第2意欲である「作りたい」という制作意欲は、死の動機から生じる「自分が生きた証を残したい」という「人づくり」「物づくり」の意欲です。 それは「極めたい」という「道」への意欲と、「伝えたい」「受け継ぎたい」という後継のための意欲となって、技術や文化、芸術を発展させる源となります。 日本人が尊重する第2意欲は、様々な職業的技能はもちろん、武道、茶道、華道などの特有の文化、芸術としても高められています。 第3意欲である「認められたい」という承認意欲は、勝の動機から生じる「認めさせたい」「認めてもらいたい」という意欲です。 「勝負」の意欲は自由競争によって社会に活力をもたらす意欲ですが、集団間の勢力バランスが失われると「戦争」に発展する危険があり注意が必要です。 「勝勝」の意欲は3つの意欲が社会的に融合することによって高められた高度な承認意欲であり、安定した「平和」を生み出す源となります。 「知りたい」という第1意欲は、「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」という言葉に表れ、「作りたい」という第2意欲は、人づくり(弟子達の育成による国づくり)という孔子の人生そのものでした。 小事にこだわらないおおらかな君子の心は、古代アジアに生きていた心の原形として、今でも日本人からの尊敬を集め続けています。 ここで言う労働とは、対価を伴う知的あるいは肉体的な「職業としての労働」はもちろん、家庭生活や地域活動、ボランティア、学問や教育、文化、芸術、スポーツなど、3つの意欲によるあらゆる活動を意味しています。 そしてその「信仰の純化」が、社会全体の力を最も効率よく発揮させるための理想的な「公私調和」へのベクトル(方向と力)を強化するのです。 宗教と信仰心の関係は、「古代」「中世」「近代」を分ける重要なものです。 古代ヨーロッパのローマ帝国や、古代アジアの漢帝国(漢王朝〜唐王朝)では、様々な宗教に寛容であったことが知られています。 それは、信仰の純化による自然で有機的な社会形成が営まれた古代では信仰心が主体であり、宗教は信仰心の個性の現われであると考えられたからではないでしょうか。 信仰心からは、宗教にとらわれない社会的ルール(法)が生まれます。 宗教が先か、信仰心が先かというと、古代では信仰心が先であり、宗教(イデオロギー)の支配より、法の支配が行われたのが古代社会であると言う事ができます。 古代帝国も末期に近づくと、異質な宗教や民族などに対する弾圧が強まり、排他的な風潮が広まります。 「労働=感謝=祈り」から生まれる自然な信仰心は、極端な思想や宗教(イデオロギー)の支配下に置かれ、精神の統制が強化されます。 その統制を行うのが、「中世エリート」達です。 中世エリートの出現によって、時代は古代から中世へ移行したと見ることができます。 古代ローマ帝国滅亡後のヨーロッパでは、中世エリートとして、ローマ教皇を中心としたキリスト教エリート達が、5世紀から15世紀頃までの約千年間を、精神の最高位に君臨します。 そのイデオロギー的な教義は「神学」であり、自由な精神から生まれた哲学や科学は、神学より下位にあるものとされました(中世スコラ哲学)。 古代漢帝国最後の王朝である唐王朝が10世紀初頭に滅亡した後のアジアでは、中世エリートとして、皇帝を支える科挙エリート達が精神の最高位に君臨します。 「科挙」とは古典の暗記を基本とする難しい試験、つまり「科目」による「選挙」によって国家の指導層(エリート)を選抜する制度であり、古代漢帝国を再統一した隋王朝に始まり、唐王朝で発展し、世界の様々な文化を幅広く許容する開かれた帝国の官吏たちを養成するものでした。 しかし古代漢帝国滅亡後にアジア大陸に興った歴代中国王朝の時代に入ると、科挙制度は継承された後、次第にその性格を改め、閉鎖的で排他的なイデオロギーによる精神抑圧の中枢を担う存在となってしまいました。 そのイデオロギー的な教義は、寛容的な「古代儒教」ではなく、宋の時代に生まれた排他的権威主義的な「中世儒教」である「朱子学」でした。 中世では古代と異なり、宗教が先か、信仰心が先かというと、宗教(イデオロギー)が先なのです。 日本は、古代漢帝国(唐王朝)が滅亡する13年前の894年、その末期において排外主義が広がっていた唐王朝との国交を断絶しています(遣唐使の廃止)。 そのため、中国大陸や朝鮮半島などの国々では中世エリート(科挙エリート)による精神の統制が強まって行く中で、大陸から離れた日本では古代の気風がそのまま残ることになったのです。 ヨーロッパでは、約千年間の中世という時代を経て、かつてギリシア・ローマ時代にあった古代の自由な気風を取り戻そうという文芸復興運動(ルネサンス)が14世紀に起ります。 16世紀初頭には、中世エリートであったキリスト教聖職者の権威のあり方に疑問が投げかけられ、神(真理)と人間が直接に向き合う信仰を取り戻そうとし、神(真理)と人間のあいだに中世エリートが介在する中世キリスト教の伝統を破ろうとする宗教改革が始まります。 さらに神学より下位に置かれていた哲学も、古代の自由と力を取り戻し、啓蒙思想として近代社会制度と近代科学の形成発展に貢献するようになります。 近代では古代の信仰の純化を取り戻し、宗教が先か、信仰心が先かというと、信仰心が先であり、宗教(イデオロギー)による支配よりも、自由な精神を基とした法の支配が行われるようになるのです。 そしてその古代の精神の自由を取り戻した時代が、「近代」です。 それに対して、強い宗教(中世キリスト教)や強い思想(中世儒教)によって、人々の純粋な信仰心や思想、良心を抑圧、統制した時代が、「中世」です。 中世の起りには、人間が持つ自由な精神の働き(3つの意欲の融合)に対する不信が原点にあります。 人間の自由闊達な精神を信頼していたらろくなことにならないというのが、宗教や思想を司る中世エリート達の思いでした。 なぜなら、人間に対する信頼(法への信頼)が古代帝国を滅亡させたのであり、法を遵守しようとする人間の良心など期待できるものではなく、宗教または思想教育による強制的な洗脳によって統治する以外に方法はないという認識が中世エリート達にはあったからです。 ここで、2つの社会を区別することができます。 古代帝国が巨大になり得た理由は、当時の周辺国の文化が弱小または未熟だったからです。 だからこそ、古代帝国が周辺諸国や辺境の群雄勢力に対して、それぞれの特色ある文化発展のための優れた影響を与え終えたときに、古代帝国としての役割も終り、帝国は滅亡したと見ることもできるでしょう。 (そのような役割を果たした古代帝国に対する尊敬心を近代以降の人々は持っており、その心は現代そして未来へと受け継がれて行くことでしょう。 ) 古代と近代に共通するものは、特定の宗教(イデオロギー)に囚われない自由な精神による純粋な信仰心であり、そこから生まれる法の支配です。 宗教(イデオロギー)の絶対性はそこにはありません。 宗教を絶対化して真理(T:Truth)と人間(M:Man)との間に君臨した中世エリートたちは、近代人によって乗り越えられました。 そのような社会に生きる人々の切実な心の要求に応えようとしたのが様々な宗教であり、特定の宗教を真理であると信じる人々もあれば、純粋な信仰心のまま真理を求め続けようとする人々もあります。 後者は日本人に多く、小林秀雄はその代表的な思想家の一人です。 自由な精神(3つの意欲)の社会的融合による公私調和の実現、人間社会が持つその自然な力を無力化しようとする社会があります。 支配者側としては、労働者が生産物を正直に差し出せばそれで良いのであって、その生産物を作るための苦心や苦労など、どうでもいいことなのですから。 (かつてモンゴル帝国という遊牧民族国家の軍事的支配者が、被支配者側である農耕民族の間で繰り広げられる宗教論争を、寛容性をもって聞いていたと伝えられるその姿と、労働を蔑視した絶対的な中世儒教(朱子学)によって精神的支配を行う科挙エリートの姿は、立場は対立するはずなのですが、人間性の基となる第1意欲と第2意欲を低級と看做す遊牧的支配を行ったという点では重なり合うのです。 中世エリートが承認したものこそ、「真」であり、「善」であり、「美」なのです。 真理(T)は、古代や近代と中世では異なります。 それは中世エリートが、権力の階層(ヒエラルキー)を構築するに当たって、その頂点に真理(T)を体現する人物を置く必要があったからでしょう。 一般の人間にもたらされるのは、真理(T)の言葉よりも、真理としての人物の権威に裏付けられたその配下にあるエリート達(E)の言葉です。 たとえば、中世儒教である朱子学では「理」が重視されました。 「理」を独占しているのは中世エリートである科挙エリート達です。 彼等が容認した「理」に反抗する思想を持つ人々は、親であれ恩師であれ告発する必要があるでしょう(それが論語の教えに反することになったとしても、「理」を有しない人に反抗することは理が有ることとされるのです)。 そしてそのための「教育」が重視されることになります。 中世儒教では、第1意欲である「知りたい」という意欲は、科挙エリートの解釈を正統とした古典の教義に向けられるもの以外は誤りとして軽蔑の対象となり、第2意欲から生じる「作りたい」「極めたい」という意欲は軽視されました。 3つの意欲が労働として社会的に融合する力も弱くなり、公私調和へと向うベクトル(方向と力)も社会全体としては機能しなくなるため、その社会に住む人々は、親族間の団結を強め、一族を一社会として狭い範囲で強く公私調和をめざす傾向があると言えるでしょう。 労働に対する軽蔑は、中世儒教に根強い思想であり、人々が一族の中だけでも「信」や「義」を重んじて労働の尊厳を守ろうとする意欲も、または一族から科挙エリートを輩出することによって特権的地位を獲得し一族を強く豊かにしようとする意欲も、3つの意欲が労働として社会全体を有機的に結合させて公私調和を目指す力となることを期待できないという、国家に対する人々の不信感から生まれたものではないでしょうか。 遊牧民族の支配者達は、動物からは肉や乳製品、毛皮などを採取したように、農耕民族からは、兵士、通訳、農民、技術者、職人、商人、教育者、医者、画家、歌手など、人間の職業に応じて様々な働きや生産物を引き出すことができることを知っていました。 彼等は動物の特性を理解するように、農耕民族の職業別特性を理解し、利用し、徴収したのです。 彼等はそのような労働力としての農耕民族に対して寛容性を保ち、従順な家畜を理解するように理解したので、反抗的な家畜を殺すように殺すこともできたのです。 ここで行われる労働は、「知識」「制作(育成)」「承認」という3つの意欲が社会的に融合し、感謝、祈りへと純化して公私調和を実現するような「心の原形」による人間的な労働ではありません。 支配者に寛容性はあっても、それは人間に対する寛容性ではないからです。 遊牧民族の官吏と、農耕民族の科挙エリートは、対立する立場にありながらも、互いに影響を与え合い、労働を蔑視する非人間的な統治を行ったという点では共通していると言えます。 なぜなら遊牧民族から見た農耕民族は<労働力=野卑>であるため、科挙エリートとしては自らを<非労働力=高貴>であると強調し、遊牧民族と対等であり、野卑な一般農耕民族とは異なる者であると、遊牧民族に「わからせる」必要があったからです。 その結果中国大陸では、高貴な人間は労働することはあり得ず、労働する者は野卑であるという「労働の蔑視」、そして「賄賂の横行」という遊牧的支配の属性が、中世以降何世紀にも渡って受け継がれて行くことになるのです。 皇帝(T)の命令を受けて科挙エリート(E)が 国の機関として各地へ赴任するとき、善政を行うということは、搾取が少ないということでした。 しかしそれはまれでした。 大勢の親族達(M1)が富と利権の分配を要求するからです。 そして新しい政策を実行するとき、有利な立場を得ようとして利権に群がる人々(M2)にも分け与える必要があるでしょう。 ここでは賄賂が横行することになります。 そして科挙エリートの一族(M1)でもなく、その利権に群がる人々(M2)でもない大多数の人々(M3)は、遊牧民族による軍事支配と同様に、職業別に様々な働きや生産物を差し出さなければなりませんでした。 国の領土は、全て科挙エリート毎の「利権のなわばり」に分割され、国家は、科挙エリートに新しい縄張りを提供するために、領土や利権を無限に拡張し続ける必要に迫られることになります。 科挙エリートによるこの遊牧的支配形態は、各地の群雄勢力の力を弱めて中央集権的支配を強めたため、古代漢帝国滅亡後の中世歴代王朝においては、ヨーロッパや日本に見られるような封建制度が発達する余地はありませんでした。 封建社会は厳格な身分の上下がある社会として知られていますが、それは人々の主体的で積極的な集団活動が基礎となっており、将来において近代社会を担う力を強化するという歴史的な役割があったと言えます。 科挙エリートのような中央集権的権力によって常に領土拡張を狙い、国内各地の群雄勢力となり得る集団を解体して個別管理を行い、人間一人一人に対してイデオロギー等による精神的抑圧を徹底しようとすると、近代を準備する人間社会の健全な発達が妨害されてしまうのです。 それは、アジアの中世エリートである科挙エリートは、真理を司る権威も、権力も、財力も独占的に掌握したのに対し、ヨーロッパの中世エリートであるキリスト教エリートは、真理を司る権威のみを掌握していたということです。 その理由の一つとして、科挙エリートが巨額の富や利権によって一族を潤すことを期待されたのに対し、キリスト教聖職者は家族から離れ生涯独身であったということが考えられます。 ヨーロッパにおける真理の探究は古典に縛られることなく、正統とされる聖書の解釈に反しない限り自由であり、中世においてもスコラ哲学として発展しました。 「祈り、働く」ことの大切さを説いたキリスト教エリートたちの精神的庇護の下で、「知識」「制作(育成)」「承認」の3つの意欲が社会的に融合し、それらを統合した各地の有力者達による政治的経済的支配の下で封建制度が発達しました。 ただし、「労働=感謝=祈り」が向かう先はキリスト教エリートの教義によって決められていたため、「知識」「制作(育成)」という人間性の向上への意欲が自由な精神のもとで十分発揮されるのは、ルネサンス期以降、宗教改革、啓蒙思想の時代を待たなければなりませんでした(図中の星型の(T)は、ルネサンス期において再認識された自由な精神や、それによって作られた文化や芸術を通して人々が見つめた、古代ギリシア・ローマ帝国時代における真理(T)です)。 ヨーロッパにおいて16世紀前半に始まる宗教改革は、過去千年間に渡る中世エリートの精神的支配に対する抵抗者(プロテスタント)の出現によって始まりました。 それまでは中世エリートであるキリスト教聖職者が聖書を読み、その教えを人々に口述していましたが、この時代になると各国の言語に翻訳された聖書を、人々は自分で読むようになりました。 中世エリートの精神的支配からの脱出は、その精神的庇護からの自立をも意味していました。 そのためにプロテスタントたちは自らに厳しい自律的な決まりを課し、3つの意欲による労働の尊厳を重んじ、華美な生活を戒めて貯蓄に励むようになりました。 そして「倫理的な色彩をもつ生活の原則」(マックス・ウェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 岩波文庫)に基づく規律正しい生活の中で、その後の資本主義発展の基盤となる力強い精神が育ち始めました。 そして中世エリートの権威に抵抗する側(プロテスタント)だけでなく、その抵抗を受ける側(カトリック)からも啓蒙思想が生まれ、中世の権威主義的なあり方から、近代の自由な精神へと変革が行われました。 宗教改革、啓蒙思想によっていち早く近代の思想が広がったイギリス、オランダ、フランス、ドイツ、イタリアなどの西ヨーロッパ諸国は、中世において周辺勢力から地理的に保護されていました。 西側のスペインとフランスとの国境沿いにあるピレネー山脈は、イスラム教徒からの影響を遮断し、東側の広大なゲルマンの森は、草原地帯(ステップ)を好む遊牧民族の強力な軍事進攻を止めたからです。 その環境の下で約千年間に渡ってキリスト教エリート達の精神的支配(庇護)の下にあったヨーロッパ中世の人々のあり方は、近代人と比較すると「未成年の状態」と言われています(カント 『啓蒙とは何か』 岩波文庫)。 近代とは、人々が「神」の教えを述べる中世エリートの精神的庇護の下から自立し、自ら守るべき法を定め、「成年」となった時代でした。 イギリスはドーヴァー海峡によってヨーロッパ大陸から離れていたため、ローマ教皇を中心とする中世エリートの精神的支配から比較的自由でした。 13世紀初頭には、王への権力の集中を抑制する法制度が生まれ、16世紀の宗教改革を経て真理(T)と人間が直接向き合う自由な精神を取り戻し(形態1)、それはアメリカへの移民の精神でもありました。 最も早く近代の精神を備えた国は、オランダでした。 ヨーロッパに広がった宗教戦争の影響で、中世エリートに抵抗する側の人々(プロテスタント)が、フランスやドイツなどからオランダに逃れて来ました。 イベリア半島の海洋国スペインの植民地であったオランダは、彼等から航海術を学びました(イスラム教徒の勢力圏にあったイベリア半島には、地中海という静かな海から大西洋の荒海に出ることを可能にするイスラムの航海術が伝わっていました)。 そしてイタリアからフランス、ドイツ、オランダ、イギリスへと伝搬した帳簿組織(books)は、多くの出資者から信用によって資金を集めることを可能にし、皇帝などの統一権力によらなくても、商人や冒険家たちによって大航海事業を実現する道が拓かれました。 スペインからの独立戦争に勝利したオランダでは、商人たちの創意工夫によって、多くの船団が組織され、アジアでは東インド会社という形で発展しました。 (オランダ船のうち数隻は幾多の困難を経て日本に漂着し(1600年)、その乗組員は、数年後に将軍となる徳川家康に謁見し、信頼を得ました。 なぜならオランダ人がいち早く身につけたヨーロッパ近代の自由な精神は、日本人が持つ古代からの素朴な心の原形(形態1)と通じ合うものだからです。 オランダより半世紀早くアジアへ進出したスペインやポルトガルの商人たちは、その当時はまだ宗教的権威主義に基づく優越性排他性を伴う中世の抑圧的精神を強く持っていたため、17世紀前半の鎖国政策によって日本への来航が禁止されることになりましたが、近代の精神を持つオランダ人は、心の原形を持つ日本人からの信頼を受け、その後2世紀半の間、ヨーロッパの物資や情報を日本へ伝える窓口としての役割を果たしました。 しかし知識人の中には、中世エリート(E)を否定するだけでなく、その上の神(真理:T)の存在をも否定し、人間(M)だけを出発点にする思想家も現われました(形態2:M型)。 それは「人間は物質(肉体)と、精神(魂)から成り立っている」という古代からの二元論を否定し、「人間は物質(肉体)からのみ成り立っている」という一元論(唯物論など)でした。 「神」(真理:T)というあらかじめ決められた規範から逃れて、自らの規範を新しく作り従うという意味では自由でしたが、そういう人間として逃れられない不安がありました(実存主義的不安:形態2)。 つまり新しい中世エリートとして資本家(E)が生まれ、真理としての資本(T)が社会(M)を支配し、人間(M)は権威者である資本家(E)から認められたいという承認意欲をもって激しい競争を行い、資本(T)による精神支配の中で人間性が犠牲になっていると考えたのです。 そのいずれも、自分で生き方を選択するという意味で自由でした。 しかし、ヨーロッパ内部では自由でも、世界全体で見るとそうではありませんでした。 ヨーロッパの人々は、ヨーロッパ内部では自由人(M)でも、世界全体から見ると抑圧者(E)となって現われたのです。 これは半世紀ほど先行したスペイン、ポルトガルによる中世的植民地支配に対抗することによって生まれながらも、それとは性格が異なる近代の自由な精神と、商人資本を基として展開された新しい世界支配形態でした。 たとえば17世紀初頭に設立されたイギリスの東インド会社は、イギリスが18世紀中頃より2世紀に渡ってインドの植民地支配を行う先駆けとなりましたが、その頂点にあったのは国王ではなく株式資本であり、統治の指針となったのは高級官吏のイデオロギーではなく帳簿組織(books)でした。 その社員たちは古代ローマ帝国の政策を研究して、現地の宗教やイデオロギーに中立的な「法の支配」を実行しました。 その行動理念は現地の王国の繁栄ではなく株式資本の成長であり、そのために必要な利益の拡大と社会の安定でした。 彼等は現地の国王の政策アドバイザーとなって間接統治を行い、本国からの支援を受けて兵士を呼び寄せ、軍事物資やノウハウを取り寄せて現地で募った兵士を訓練し、その大規模な軍事組織によって全国の治安を維持しました。 このようにして、一つの株式会社が、一つの国を支配したのです。 本国での資本蓄積に貢献したのは、自由な精神を持つ人々でした。 彼等は封建領主による国土の分割支配を嫌い、統一権力によって国内市場が一つになり、自由で安定した取引が行われることを望みました。 人々の統一権力への期待と支持によって、国王の権力が強大となって行きました(絶対主義の時代)。 分権化の伝統を持つイギリスに対し、中央集権化が進んだフランスでは、封建領主であった貴族が統合されて国王の下で官僚制が発達し、常備軍が組織されました。 自由な精神と抑圧的な社会とのアンバランスは、身分による差別をなくし平等な社会を築きたいという人々の切実な願いへとつながりました。 そしてその願いは大規模な行動に発展し、アメリカ独立革命(1776年)や、フランス革命(1789年)として現実のものとなりました。 自由な精神による平等な社会の実現は、ナポレオンの時代を経てヨーロッパ諸国に広がり、ヨーロッパではその後1世紀に渡って平和な時代が続きます。 帳簿組織(books)への信用は、自由な精神を持つ多くの人々から投資のための莫大な資金を集めることを可能にし、以前は専制君主にしかできなかった大事業を、人々が協力し合う事によって実現することができるようになりました。 絶対主義の時代には、国王の強力な庇護の下で様々な産業が発展し、独立革命や市民革命を経て、産業の克明な記録として資本は成長しました。 しかし19世紀後半になると、帳簿組織(books)の中で成長した産業資本は、科学技術の発達と相まって重化学工業を発展させ、さらに国内産業の発展を越えて独自の増殖を始め、金融資本として有望な投資先を求めて海外へ進出するようになったのです。 増殖し続ける金融資本の投資先である植民地には、現地の治安維持のために本国から軍隊が派遣され、それはヨーロッパ列強間での植民地獲得と維持のための激しい競争を引き起こしました(帝国主義の時代)。 この19世紀後半の帝国主義の時代において、急速に国力を増大させたのがドイツでした。 ドイツなど後発の帝国主義諸国は、先行するイギリスやフランスなどに対して植民地の再分割を要求する動きを強めました。 1945年、西欧列強による世界分割支配が終幕を迎えた要因として、西欧諸国間の内部抗争以外に、その周辺勢力であるロシアと日本の存在が重要です。 ゲルマンの森の東に位置するロシアは、13世紀前半より15世紀後半までの2世紀半の間、遊牧民族による強力な軍事支配を受けています。 かつて遊牧民族がユーラシア大陸に展開した騎馬軍団の機動力とその強力な弓矢に勝てる農耕民族は存在しませんでした。 遊牧民族の要求に応じて農耕民族は生産物を収奪され、その支配に反抗した集団は、男は皆殺し、女や子供は連れ去られるという遊牧的制裁を受けなければなりませんでした。 しかし西欧で発達した軍事技術をロシアが導入することによって、遊牧民族との勢力関係は逆転しました。 統一後のロシアは領土を拡張し、16世紀後半にはウラル山脈を越えてシベリアへ進出し、その地域に住む様々な民族を統合しながら東へ進み、17世紀後半にはユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島まで勢力を拡大しました。 (その半島から千島列島を渡り南端のウルップ島まで到達すると、その先は択捉島、国後島、北海道という日本列島につながります。 ) 統一後のロシアは征服と支配については遊牧民族の影響を残していますが、精神面ではロシア正教という東方キリスト教の伝統を受け継いでいます。 貴族たちは洗練されたフランス文化を受け入れましたが、一般の人々は支配層から生産物を収奪される昔と変わらない生活が続きました。 過酷な支配という現実と、愛に満ちたキリストの精神という二つの相反するものはロシアの知識人たちの心を引き裂き、世界に強い衝撃を与えた19世紀のロシア文学も、このような時代のもとで生まれました。 日本は、ユーラシア大陸の東に浮かぶ島国です。 かつて古代帝国が栄えた大陸の間近にあって、その文化の影響を強く受けたという点では、大陸の西に浮かぶ島国イギリスによく似ています。 しかしイギリス本土と大陸とを隔てるドーヴァー海峡が約30キロメートルであるのに対し、日本本土と大陸(朝鮮半島)とを隔てる距離は、その5倍以上の約160キロメートルであるため、古代帝国滅亡後に大陸に君臨する中世エリートによる精神の抑圧の影響が比較的少なかったイギリスよりも、さらに多くの心の原形が日本には残っていると言えるでしょう。 格式社会の原形は、男(M1)、女(M2)、老人(M3)、子供(M4)という外側から内側へと保護する関係にある家族の成り立ちであり、多くの家族が社会という単位に有機的に結合することによって、軍事(M1)、生産(M2)、加工(M3)、物流(M4)という役割分担が生まれます。 日本では、それが江戸時代の封建制度により士農工商という身分として固定されることになりました。 それぞれの特色を生かし、競争を取り入れ、3つの意欲を十分に発揮できる環境を整えようとしたのです。 中世エリート(E)に近いか遠いかによって、その親族(M1)、迎合者(M2)、その他(M3)という階級的な序列( E>M1>M2>M3 )ができてしまい、第3の意欲である「承認」や「勝負」の意欲が肥大化し、人間性の基礎となる第1第2意欲は抑圧されることになるからです。 日本では、士農工商という序列( M1>M2>M3>M4 )がありましたが、武士(M1)は科挙エリート(E)のように「真理」「権力」「財力」の全てを独占してはおらず、精神の抑圧者として振舞うこともありませんでした。 「真理」は武士の独占物ではなく、各地の大名が創設した学問所において相対的な学問として学ばれ、その知識は寺子屋という武士の私塾を通じて、貧しい子供たちにも伝わりました。 「財力」を持っていたのは武士(M1)ではなく、商人(M4)でした。 だから武士は貧しくても、尊敬されたのです。 西欧の独立革命や市民革命の実現に大きな役割を果たした近代思想は、身分の固定をなくす( M1=M2=M3=M4=M )という画期的なものでした。 それは階級社会ではなく、格式社会にあった日本人にとって、対立する思想ではなく、先進の思想として受け入れることができるものでした。 日本は西欧諸国によって東インド会社が設立される17世紀前半より2世紀以上に渡って鎖国政策を取り、ヨーロッパでは唯一の窓口としてオランダから情報を入手しましたが、19世紀中頃に転機が訪れます。 産業革命による西欧の技術力の粋を集めた巨大な四隻の軍艦が日本に来航し、日本人の目の前に現われたのです。 黒いタールで塗られ多くの砲筒を搭載した巨大な蒸気船は、日本人に対して恐怖というより羨望を抱かせました。 これは日本人にとって、軍事的脅威以上に、技術的な脅威でした。 なぜなら歴史上どのように強力な軍事力によっても越えられなかった日本列島という城を守る日本近海という堀が、西欧の優れた技術力によって埋め尽くされたということを、日本人に理解させたからです。 数年後には各地の有力大名によって数隻の軍艦が作られ、徳川幕府によって海軍力を増強するための訓練所が設けられ、日本は開国から明治維新へと進んで行きました。 近代において古代の心の原形を取り戻した西欧諸国を理解することは、心の原形を保ち続けている日本人にとって容易な事でした。 絶対的な宗教やイデオロギーによって精神を抑圧する階級が歴史上に存在せず、格式による厳格な身分差だけが残っていた日本社会は、西欧の啓蒙思想や独立革命、市民革命の成果を、対立する文化としてではなく、先進の文化として受け入れることが可能だったからです。 いったん植民地になってしまうと、本国からの独立は容易ではなく、独立戦争を戦い抜かなければなりません。 日本が最も警戒したのは、ロシアでした。 それには幾つかの理由があります。 西欧諸国は遠く海を船で渡って来ますが、東欧の大国ロシアはユーラシア大陸の上を移動して来ます。 西欧諸国は植民地として支配しますが、ロシアは自国の領土拡張の成果として支配します。 近代西欧諸国は3つの意欲を重んじる心の原形を取り戻していましたが、当時のロシアはまだ遊牧的支配の影響が色濃く残っていました。 歴史的に遊牧民族の軍事的脅威にさらされて来た歴代中国王朝や朝鮮王朝から見ると、その遊牧軍事勢力に代わるロシアはキリスト教の精神を持つ比較的穏やかな存在だったかも知れませんが、第1第2意欲が重んじられない遊牧的支配に馴染みの薄い日本人にとっては、当時のロシア人は強い警戒心を抱かせる存在だったのではないでしょうか。 日本列島と大陸ロシアとの間には、日本海、朝鮮半島、そして満州がありました。 日本は朝鮮王朝の独立を巡って中国王朝と戦い(日清戦争、1894年)、10年後にはロシアの満州地域独占に反発したイギリス、アメリカの外交支援を受けてロシアと戦い(日露戦争、1904年)、それぞれの戦いに勝利しました。 日本はこの頃から、歴史上初めて長期に渡って心の原形による公私調和への力が次第に不安定となり、1945年まで40年間の精神抑圧の時代が始まるのです。 日本の東欧ロシアに対する警戒心は、日露戦争後も消えませんでした。 消えないどころか、逆に強くなったと言えます。 それは日露戦争後の日本とロシアとの軍事バランスに重大な影響を与える、アメリカなど西欧諸国との関係が悪化したからです。 20世紀前半の日本の軍事行動の根本的な理由は、次の関係式で表すことができると思います。 「戦争力」=「戦闘力」+「外交力」 「戦争力」が、「戦闘力」プラス「外交力」であるならば、日露戦争に勝利した日本の「戦争力」は、ロシアに対する「戦闘力」と、イギリス、アメリカとの協力関係の維持という「外交力」の合計になるでしょう。 その外交力の成果に期待が持てなくなった日本は、将来において再び起こるかも知れないロシアとの「戦いのため」に、戦闘力の強化を目的としたアジア地域の重要な軍事拠点を押さえていくための行動を、単独で起こす必要があったのです。 日本の行動目的は、19世紀中頃の開国の時から変わりません。 それは、日本を守り続けてきた周辺海域を埋めてしまったヨーロッパの技術力と、海軍を中心とした軍事力による植民地化の脅威から日本を守るために、同等以上の力を付けて、対抗できる立場に立つということです。 そして西欧は遠い海の彼方にあっても、東欧ロシアは東アジアの国境に迫っており、その遊牧的支配下に飲み込まれるかも知れないという警戒心を、日本は東アジアのどの国よりも強く抱いていたという状況があったのです。 日本はロシアと同じく連合国の一員として参戦し、ドイツの植民地であった山東半島を、3年前まで清王朝の都であった北京を防衛するために必要な軍事拠点として押さえました。 それまでに日本は、日清戦争後に台湾、日露戦争後に南樺太や遼東半島、そして朝鮮半島など、安全保障上で重要となる拠点に次々と新しく産業を興していました。 そして近代的な法制度を整え、軍を育成して将来の戦いに備えるための政策を進めました。 この日本の政策が、中世エリートによる遊牧的支配とも、近代西欧エリートによる帝国主義支配とも異なるのは、それが現在の「利益のため」ではなく、将来において起こるかもしれない「戦いのため」に、安全保障政策の一環として実行されたという事です。 日本の行為は、西欧諸国から見れば、第1次世界大戦によるヨーロッパ情勢の混乱に乗じてアジアの「利益」を独占しようとする裏切り行為に見えたでしょう。 日本の行為は、清王朝崩壊後に内戦状態となった中国大陸の人々から見れば、中華を最上とする中世儒教上の序列の低い、野蛮な民族による自国の「利益」のためだけの侵略行為に見えたでしょう。 日本の単独行為は理解されにくく、孤立の度を深めるだけでした。 それは西欧の帝国主義によって、世界の中のアジアの序列は下にあり、中世儒教によって、アジアの中の日本の序列はさらに下にあったからです。 帝国主義内部からの挑戦者としては、その上部の支配者側(E)の内部抗争として、大戦後の高額の賠償に苦しむドイツ(1)が現われ、下部の被支配者側(M)の中からは、アジア地域の安全保障上での軍事統合を目指す日本(2)が現われました。 1920年1月に国際連盟が成立したときには、大戦への反省から平和な時代が到来したと思われました。 しかしその時代は長くは続かず、1929年に始まる世界恐慌の深刻な影響が広まるにつれて、戦勝国への多額の賠償金の負担を抱えるドイツ(1)や孤立を深める日本(2)の国内では次第に閉塞感が蔓延し、帝国主義はその内部に2つの危険な火薬庫を抱えてしまうことになりました(ファシズムの時代)。 1939年9月、ヨーロッパで開戦の火蓋(1)が切られた時、アジアではすでにその2年前の1937年7月、火薬庫(2)に火がつけられていました。 すぐに沈静化できると思っていた日本政府の予想に反し、内戦状態にあったアジア大陸での日本の戦局は、見えない罠に引きずり込まれるように拡大し続けました。 日本にとってこの戦いは、中国国民党と中国共産党との間で当時行われていた激しい内戦の犠牲者も、全て対日戦の犠牲者にすり替えられてしまう恐れがあるという、国際世論上極めて不利な戦いでした。 中国共産党軍と協力関係にあったソ連(3)は、すでにアジア戦線に封じ込められていた日本(2)と1941年4月に日ソ中立条約を結んで東部方面の安全を確保し、同年6月に始まる西部方面のドイツ(1)との戦いに戦力を集中させることができました。 しかしドイツ(1)の進撃は激しく、フランスのパリはすでに陥落し(1940年6月)、イギリスのロンドンは空襲に苦しめられていました。 イギリスやソ連など連合国側は、ヨーロッパ戦線(1)で軍事的優位に立つために、アメリカに対して参戦を要望しました。 それは東部方面の安全確保のためにアジア・太平洋戦線(2)の拡大を望む側のソ連、そして内戦に決着をつけたい中国側も同様でした。 しかし、アメリカ国内での戦争反対の声は強く、参戦の目処は立ちませんでした。 アメリカの参戦を切望する連合国側は1941年12月、日本の連合艦隊による、アメリカ太平洋艦隊ハワイ真珠湾基地への奇襲攻撃に狂喜しました。 アメリカの参戦が確実となったからです。 軍事的優位に立てた連合国側は勝利を確信しました。 後は戦うだけでよかったのです。 日本は、アジア戦線(2)に解決の目処が立たず泥沼化するのは、中国国民党に背後から軍事支援を行うアメリカが原因だと思っていました。 ですから日本側の望みは、アメリカに対する短期決戦によってその戦意を喪失させ、早期講和によって関係を回復し、アジア戦線への後方支援をやめさせた後に、大陸での戦闘をすみやかに終結させることでした。 しかしアジア大陸における戦闘のすみやかな終結を望む国は、日本以外に、どこにもなかったのです。 日本政府にとっては、日ソ中立条約が有効であった状況下において、ソ連の軍事進攻は想定外でした。 1945年8月6日に広島へ原爆が投下されてから2日後の8日、一歩たりともソ連(ロシア)側の領土に侵入していない日本に向かって、ソ連が軍事進攻を開始しました。 その翌日9日には長崎に原爆が投下され、ソ連の軍事進攻開始から1週間後の15日、日本は連合国に降伏し、アジア・太平洋地域(2)における全ての戦闘が終わりました。 「戦いのために」日本が産業を興した満州地域は、8月15日の終戦後も継続したソ連軍による軍事進攻の後、中国共産党軍によって「利益のために」接収されました。 アメリカからの軍事支援を受けて戦った中国国民党の人々は、長年に渡る日本との戦いによって戦力を使い果たし、戦力を温存していた中国共産党軍の追撃を受けて、海の向うの台湾に逃れました。 (なお、ソ連(ロシア)軍による北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)の不法占領は、終戦から13日後の28日より開始。 東西冷戦はいつから始まったのでしょうか。 ソ連(ロシア)が支援する中国共産党軍が日本軍を奇襲攻撃し、日本軍の反撃の目標を、アメリカが支援する中国国民党軍に向けさせることに成功した1937年7月に、東西冷戦は始まったのではないかと思います。 座標の左下は形而上的な(見えない世界の)領域です。 古代や近代における真理(T)はこの領域に属し、精神の自由が認められる社会で公私調和を目指す人間(M)がいる右上の領域と向かい合っています。 人間(M)が左上にあるときは、真理(T)と人間が直接向かい合うことができず、真理の言葉は中世エリート(E)を介して人間(M)に伝えられます。 真理(T)は中世エリート(E)の背後にあって独占されており、形而上的な(見えない世界の)真理と向かい合おうとすることは中世エリート(E)によって禁止されます。 いわば左上は、中世エリート(E)による精神の抑圧が行われる抑圧期の社会です。 右下は、社会の秩序が崩壊して内戦状態となり、無法地帯となった混乱期です。 (座標上の4つの領域のうち、左下は「常なるもの」の領域、残りの3つは「無常」の領域と言うこともできます。 その理由は、「国のかたち」は短期間で変化しますが、「国のこころ」の変化には長期間を要するからです。 しかし40年間の抑圧期最後の2年間において戦局が悪化の一途を辿ったとき、心の原形(やまとごころ)は、家族や故郷など「公:ALL」が無限大となり、自分の命である「私:ONE」が限りなくゼロになりました(公私調和をめざすベクトルは右上方向から垂直になってしまいました)。 これは公私調和をめざす心の原形(やまとごころ)の平常の姿ではなく、極限状態にある末期的な輝きの姿であったと言えます。 そして「国のかたち」と同様に「国のこころ」も抑圧期に入り(ベクトルは完全に左に傾き)、公私調和をめざす社会の力は無力化され、知識意欲は強制的自己批判によって潰され、労働の尊厳は踏みにじられて、日本人の心は精神の抑圧者に迎合する遊牧的支配に馴染む心理構造に作り変えられてしまったと思われます。 (1、2、3の順に期間は短くなりますが、現代への影響は次第に大きくなるので、グラフ上では均等割合で区分します。 ) 西ヨーロッパの国々では、古代ローマ帝国(1)滅亡後、「神学」を司る中世エリートであるキリスト教エリートの出現によって約千年間の中世(2)の時代へ移行しました。 その後、ルネサンス、宗教改革、そして「啓蒙思想」によって古代の自由な精神を取り戻し、近代(3)へと移行しました。 中国大陸や朝鮮半島の国々では、古代漢帝国(1)滅亡後、「中世儒教(朱子学)」を司る中世エリートである科挙エリートの出現によって中世(2)に移行しました。 19世紀後半より20世紀前半にかけて、国のかたちは近代国家へ移行しましたが、国のこころに変化はなく、精神面での対内抑圧、対外蔑視という性質を持つ中世儒教を破る近代儒教はまだ生まれていません。 中国大陸や朝鮮半島北部ではそれを上回る強力なイデオロギーによって中世儒教的なその2つの性質をさらに強化しているとも感じられます。 自由主義的な法制度を持つ韓国は、その将来において中世儒教を打ち破り、西欧の啓蒙思想に匹敵する近代儒教を誕生させる最も有望な国だと思います。 日本はヨーロッパやアジアの大陸諸国と異なり、精神の抑圧期としての中世は存在しません。 そのことは、日本では中世の入口にある「神学」、「中世儒教」などのイデオロギーや、それを司る中世エリートが歴史的に存在せず、さらに中世の出口にある「啓蒙思想」もまた存在しないことからも分かります。 あるのは古代から変わらない心の原形(やまとごころ)だけです。 それは宗教や思想に中立的な古代帝国に備わっていた基本原理であり、人間の根源的な「生」「死」「勝」という3つの動機から生まれた3つの意欲を労働によって社会的に融合させて、より大きな規模で公私調和の実現を目指すという、最も根源的で自由な人間社会の「本体」としての「こころ」です。 中世エリートのような精神の抑圧者が長期に渡って支配する社会では、「宗教」や「思想」そのものが人間の自由な精神を抑圧する絶対的な社会の「本体」になってしまいます。 しかし本来は「こころ」が本体であり、宗教や思想は本体としての「こころ」を高めたり強めたりするためにある相対的なものだというのが一般的な日本人の考えだと言えるでしょう。 その観点から、西欧の啓蒙思想をはじめあらゆる諸外国の思想、学問を日本人は受け入れます。 これは宗教や思想が絶対的なものに変わる以前の、古代帝国の人々の考え方と同じであると思います。 日本は、「古代儒教」などおおらかな気風を持つ古代漢帝国の文化を取り入れた時代(1)も、古代帝国滅亡後に大陸諸国との国交を断絶し独自の文化を育んだ時代(2)も、西欧の制度や文化の導入による近代国家建設以降(3)も、強力な宗教やイデオロギーが社会の本体(国のこころ)となることはありませんでした。 大陸から伝わった「からごころ」を権威ある思想(イデオロギー)として振りかざすのではなく、それを学ぶことによって、心の原形である「やまとごころ」を強くし、高め、大切に育むように促しているのです。 「から」という言葉は、「漢」や「唐」を意味する言葉です。 日本人は古代漢帝国最後の唐王朝滅亡後も、アジア大陸のことを「漢土」「唐土」と呼びました。 歴代中国王朝とヨーロッパ、そして日本それぞれの「国のこころ」の間に、アメリカとロシア(ソ連)の「国のこころ」を入れて五角形の形に並べると、北極点を中心として地球儀を上から見たような図になります。 アメリカは西欧から生まれた国ですが、歴史的には日本と同じく精神の抑圧期である中世を経ていないため、日本とヨーロッパの中間に位置しています。 ロシア(ソ連)はヨーロッパと同じくキリスト教の精神を受け継いでいますが、歴史的には中国と同じく遊牧的支配の影響を強く受けているので、中国とヨーロッパの中間に位置しています。 五角形の線を中国と日本の間で切って一列に並べると、「国のこころ」の違いがわかりやすくなります。 左へ行くほど中世の性質が強くなり、右へ行くほど古代の性質が強くなります。 近代を生んだヨーロッパの国々は、その中間的な性質を持っていると言えるでしょう。 また、左へ行くほど絶対的、大陸的であり、右へ行くほど相対的、海洋的です。 ヨーロッパの中では、フランスがやや左側、イギリスが右側であり、ドイツはその中間的な位置にあると思います。 東アジアの中では韓国が、本来であれば中世儒教の教条の伝統を持つ中国と、古代儒教の心の伝統を持つ日本の中間として、ヨーロッパと同じ位置に来てもいいのですが、公務員による親族への利益供与や対外蔑視という中世儒教(中華思想)の伝統がまだ残っており、近代儒教へ移行するための啓蒙思想が誕生前であるため、「国のこころ」は左側にあります。 1592年と97年の2度に渡って日本は朝鮮半島へ出兵し、中国王朝(明)と朝鮮王朝の連合軍と戦いました。 この出兵は、日本国内において15世紀中頃より1世紀以上続いた戦国時代を統一させた軍事エネルギーの暴走とも言えるでしょう。 全国を統一へと導いた軍事エネルギーは、統一後も収まりが付かず、豊臣政権の武将達は、新たな戦場を要求したのです。 戦争はいったん始まってしまうと、お互いのメンツや内部での昇進、報酬や名誉、犠牲の拡大と復讐心の累積などによって、挽回のためのチャンスを次から次へと要求するようになり、止められなくなるのは歴史に見る通りです。 (明治維新を実現した軍事エネルギーは、総司令官であった西郷隆盛の命と引き換えに、明治10年(1877年)にようやく止まったと言えると思います。 当時の最有力者であった徳川家康は、豊臣政権(T)を支える文民エリート(E1)と、軍人エリート(E2)との対立に目を付けました。 そして軍人エリート(E2)を味方につけて、文民エリート(E1)を支持する勢力を戦いによって打ち破り(関ヶ原の戦い、1600年)、将軍になった後に軍人エリート(E2)に与えた領地を、2代将軍の治世までには改易によって没収して、軍人エリート(E2)も無力化してしまいました。 戦国の世を統一したのは豊臣秀吉ですが、終わらせたのは徳川家康だと言われ、軍事エネルギーを止めることの難しさを物語っていると思います。 徳川家康は、戦争を終わらせ平和を永続させるために、数多くの政策を実施しました。 各地の大名が創設した学問所において、古代儒教を中心とした学問が行われました。 徳川幕府は、上下の秩序に厳格で排外主義の強い中世儒教(朱子学)を政策的に採用しましたが、絶対的なイデオロギーとして強制することはなかったため、相対的な学問として学ばれました。 19世紀に入ると、その知識は寺子屋という武士の私塾を通じて庶民に広まり、貧しい子供たちにも伝わりました。 そして最強の技を持つ者たちが、将軍の前でそれらの技を披露する御前試合の制度が設けられました。 必要なことは抑圧ではなく、解放でもなく、転化であるという考え方を、幕府の政策の中に見ることができます。 広い海に守られた日本列島の、2世紀半に渡る徳川将軍の平和な時代は、19世紀中頃に出現した西欧諸国の技術力と海軍力の脅威によって終わりました。 西欧の技術力によって日本近海が埋め尽くされ、大陸と陸続きになったような衝撃を覚えた日本人は、国の安全を守るために、明治維新によって近代化を進め、経済力と軍事力を高めました。 20世紀前半、日本人が造った戦艦は、外国の兵士から、塔のように巨大であると言われました。 なぜそのように巨大な戦艦を造らなければならなかったのでしょうか。 日本人は、海の上に城を建てたかったのだと思います。 それは国の安全を守るために必要だったのです。 決して他国を侵略するために造られたのではありません。 しかし混迷を深める世界情勢の中で、日本という国は、日本人が予期しない方向へと進んで行きました。 死を覚悟して出撃する前に書かれた兵士の遺書には、残された家族の将来を思う、おだやかでおおらかな、やまとごころが表現されています。 「公」的な戦いと、その戦いのために失われた兵士の「私」的な命は、永久に「調和」させることができません。 そのため、平和な世に生き残った人々は、そのような戦友に申し訳ないという思いに、一生苦しみ続けなければならないのでしょう。 公私調和をめざそうとする、やまとごころの持つ残酷な一面です。 (日本の神社、神道は、その調和のためにあるのだと思います。 ) 日本人を、そして日本という国を、諸外国の人々が理解しやすいようにするための工夫についていろいろと考え、書いて来ましたが、書き尽せるものではないということがわかりました。 機会がありましたら、またお話ししたいと思います。 2013年2月21日 川内尋嗣(手作り教材くらぶ).

次の

インバウンドに特化した入札情報サービス データベースを新たに構築「インバウンド入札navi」としてリニューアル|株式会社やまとごころのプレスリリース

やまと ごころ

そこで、『古事記』、『万葉集』に入る前に、今までの『源氏物語』研究に一区切りつけようと持論をまとめたのが、『紫文要領』である。 もともと宣長は、争いを好まぬ温順な性格である。 すでに幼少時漢学の素養を身に付けており、22歳で医学修業のため京都へ遊学した際、師事した堀景山から儒学のほか国学も学ぶ機会を得た。 その結果、平安王朝文化へ深い憧れを持ち、とりわけ『源氏物語』に深い愛着をもつようになった。 彼の『源氏物語』に対する思い入れは終生変わることなく、「此物語は、世の中のもののあはれのかぎりを、書きあつめて、読む人を感ぜしめむと作れるものだ」と絶賛した。 彼は、ものごとに触れて心が揺さぶられる結果湧き上がる、しみじみとした情趣や哀愁、「ああ」という例えようのない情感を「 もののあわれ」と呼び、それが作品の底流に脈々と流れる『源氏物語』を文学芸術至高の作品と評価した。 そして「もののあわれ」こそ、 日本文学の本質であり、 和歌の原点もまた、ここにあると断じた。 朱子学全盛であった江戸中期、800年も前につくられた壮大な不倫小説に、これほどの評価をするには相当の覚悟を要したであろうとおもわれる。 彼は仏教や儒教の道徳観が人間本来の感情を抑えつけていると批判し、文学の目的は儒仏の教えや道徳を説くことではなく、素直にものに感じる心を養うことであるとして、自然な感情表現こそ崇高なものであるとした。 したがって朱子学の勧善懲悪的観念や仏教的立場からの論評に強いアレルギーを示した。 紫文要領 『紫文要領』は宣長34歳の作であるが、源氏熱は冷めることなく、その後も「古事記伝」執筆と並行して、自宅の鈴屋(すずのや)で源氏物語の講義をつづけた。 後年、68歳になって再度まとめた『源氏物語玉の小櫛』と比べても、源氏に対する評価は一貫して変わらない。 しかも驚くべきことに、1000年を経た今もなお、『源氏物語』は光芒を失わず、「もののあわれ」に酔いしれるものは後を絶たない。 源氏がこれほどまで後世の人々に愛されるようになったのは、ひとえに宣長の功績といってよい。 宝暦7年(1757年)京都から松坂に帰った宣長は小児科を開業し、昼間は医業、夜は『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。 27歳の時、賀茂真淵の書に出会って、本格的に国学の研究に取り組むことになる。 当時、幕府公認の学問は朱子学である。 しかし彼は儒教や仏典の研究はあくまで外来の学問であり、我が国にも日本独自の思想や精神があるはずと考え、それを日本の古典や古代史のなかに求めたのである。 ただ、我が国には儒教の四書五経、仏教の仏典に相当するようなバイブルがない。 そこで彼は万葉集や古事記、源氏物語に注目したのである。 古事記・万葉集・源氏物語・平家物語・伊勢物語 当時、最古の書物が『古事記』であることは知られていたが、奈良時代に創られてすでに1000年を経ているにもかかわらず、その内容は解読不能であった。 古事記の時代、我が国に口語はあっても、文章を記すための日本語がなかった。 やむなく中国から漢字を借りて書き記すほかなかったのである。 その羅列された漢字をひとつひとつ解明し、『 古事記伝』を著したのが本居宣長である。 彼は賀茂真淵に勧められて万葉集に入り、万葉がなを習得したのち、抜群の語学力で古事記の解読を始め、並行して万葉集、源氏物語、平家物語、伊勢物語に取り組んだ。 ひたすら独学である。 苦心の結果、テニヲハの係り結びの法則を発見し、これらの古典をつぎつぎに読み解いていった。 言語学者として余人の追随を許さぬ能力を身に着けていたことが窺われる。 古事記、神道そして礼儀 とりわけ『古事記』に対する取り組みは尋常でなく、35歳から68歳まで33年間、たゆむことなく解読作業に取り組み、『古事記伝』44巻が完成した翌年、緊張の糸が切れたかのように、世を去っている。 彼は常々持続こそ力であると繰り返していたが、まさにそれを体現したといえる。 そして『古事記』研究に没頭した結果、太陽神の子孫である天皇が統治する日本を世界でもっとも尊い国であるとし、我が国には太古より自然の神道があって、おのずと礼儀が備わっており、日本こそ真実の教えが唯一伝わる国であると確信した。 そして日本独自の精神におもいを致した結果、日本人には豊かな感受性と素直に感動する心が備わっており、それを「 やまとごころ」と呼んだ。 しかしその心根は決して雄々しく逞しいものではなく、 朝日に匂う山桜花のごとく儚く滅びる運命にあるにもかかわらず、控えめで潔いものと位置づけた。 近年の大災害に対する国民の姿勢に、「やまとごころ」を感じるひとは少なくないように思われる。 国の品格というべきものであろう。 宣長の「やまとごころ」は後年、「大和魂」として尊王攘夷や軍部のアジテーションに利用されるのであるが、それが彼の意図したところでないことは言うまでもない。

次の