プリンスつむ 770。 [ 歩く [再録] ]

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横峰峠のところまで府道782号線の舗装道路が登ってきていて、尾根道との分岐になっています。 左側の尾根道を歩み、途中で高塚山に立ち寄ることになりました。 尾根道からの分岐点には、こんな 簡単な標識を作ってくれた人がいます。 なければ分岐を見過ごしてしまいそう。 高塚山への道の途中で 伏見区から山科区にかけての街並みが見えます。 高塚山の三角点と山頂に掛けられた私製の木札。 なぜか立派な数珠が掛けてあります。 再び、分岐点まで戻り、 牛尾観音への尾根道を行きます。 その通過点が「桜の馬場」です。 けっこう広い平地に出ます。 そこが 「桜の馬場」です。 ここから牛尾観音への山道を登って行きます。 途中で2通りの登り道に分かれます。 いずれを登っても、この道になります。 ここからはあと少しです。 牛尾観音は牛尾山の山腹にあります。 この牛尾山は音羽山の一支峰という位置づけになります。 「一説に小野の仁海僧正が亡母追善のために牛皮曼荼羅を描き、その尾を当山に埋めたので、牛尾山と名づけたとつたえる」 (資料1)そうです。 境内の入口付近に、 竹垣と石標が見え、その先に 「手水屋」があります。 この 手水屋の木鼻と蟇股はけっこう深い彫り物になっています。 大杉堂 手水屋の左斜め前、境内に入る左側に、 「大杉坊大権現」と「八頭竜神王」の提灯をずらりと吊したお堂があります。 大杉坊大権現(天狗)は火を司る男性神であり、八頭龍神王(八頭龍王尊)は水を司る女性神だとか。 「大杉坊」「宇賀神」と記された扁額が掛けてあります。 (資料2) この日は、 牛尾観音の本堂と境内で行事が行われていました。 境内には大勢の人々が参集し、本堂の正面の縁と向拝の場所を使い、ある大学のクラブの人たちが、 和太鼓のパフォーマンスを奉納している場面に出会いました。 山伏姿の人が司会をされていました。 しばらくその演奏を見聞してから、境内の一隅で昼食休憩です。 事後に調べてみると、 この10月17日は、秋季御開帳・大般若経転読法要(本尊の公開)が行われる行事日だったのです。 「牛尾観音」は通称で、正式には「法厳寺」というお寺です。 山号はかつては牛尾山、現在は 「牛王山」だそうです。 真言宗系で単立の本山修験宗のお寺。 本尊は十一面千手観音、天智天皇の自刻とされるもので秘仏です。 脇壇には行叡居士や延鎮法師の像を安置され、 不動明王・毘沙門天像も安置されているそうです、 (資料1,2,3 本堂の向拝の木鼻と蟇股はなかなか見応えと力強さのあるものです。 現在の本堂は元禄2年(1689)の再建によるものだとか。 垂仁天皇(前29~70)の指示により大国ノ不遅が牛尾山の山頂に祠を建立したのがはじまりとされ、奈良時代、光仁天皇の宝亀元年 770)に賢心法師により開基されたと伝わっています。 平安時代前期には、清水寺の開山延鎮法師が仏閣を建立し、清水の奧の院とも称されたことがあるようです。 もとは現在地よりも400m余山上に伽藍が建立されていたそうです。 しかし中世に衰微し、その後現在の地に移ったといいます。 豊臣秀吉による再興、その後に衰微、そして再び近世に再興されて現在に至るのです。 大石内蔵助が仇討成就の祈願をしたお寺でもあり、勤王の志士らが密議に利用した寺でもあるそうです。 (資料1,2,3) 平安中期以降に、観音信仰が流行し、この寺も霊場として栄え、今は「京都通称寺」の会員となっているお寺です。 (資料1,3) 本堂の前方左方向で境内の端近くに 「護摩堂」があります。 ここには 不動明王像 が祀られています。 護摩堂の建物からみて正面の左側に 「大弁財天」の石標が立っており、 建物の左斜め方向には石鳥居を備えた 「天龍王神」の石碑が祀られています。 この石標の陰になりますが、手水鉢があり、その傍に置かれた石板には次の語句が刻されています。 如来同智 明王智水 身内身外 正理清淨 祐峯 この石鳥居の対極は、本堂の正面に向かって右側になりますが、本堂の右斜め奥に、もう一つの石鳥居が見えます。 行事が行われていたので、近づけませんでした。 手水屋の右側、上掲の竹垣の内側に、この観音像と南無大師遍照金剛像が安置されています。 観音像の背後の塀には「西国三十三ヶ所霊場」の寺名一覧が掲示され、南無大師遍照金剛像の背後には「四国八十八所霊場」の寺名一覧が掲示されています。 このそれぞれの像の周囲は御砂踏み場となっています。 それぞれの霊場の砂が集めて納められているので、それぞれの周囲を巡れば、各霊場を巡った功徳があるという主旨の説明があります。 信仰心があっても遠方まで出かけるゆとりのない人々にはありがたい場所といえるでしょう。 南無大師遍照金剛像の前を通り過ぎ、 突き当たりにあるこの簡便な標識が牛尾観音から音羽山への登山道を示しています。 幅の細い階段状の登山道があります。 ここを登れると、 さらにこの標識のところを進みます。 途中にある道標 鉄塔の傍を通過します。 こんな瘤のできた木が目にとまりました。 音羽山山頂まで900mという道標が見えます。 さらに、この道標も まずは、ちょっと「パノラマ台」に立ち寄ってから、音羽山山頂に行くことに。 滋賀県側瀨田川の景色が遠望できる場所です。 道標からそれほどの距離はありませんでした。 眺望を楽しんで、パノラマ台から引き返し、音羽山へ。 平らな広い場所に出て、音羽山頂上が間近になります。 音羽山山頂の三角点 この山頂にも鉄塔があります。 琵琶湖側の風景が見えます。 デジカメをズームアップすると 「琵琶湖大橋」が望めます。 京都側の景色をしばらく眺めていました。 京都にはほかに東山清水の音羽山、洛北一乗寺の音羽山があります。 この音羽山は古来、歌枕として知られた名山です。 北は逢坂山に接し、南は醍醐山に連なっています。 現在はこの山の中央を新幹線のトンネルが東西方向に通じていますので、この山頂から新幹線が上下線で走っているのを遠望できます。 平安時代にこんな歌が詠まれています。 (資料1,4) 音羽山をこえける時に郭公のなくをききてよめる おとは山けさこえくれば郭公こずゑはるかに今ぞなくなる 紀 友則 古今集 142 石山にまうでける時、音羽山の紅葉を見てよめる 秋風のふきにし日よりおとは山峰のこずゑも色づきにけり 紀 貫之 古今集 256 おとはの山のほとりにて、人とわかるとてよめる おとは山こだかくなきて郭公君が別れををしむべらなり 紀 貫之 古今集 384 山夕立 夕立は早や山科の奧晴れて音羽になびく浮き雲の空 冷泉為尹 為尹卿千首 夏歌 山頂から再び、道標のところまで戻り、下山に入ります。 途中で、道標を辿りつつ下山。 逢坂山関址 この手前の国道脇で、大津駅方向に向かうメンバーと別れます。 逢坂山は近江と山城の国境の山ですが、その中心となる「逢坂の関」は近江国にります。 そのため古来の歌枕書は「あふさか(逢坂・相坂)」を近江国としてきたそうです。 私たちは逢坂という漢字で覚えています。 一般にはこの字を書くのですが、藤原定家は「相坂」と書くことが多かったとか。 (資料5、以下引用歌も同じ) 一番良く知られている歌はやはりこれでしょう。 これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸 後撰集・雑一 あれっと思われた方、 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 じゃないのかと・・・。 『百人一首』には、蝉丸の歌として第三句がこちらの文言で収載されています。 上の方は『後撰集』の記載なのです。 文意がどう変化するかが興味深いところです。 後撰集: これがまあ、行く人も帰る人も、また知っている人も知らぬ人も、再びここで逢うという逢坂の関なのだなあ。 (資料5) 百人一首: これがかの有名な逢坂の関だ。 旅立つ人も帰ってくる人も、知り合い同士も見知らぬ同士も、ここで出会って別れるといわれているよ。 (資料6) この逢坂の関は大化2年(646)に設置されたそうです。 『万葉集』巻十五に次の歌が載っています。 我妹子 (わぎもこ)に逢坂山を越えてきて泣きつつ居れどあふよしもなし 紀貫之が詠んだ有名な歌は 逢坂の関の清水にかげ見えて今や引くらむ望月の駒 拾遺集・秋 「信濃望月の牧場から馬を引いて上京する駒牽きの行事のために逢坂の関まで駒迎えに出かけた光景を屏風の絵にし、それを歌によんだ」 (資料5)というものです。 貫之は、「かつ越えて別れもゆくか逢坂は人だのめなる名にこそありけれ」 (古今集・離別歌 390)というのも詠んでいます。 同様に、 清少納言が当意即妙の返歌を詠んだものとして有名な歌があります。 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ 後拾遺集 940 です。 『百人一首』の62番。 藤原行成との教養人同士のハイレベルな社会的応酬を歌で交わしたというエピソードのあるものです。 文意は「夜の明けないうちに、鶏の鳴きマネをして、函谷関(かんこくかん)はだませたとしても、逢坂の関はそうはいきません。 私はけっして逢いませんよ」 (資料6) 中国、斎の孟嘗君 (もうしょうくん)のとった戦術を下敷きにしているのです。 清少納言が己の知識をはばからずに堂々と披露している応答です。 蝉丸神社への石段傍 逢坂の関のすぐ近くにあります。 蝉丸は逢坂の関の傍に住んでいた隠者だといわれています。 「盲目ながら琵琶の名手で、じつは醍醐天皇のご落胤だという伝説もある」 (資料6)のです。 その蝉丸を祀ったのがこの蝉丸神社です。 祭神は蝉丸大神猿田彦命です。 なのですが、蝉丸神社は2つあります。 もう一つは、「関蝉丸神社」です。 こちらは「探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -3 蝉丸神社(関蝉丸神社・下社)」というブログ記事にまとめて再録しご紹介しています。 今回のウォーキングの終着点です。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 「上醍醐不動の滝」です。 休憩所の建物の傍に、かなり古びてきた説明板が立っています。 そこには、この山に聖宝理源大師がお寺を開かれたことと、修験道の中興の祖と仰がれていること、並びにこの山が道場でもあると記されています。 その後に、こんな記述があります。 「お山は修験道にかぎらずとも、人間精神の道場である。 頂上に立つ爽快さはどうしても頂上に立つことなくしては体感できない。 がんばれ、降りの道は苦しさを伴っても楽しい。 人間精神を鍛える原始の場、山こそはその価値を失はぬ神秘の姿である」と。 その後に俳句と短歌が記されています。 山さくら つづくや上の 醍醐まで 蝶夢 幾山河 遍路の遠き 浄土かな 玄空 ひとりする行をたのしとおもひつつ醍醐山路のけはしきを踏む 勇 登って行くと、坂道の途中に朱色の鳥居を備えた 小さな神社があります。 そこに「南無音羽魔王・・・」と記された札が置かれていました。 後日、ネットで調べてみると、この社は 「音羽魔王大権現社」という名称でした。 昔この地に天狗杉があり、諸国を巡る天狗がこの木に腰かけて休むと伝えられていたそうです。 その杉が老い朽ちてしまったために、昭和10年に時の座主がここに社殿を建立されたと言います。 天狗の休み所がなくなるのをいたんだためとか。 (資料1) 登山道の傍には、表面に刻された文字が判然としなくなってきた碑が建立されています。 亀形の台座は 亀扶 (きふ)と呼ばれる中国の想像上の動物です。 余談ですが、東寺、黄檗山萬福寺、宇治川の隠元橋の傍その他何カ所かで見かけています。 途中に、役行者の小ぶりの石像が祀られています。 十八丁を登った先に、 「上醍醐寺務所」があります。 ここの建物は谷間の少し下がったところに位置します。 登山道(参道)はこの門の左側を通ります。 築地塀沿いの紅葉が紅く色づくと良い景色になります。 道端には、 「醍醐山の略史」の詳しい説明板が立っています。 道標はこのあたりが十九丁であることを示しています。 その隣に 石造卒塔婆があります。 清滝宮拝殿(国宝) 上醍醐の入口に、 開山の聖宝理源大師が醍醐の守護神として勧請した「清滝宮」があり、その拝殿の建物です。 室町時代、永享6年(1434)の建造で、三間七間、入母屋造り、檜皮葺で建物の側面に向拝が付き、入口となっていて、軒に唐破風が付いています。 蔀戸のある寝殿造りにならった舞台造りの構造となっている建物です。 (資料2,3) 清滝宮拝殿の傍、少し奥まったところに、 「醍醐水」の井戸があります。 ここが醍醐寺発祥となった霊泉です。 この霊泉が閼伽井 (あかい)に用いられています。 閼伽というのは、「仏に供えるもの。 一般に、仏前に捧げる清らかな水」 (日本語大辞典・講談社)という意味です。 寺伝によれば、ここで聖宝理源大師が白髪の老翁(横尾明神)と出会った場所なのです。 (資料2,駒札) 醍醐寺の名称が「ああ、醍醐味なる哉」というところに由来するとか。 今は建物の正面左側に霊水を引いた蛇口が設置されていて、この霊水を飲むことができるようになっています。 自然なおいしい水です。 最後の一字が判読しがたいのですが、「堂」という字かと思います。 清滝宮の背後少し高い上段の地に「准胝堂」があったのです。 創建は貞観18年(876)と伝えられていますが、たびたび火災に見舞われ、昭和43年に再建されたのですが、 平成20年(2008)8月にまたもや落雷による火災で焼失してしまったのです。 (資料3) 准胝というのは、サンスクリット語の音訳(音写)であり、女性名詞なので女尊となるそうです。 サンスクリット語・チュンディーは清淨という意味だとか (資料4)。 そして、「准胝観音は、子供を授けてくれるという、腕をたくさんもつ仏で、千手観音像に似た像容」 (資料5)だそうですので、「仏母」という表現が出てくるということなのでしょうね。 准胝観音が単独で祀られることは少ないそうです。 「経蔵跡」の傍を通り登って行くと、 「薬師堂」(国宝)があります。 山上伽藍最古の建物。 お堂の創立は延喜7年に遡るそうですが、 現在の堂は平安時代・保安2年(1121)の再建。 ここまで来ると、眺望が開けます。 さらに歩みを進めると、道の脇に階段を設けた高みがあり、 地蔵尊が祀られています。 さらに登って行くと、 手水舎と鐘楼が見えます。 そして 「五大堂」です。 昭和15年に再建されたもの。 薬師堂から東に300m余です。 『都名所図会』には、このお堂に祀られた不動明王は開山聖宝の作で、「延喜帝(注記:醍醐天皇)の御願にして、朝敵平将門降伏のためつくり給う本尊なり」という説明が記されています。 時代の背景が窺えておもしろい。 (資料6) 駒札に「祝融」という言葉が使われています。 文脈から火事・火災の意味と推測できますが、手許の辞書を引いてみました。 2つめの意味に「火事。 祝融の災い。 火事の災難。 火災」と説明があります。 その第一義の説明は「中国古代の伝説上の人物。 『墨子』によれば、殷の湯王とうおうが夏かの桀王けつおうを攻めたさい、城に火を降らせたという。 のち火の神・夏の神とされた」 (日本語大辞典・講談社)とあります。 駒札にその明王名が列挙されています。 手許の本の説明をご紹介しましょう。 (資料5) 不動明王: 大日如来の教令(命令)を受けて行動する、もっとも威力があり、功徳も大きい明王。 五大明王像の中央に安置。 降三世 (ごうさんぜ)明王: 過去・現在・未来の三世と貪 (とん、むさぼり)、瞋 (じん、怒り)、痴 (ち、無知)の三毒 (煩悩)を降伏 (ごうふく)する (抑え鎮める)仏。 不動明王に次いで格の高い明王。 軍荼利 (ぐんだり)明王: サンスクリット語で「とぐろを巻くもの」という意味を持つ明王。 蛇と密接な関係にある。 諸事を解決し、さまざまな障害を取り除いてくれる仏。 一方、不死の妙薬である甘露信仰と結びつき、拝まれることがあります。 大威徳明王: 阿弥陀如来の教令輪身 (りんじん)で、文珠菩薩の化身ともいわれる明王。 サンスクリット語の名前は、「死の神マヤを倒すもの」という意味があります。 世間に蔓延する悪の一切を降伏する仏とされます。 金剛夜叉明王: 「金剛杵 (こんごうしょ)の威力をもつ夜叉」という意味のサンスクリット語の名前を持ちます。 この金剛杵でさまざまな悪を打ち砕き、調伏 (ちょうぶく)する不空成就如来の教令輪身とされています。 種字(梵字)の下に「阿閦 (あしゅく)佛」、その下部には「卅十八町」と刻されています。 ここの文字は鮮明に判別できるものです。 阿閦仏とは「東方の阿比羅提 (あひらだい)世界(妙喜 みょうき世界)で成仏し、説法する仏。 密教では五智如来の一つ」 (日本語大辞典・講談社)だとか。 五大力堂からさらに東に登ります。 といってもあとわずかの距離ですが。 「如意輪堂」(重文) 慶長11年(1606)に豊臣秀頼により再建されたもの。 外観は五間三間、入母屋造り、こけら葺で懸崖 (けんがい)造りの建物です。 (資料2) 名前の通り、 本尊は如意輪観音。 二臂像で駒札には豊臣家ゆかりの女房衆のが寄進によると記しています。 開山堂(重文) 開山堂(重文) この建物も慶長11年(1606)に豊臣秀頼により再建されたもの。 この如意輪堂と開山堂の間に、 「結縁白山大権現」を祀る社があります。 開山堂は、建立当初「 御影堂 (みえどう)」といわれたようです。 『都名所図会』は「 祖師堂」と記しています。 八間五間、入母屋造り、妻を正面として、向拝に軒唐破風が付けられています。 屋根の前部が檜皮葺で後部がこけら葺だそうです。 (資料2. 3,6) 向拝の中央の蟇股と木鼻。 木鼻はシンプルな造形です。 象の鼻の部分の彫り込みをおもしろいと感じます。 開山堂内部と祀られている 理源大師像は、 醍醐寺の「上醍醐伽藍のご案内」のページ内に「理源大師像(木像)」と題して、諸堂とともに紹介されています。 堂前からは眺望を楽しめます。 この上醍醐で詠まれた歌のいくつかをご紹介します。 名をとむる世々は昔に絶えねどもすぐれし跡ぞ見るも畏 (かしこ)し 中原師光 新勅撰集 十七 雑歌二 樒 (しきみ)つむ山の往来 (ゆきき)の道かへて春は桜の花や尋ねん 法眼顕恵 続門葉集 巻八 雑上 兎に角に世のうきよりは淋しさを忍びてすぐる山かげの庵 (いほ) 阿闍梨俊叡 続門葉集 巻九 雑下 開山堂の前を少し下がったところに、 「上醍醐陵」があります。 南面する小円墳だそうです。 右側に立つ石標には、「白河天皇皇后 藤原賢子 堀河院天皇准母 媞子 (ていし)内親王 鳥羽院天皇准母 令子内親王」とあり、白河天皇の皇女とその生母・賢子が奉葬されているところです。 「この地はもと上醍醐の子院円光院があったが、明治の修陵にあたって寺は撤去されたとつたえる」 (資料2)とか。 この後、一旦五大力堂まで降り、手水舎に近い所から、尾根道に入ります。 横峰峠から高塚山に向かいます。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 このときにまとめたものを再録しご紹介します。 (再録理由は付記にて) 冒頭の景色は 京都市の地下鉄東西線の醍醐駅から地上に出たところです。 外環状線の道路を挟む パセオ・ダイゴローの建物です。 所在地は伏見区になります。 こちらは東に広がる住宅地域への架橋です。 まずは団地の間の遊歩道を通り、 旧奈良街道に面した醍醐寺総門に向かいます。 醍醐寺総門 総門の傍に、 世界遺産「古都京都の文化財」の説明板と醍醐寺の駒札が掲示されています。 古都京都の文化財の一つとして、醍醐寺も世界遺産として、平成6年(1994)12月17日に登録されています。 「醍醐寺」は、伽藍が山上と西麓の平地とに分かれており、山上伽藍は貞観16年(874)に、平地伽藍は延喜4年 904)に整備が始められたと伝えます。 その後たびたび火災にあい、16世紀末から17世紀初頭にかけて現在みられる姿に復興されました。 山上伽藍の 「薬師堂」は、保安5年(1124)に再建されたもので、平安時代初期の礼堂をもたない仏堂の規模・様式を伝えています。 また鎮守社清瀧宮拝殿は、永享6年(1434)に再建された懸造の建物で、意匠的には住宅風に仕上げられています。 いっぽう平地伽藍のうち、天暦5年(951)に建立された 「五重塔」は、年代が明かな建物としては京都における現存最古のもので、その外観は雄大で安定感があり、また初層内部に両界マンダラを描く点に密教寺院としての特色がみられます。 「金堂」は、慶長5年(1600)に紀州満願寺の金堂を移築したもので、平安時代末期の仏堂の様式を残しています。 「三宝院の表書院」は、豊臣秀吉による慶長3年の花見に際して増改築されたもので、寝殿造りの様式が取り入れられており、またこの横に広がる庭園も秀吉が直接指示して造らせた豪華なもので、 地泉回遊式と枯山水が折衷されています」 (説明板の転記) 世界遺産の説明板と駒札を対比的に読んで、おもしろいことに気づきました。 世界遺産は文化財の視点だけで作庭を含む建造物についての説明に限定されています。 駒札から抜けている要素の要点をまとめてみます。 * 醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山 *理源大師聖宝が笠取山(上醍醐)に登って観音像を安置したのが当寺の始まり *現在、醍醐寺の所蔵品は多くを霊宝館に保管して、春と秋に公開 ということでしょう。 「霊宝館」は醍醐天皇1000年遠忌を記念して昭和5年(1930)に建立されたものです。 総門の内側参道から、旧奈良街道を見た景色 旧奈良街道には京阪バスの路線が通っています。 総門から幅広い参道(桜の馬場)を進むと、左側(北側)に 「三宝院」の表門と拝観受付所があります。 醍醐寺の塔頭の一つです。 平安時代、永久3年(1115)権僧正勝覚(14世座主)の創建です。 古くから醍醐寺は真言系の修験の中心となっていたのです。 一方、修験道には独自の立場で活動する人々もいたようですが、江戸時代に幕府は修験道法度を定め、真言系当山派と天台系本山派のいずれかに属させたのです。 三宝院が山伏修験道当山派の総本山となりました。 しかし、明治維新後神仏分離令に続き、 明治5年(1872)に修験禁止令が出され、修験道が禁止されます。 当山派という名称は醍醐寺のホームページで見つけられません。 明治の時点で、 真言宗醍醐派という宗派に統合されてしまったようです。 だが修験道の実践者が存在するのは事実でしょう。 山伏姿が宗教行事の中でニュースに登場するのですから。 (資料1,2,3,4,5) 唐門(国宝) 三間一戸の檜皮葺の平唐門。 中央の門扉には五三の太閤桐が輝いています。 その左右には複弁十二葉の菊花文が同じサイズで配されています。 秀吉がでんと控えている感じ。 (資料1) 参道の先に、 「西大門(仁王門)」が見えます。 この門は下醍醐の入口になります。 三間一戸、入母屋造り、本瓦葺の楼門です。 左右の金剛力士立像(重文)は平安時代の作です。 (資料1) 三宝院とこの門から入った下醍醐境内、霊宝館はそれぞれ別個の拝観扱いなのです。 つまり、個別に拝観料が必要。 今回はウォーキング目的なので、 この仁王門を眺めて、外周を右から回り込むようにして上醍醐への入口に向かいます。 仁王門の前で右に行くと、 「右上のだいごみち」の道標があります。 ここを左折して下醍醐境内の境界外の道を東に進みます。 途中、フェンスごしに見える門 観音堂(旧大講堂) 醍醐寺は西国三十三所第十一番札所です。 こちらも醍醐天皇1000年遠忌を記念して昭和5年(1930)に建立されたもの。 いよいよ 上醍醐への登山口になりますが、 ここはまだ下醍醐の一部です。 醍醐山の山上に准胝観音が祀られていますので、「西国第十一番霊場」の石標が立っています。 石標の先、坂道の右手にあるのが「高王十句観音経」の経文を記した写経PR板。 なぜか鳥居が坂道の先に。 醍醐山の山上に醍醐一山の鎮守社「清滝宮」があります。 その参道にもなるからでしょう。 たぶん。 一方、下醍醐の境内にも、「清滝宮」が祀られています。 鳥居をくぐると、左側に「 成身院 (じょうしんいん)」があります。 通称が「 女人堂 (にょにんどう)」です。 ここまでが下醍醐になります。 現在のお堂は江戸初期の再建といわれるもので、 本尊には山上の准胝観音の分身が祀られています。 昔は女性が山に登れないことから、ここで山上の諸仏を拝んだそうです。 本堂正面には、 「第十一番上醍醐寺」としてご詠歌の扁額が掛かっています。 享和元年 1801)に奉納されたものです。 逆縁ももらさで救う願(がん)なれば准胝堂はたのもしきかな 本堂の前には、五体の像が祀られています。 右から地蔵菩薩、役行者、弥勒菩薩、理源大師、不動明王です。 理源大師は醍醐寺を開山した人、役行者は修験道の元祖ともいうべき人。 弥勒菩薩は、釈迦入滅後56億7000万年後に現れるとされる未来仏です。 「社会が混乱するという末法の時代に入ったとされた平安時代の11世紀初めには、未来仏である弥勒菩薩の信仰がより盛んになりました。 」 (資料6) 入山の受付所の傍に、この 鳥瞰図の案内が掲示されています。 丁単位で距離を表示する石標が目に止まります。 「一丁」の文字の上に太く陰刻されているのは「准胝観音」を示す種字のようです。 その背後に 「三光共立会本部」という見慣れない名称の石標も立っています。 これが何かはネット検索の対象にしてみました。 「丁」表示の石標と合わせて、 一定間隔で別の種類の石標が参道の反対側に続きます。 これが、その一つ。 何が記されているのか私には判別ができません。 「金剛」という文字がその一部として刻まれているのが識別できる程度です。 金剛という語句から連想するのは、金剛菩薩、金剛界五仏、金剛願・金剛宝・金剛幡・金剛悲の四地蔵、そして金剛石・・・・。 途中に道標もあります。 5丁目を越えてしばらく登ると、 「槍山」です。 ここが「豊太閤花見跡」と称される場所。 慶長3年(1598)年3月15日、あの秀吉がここで花見をしたといいます。 最初にご紹介した 桜の馬場から登山口を経由し五丁以上の先のここまで、道の両側に桜の木700本が植樹されたというのです。 さらに、 女人堂からこの槍山までの間に、名だたる武将が智恵を絞り趣向をこらした茶屋を建てたのです。 八棟の茶屋に秀吉はゆるゆると立ち寄り、茶を喫し歓談しつつ、桜の花を愛で、この槍山まで登ってきたといいます。 小瀬甫庵が寛永3年(1626)までに書き継いだ『太閤記』は、この時の茶屋について次のように詳述しています。 茶屋に関わる部分を抽出してみます。 「石橋の左に当て、さび渡りたる堂に、益田少将此所を便りとして、茶屋をいとなみ一献すすめ奉る。 ・・・岩下聊 (いささ)か平かなる所に、松杉の大木、椎檜の老木数千本茂りあふて、日影を知ぬ地有。 新庄雑齋是を寄なりと悦びつつ、茶屋を建置、物さびたる茶具などを以 (もって)御茶を上奉りぬ。 殿下一入 (ひとしお)に興じ給ふ。 三番に小川土佐守茶屋を営みしが、是は前の両人に事替 (かわっ)て、手のこもりたる事をもし侍らず。 三間廿間にあらましき、かやぶきして、垣はよしを以 (もって)かこひこめ、そさうなる畳をしき渡し、幕屏風をあまた所に置けり。 ・・・・秀吉公小川が倫をはなれたる作分 (つくりぶん)なるなりと感じ給ふ。 土佐守茶屋より十五六町も上に、岩堀の便おかしき所あり。 増田右衞門尉これに茶屋をしつらひ渡しつつ、・・・・五番徳善院玄以は、有べき式のかりやかた営み奉りぬ。 いかにも大やうに、大躰のよきを本意とせり。 六番長束太輔茶屋は、晩日に及ぶべきを兼て期せしに依て、御膳の用意なり。 ・・・・七番御牧勘兵衛茶屋、是もけつこうを盡 (つく)しけり。 八番新庄東玉種々の異風躰をいとなみ、御機嫌を望にけり。 鞍馬のふこおろしなどを沙汰し、其下に岩つたふ流れを手水に用ゐ、山居の興を盡せり。 ・・・・」 (資料7 茶屋を営んだ亭主が、智恵を絞り、様々に工夫している様子が窺えます。 史実がどこまでかはわかりませんが、当時の雰囲気が感じ取れます。 醍醐の花見の日によめる あらためて名を変へて見ん深雪山埋(うづ)もる花もあらわれにけり 秀吉 花もまた君のためにと咲きいでて世にならびなき春にあふらし 淀君 醍醐山山頂まで、まだ3分の1にも至りません。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 ウォーキング同好会の恒例企画に参加したのです。 JRの近江長岡駅前に集合し、路線バスで伊吹山登山口まで行きます。 登山口の近くに、 「三之宮神社」があります。 この境内で登山前の軽い準備運動をしてから、今や恒例となった 入山料を登山口で払い、代わりに「伊吹山登山MAP」をいただいて、登山口から表山道を登りました。 この時にまとめたものを再録してご紹介します。 (再録理由は付記にて) 一説によると、「山頂の弥勒堂を一之宮(上宮)、磐座がある2合目のシャクシの森が二之宮(中宮)とされ」、登山口の上野にある神社が三之宮となるそうです。 かつての伊吹山の修行の道も、ここ三之宮神社から始まっていたそうです。 (資料1) それでは登り始めましょう。 1合目(標高420m)に至る手前で見上げる景色 伊吹山スキー場のゲレンデが見えます。 1合目で小休憩をとり、まずは3合目をめざして登ります。 緑のゲレンデを眺めると、パラグライダーをする人々がいます。 このあたりはパラグライダーをする人々のグラウンドになっているようです。 毎年、目にします。 2合目(標高580m)からの眺め 大空には、パラグライダーが・・・・気持ちよさそう! 眼下を遠望すると、琵琶湖が広がっています。 3合目。 もう結構汗だくになっています。 3合目(標高720m)で、再び小休止。 「アキノキリンソウ」が咲いています。 ここにはトイレ施設も整備されています。 このあたりは、 「3合目山野保護地域」となっていて、登山道以外のところはところどころに防護ネット柵が設置されています。 ちょっと無粋ですが、山野の維持保全には必要なことなのでしょう。 3合目附近から眺めた湖北の景色 4合目(標高800m)・5合目(標高880m)を経由して、その少し先にある 避難小屋を目指します。 ゲレンデ斜面の中央にぽつんとみえる小屋がここからの目標地点です。 5合目を越えたあたりから眺めた全景 避難小屋付近で小休止後、目指すは8合目! やっと避難小屋を眼下に眺める地点まで到達 ネット情報を参照すると、 「イブキフウロ」のようです。 蝶々を目にしました。 8合目の少し手前で、西方向を眺めると、 説明板がないと意識すらしないでしょう。 肉眼ではお堂が小さな点としか見えません。 登山MAPには別名の「平等岩」で記入されています。 「行導岩」という巨岩の上に建てられています。 伊吹山を開いた高僧・三修がこの岩上で修行したといわれ、円空仏で有名な聖の円空もまた江戸時代前期に、この行導岩で修行した時期があったようです。 (説明版より) 伊吹山は平安時代には「七高山」の一つに数えられ、 9世紀中ごろ山中に伊吹山寺 (いぶきさんじ)が建立されたそうです。 後に、弥高寺 (みたかじ)・太平寺・観音寺・長尾寺という伊吹山4ヶ寺に発展していき、 伊吹山信仰の拠点となったようです。 戦国期には、伊吹山中腹の尾根上が山城としても利用されます。 「史跡弥高寺跡」「史跡上平寺跡」の石標が建てられていて、湖北を眼下に見る拠点にもなったのです。 (資料1) 平安時代は京都を中心にした世界です。 七高山は近畿にある7つの霊峰。 比叡山・比良山・伊吹山・愛宕 (あたご)山・神峰山 (かぶせん)・金峰山 (きんぶせん)と葛城 (かつらぎ)山あるいは高野山がそれにあたるようです。 (「デジタル大辞泉」) 『三代実録』には、七高山として葛城山の方を加えた七霊峰を記しているといいます。 伊吹山寺は伊吹山4ヶ寺に発展していきます。 4ヶ寺の一つ観音寺は、 大原観音寺と通称され、ここには 『大原観音寺文書』と称される古文書が豊富に残っているようです。 それによれば、寺号は正式には伊吹山護国寺、 観音護国寺と称するのだそうです。 中世の伊吹山は、伊吹4ヶ寺と伊吹社・三宮の両社が宗教組織として相互に関係しつつ、衆徒(寺僧)や山伏が存在した 山岳信仰の地だったのです。 そのため、「14世紀末? 15世紀、伊吹山を揺るがす相論が発生する。 その争点は、伊吹山の抖藪における一宿が弥高寺と三宮のいずれであるかということだった。 宿とは、山内の聖地であり、とくに一宿は入峰拠点としても意味が大きかった。 」 (資料2 という論争に発展する局面もあったようです。 一方、伊吹山の山伏は、寺外にネットワークを形成し、修験道の拠点である聖護院門跡の配下のもとに統括されていく形になったとか。 資料2) 伊吹山を山岳信仰の地とみると、ここもさまざまな変遷を経ているようです。 8合目(標高1220m)には、多くの登山者が休憩しています。 最後のひとがんばりへの小休憩でしょう。 この辺りからの展望が良いことと休憩できる空間が広いこともその一因だと思います。 この辺りから急坂にもなります。 山頂は目前です。 眼下に広がる景色を時折眺めつつ、最後の登りです。 「イブキトラノオ」が咲いています。 山頂への最後の直線道に入るあたりに、 「伊吹山頂遊歩道ご案内」の説明板があります。 ウツボグサ イブキアザミ イブキフウロなどが咲いています。 山頂の「伊吹山寺山頂本堂」が見えて来ました。 頂上の一等三角点まで直行です。 頂上1,377m。 頂上から登ってきた山頂入口のある西方向、山頂部の西半分の眺め 南西方向には、湖北の風景が広がり、 振り返ると、山頂の東半分とその彼方に北の山々の連なりが広がっています。 2015年も伊吹山山頂に立つことができました。 (今年2017は残念ながら、膝の不調で参加を断念、嗚呼!) 後は登ってきた表参道を逆に下って行くだけです。 山頂の日本武尊像のところで、多くの人々が記念写真を撮っています。 伊吹山は古代から人々に知られていた山です。 『古事記』の人代篇にヤマトタケルの逸話で登場します。 佩刀の草薙の剣をミヤズヒメの許に置き、素手でも可能として、伊服岐( いふき伊吹)の山の神を倒しに出かけます。 山を登り始めたとき、山のほとりで白い猪に出会うのです。 その後、以下のようなストーリーが語られます。 今殺さずとも、帰る時に殺せばよかろう」と言うての、そのまま山を登ったのじゃ。 すると、山の神がにわかに荒れ狂うて、大粒の氷雨を礫 (つぶて)のごとく零 (ふ)らせての、ヤマトタケルを打ち惑わしたのじゃった。 この白い猪に姿を変えておったのはの、その山の神の使いではなのうて、まこと、山の神そのものだったのじゃ。 それを見抜けずに、偽りの言葉を口の端に載せてしもうたのでの、ヤマトタケルは神の怒りに惑わされてしもうたというわけじゃ。 そこが「居寝 (いさめ)の清水」と呼ばれたと記しています。 ところが、大筋は同じですが、『日本書紀』の巻七・景行天皇のところには、山の神は大蛇 (おろち)になって道を塞いだとしているのです。 日本武尊はこの大蛇を神の使いと考え、その蛇をふみ越えて進んだとします。 「このとき山の神は雲をおこして雹 (ひょう)を降らせた。 霧は峯にかかり、谷は暗くて、行くべき道がなかった。 さまよって歩くところが分からなくなった。 霧をついて強行すると、どうにか出ることができた。 しかし正気を失い酔ったようであった。 それで山の下の泉に休んで、そこの水を飲むとやっと気持が醒めた。 それでその泉を居醒井 (いさめがい)という。 日本武尊はここで始めて病気になられた。 そしてようやく起きて尾張に帰られた。 」 (資料4) その場所は、滋賀県米原市の「 醒井 (さめがい)」だとされているのです。 「居寝の清水」・「居醒井」が「醒井」という地名の由来だといいます。 近世には木曾街道六十九次の 「醒井宿」として栄えた土地です。 下山にかかります。 路線バスの発車時刻に何とか間に合い、無事伊吹山行完了です。 伊吹山は中世以降、和歌や短歌、俳句に詠まれています。 諸資料から拾ってみます。 かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな 燃ゆる思ひを 藤原実方 後拾遺集 小倉百人一首 51 「まことにや、やがては下る」と言ひたる人に、 思ひだにかからぬ山のさせも草たれか伊吹の里は告げしぞ 清少納言 枕草子 302段 色にいでてうつろう春をとまれともえやは伊吹の山ぶきの花 藤原定家 拾遺愚草 今日も又かくやいぶきのさしも草さらばわれのみ燃えや渡らむ 和泉式部 新古今集 1012 水うみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを 名に高き越の白山ゆき馴れて伊吹の岳をなにとこそ見ね 紫 式部 紫式部集 82 湖のはてに伊吹は白く光りたり地震にくづれし片面かも 川田 順 うちわたす菜畑やうやく黄ばみけり伊吹嶺はなほ雪白くして 山川桃崖 雪曳ける遠つ伊吹の秋姿花野の末に柔らぎて見ゆ 服部綾足 どとおろす伊吹颪に野べの雪煙り上りて淋しきものを 梅村智美 伊吹山いぶく朝風吹きたえてあふみは霧の海となりぬる 加藤宇万伎 其のままよ月もたのまじ伊吹山 芭蕉 真蹟詠草 折々に伊吹をみては冬ごもり 芭蕉 後の旅 木枕の垢や伊吹に残る雪 丈草 植田よりなほさみどりに伊吹山 福田蓼汀 木曽を出て伊吹日和や曼珠沙華 河東碧梧桐 八月の色を抜けでて伊吹かな 上田 操 稲妻の怒り伊吹の怒りかな 平井照敏 秋高し苦り立ちたる伊吹山 松本たかし 雲湧いてのちの伊吹の冬の暮 桂 信子 (資料5,6,7,8) 脱線序でに、伊吹もぐさを始め、伊吹は薬草栽培地として有名です。 和歌に出てくる「伊吹のさしも草」の「さしもぐさ」は「ヨモギの異名」です。 「もぐさ」は「灸に使う、ヨモギの葉を乾燥して綿状にしたもの」であり、「ヨモギの異名」でもあります。 (『大辞林』三省堂) 調べてみると、平安時代の延長5年(927)に完成した『延喜式』の巻37・典薬寮には、「諸国進年料雑薬」という項の「東山道」という分類に「近江国七十三種」と薬材料の名称が列挙されています。 たぶん、これらの薬草のかなりが伊吹山から採取されたのかもしれません。 具体的な産地名は記載がありませんので推測ですが。 (資料9,10) 戦国時代、織田信長はポルトガル宣教師から病気の治療のための薬草栽培の必要性についての進言を得て、伊吹山に薬草園の開設を許可したそうです。 何とその規模は50ヘクタール(50町歩とも)、3,000種の薬草栽培に及ぶものだったとか。 (資料10,11) いろんなことを学べる興味深い霊峰、伊吹山です。 ご一読ありがとうございます。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 その折のリーダーについて歩き、行路での写真を撮ることを楽しんでいましたので、詳細な道筋は記憶していません。 ウォーキングの通過点を事後に少し手許の本やネット検索などで調べて、要所要所の見聞ポイントをまとめていました。 ここに再録しご紹介します。 JR草津駅に集合し、ほぼ予定時刻に出発。 歩いた経路は、 草津駅~草津川・木川町・山田町・矢橋帰帆島公園・近江大橋~膳所駅 です。 草津駅からまずは草津川に向かい、堤防の上を琵琶湖に向かって歩きます。 砂川大橋のところまでです。 そこで草津川堤防から、県道42号線に沿って南西方向に向かいます。 神社のまだ新しそうな由来説明碑が立っています。 鎮座地は草津市木川町1314。 祭神は天若御子神。 「鎮座地は地蔵山と称し、安政七年地頭木村左衛門他四十三名が、当地の守護神として祀ったと伝えられ、木川町天神社の御旅所となっていたが、昭和四十七年社殿を建て、天神社より御分霊を遷座して氏神とした」 (資料1)との由。 県道42号線を進むと、木川北交差点の次は県道141号線との交差点となります。 ここで、右折して県道141号線を琵琶湖の方向に進みます。 すると、鳥居の立つ杜が見えてきます。 ここが 「天神社」 (てん・じんじゃ)です。 砂原天神社はこの天神社からの分霊遷座ということになるようです。 鎮座地は草津市木川町542。 祭神は天市々魂命・天興豊魂命・天若御子神だとか。 説明碑には、推古天皇の時代(592-628)に淡海栗太郡の県主物部彦安の勧請により祭神が鎮座されたと伝えられています。 この辺りは往古は奈良興福寺の寺領だったようです。 当時は広域の神領を有する大社だったと説明碑には記されています。 なお、祭神にさらに 豊斟淳尊 (とよむぬのみこと)を加えて滋賀県神社庁には登録されています。 その途中で 「山田正八幡宮」の境内の傍をとおります。 滋賀県神社庁には「 山田八幡宮(ヤマダハチマン)」で登録されています。 鎮座地は草津市北山田町10-1。 祭神は応神天皇。 「天武天皇白鳳四年大中臣清麻呂の祈願に依り創建される。 建久三年に源頼朝が再興し、慶長以後は膳所城主戸田・石川・本多の諸侯が社領を献じて厚く崇敬した。 」 (資料3) 交差点を横断し、そのまま道沿いに進むと、右側に見えたのが、 「渡海神社」です。 「とかい」と読むのではなくて「わたつみ」と読む神社です。 鎮座地は草津市山田町3。 祭神は塩槌神。 「明細帳によれば創祀年代不詳であるが、社伝によると、醍醐天皇延喜六年に金峰山寺僧日蔵が同寺創建の時、大和国金峰山より春日の四所を勧請し若松神と尊崇したが、後奈良天皇天文年間同刹癈滅の際、その本尊蔵王権現を本社に合祀し爾来蔵王権現社と称した。 渡航、料理の神として信仰がある。 明治元年蔵王権現を渡海神社と改称する、」 (資料4) 蔵王権現社からの改称は、明治の神仏分離令の結果でしょう。 この辺りの集落では目立つ建物です。 そのまま湖岸の方向に歩いたのですが、湖岸傍で目にするのがこの建物。 かなり以前に、大津市側のなぎさ公園の方からこの特異な建物の形が目に止まり、何の建物だろうかと思っていたのですが、このウォーキングで初めて建物の近くを通り、関心をもっていたことが判明しました。 「天聖真美会」という宗教法人の建物でした。 帰帆北橋を渡って、矢橋帰帆公園に入ります。 「さざなみ街道」と称されています。 県道559号線。 この辺りからの眺望もいいですねえ。 1151,1155 ここには松尾芭蕉の句碑が建てられています。 こんな案内板が立っています。 この公園からの琵琶湖の景色はなかなか雄大な広がりを感じさせます。 公園を湖岸沿いに歩き、帰帆南橋、近江大橋を渡ります。 近江大橋西詰の歩道下で「晴嵐夕映」と刻された碑が目にとまりました。 中国の「瀟湘 (しょうしょう)八景」に倣って、江戸時代から 「近江八景」として「瀨田夕照 (せきしょう)」「粟津晴嵐 (せいらん)」「堅田落雁 (かたたのらくがん)」「矢橋帰帆 (やばせのきはん)」などが撰定され、浮世絵にも描かれてきました。 この「晴嵐夕映」という語句をこの日、初めて目にしました。 「琵琶湖八景・近江八景」にはない語句です (資料5)。 新造語というところでしょうか・・・・。 このあとは 湖岸沿いの道を歩きます。 「なぎさ公園」の一部です。 途中で、琵琶湖大橋の蜃気楼らしき眺めに遭遇。 右側、湖面の途中で橋の端が終わっていますよね・・・? やはり、今の琵琶湖周辺の一つのランドマークとなるのは、この建物です。 大津プリンスホテルが目立ちます。 これを目印に位置を考えるのに便利です。 場所によって、この建物が様々な表情を見せてくれるのもおもしろいところです。 琵琶湖汽船のクルーズ船を見かけました。 このあたりから膳所駅は、全行程からすれば、ほんの少しの距離ということになります。 天気に恵まれるとなかなか歩きごたえがあります。 距離と景色の両方の意味で・・・・。 ご一読ありがとうございます。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 この道標が、次の池の左側、道路が交差する角に立っています。 この池が 「瑞ヶ池 (ずがいけ)」です。 周りが金網で囲われていて、道路沿いに歩きながら眺めると方形の感じに見えるかなり大きな池です。 池の周囲が1. 6kmのトリムランニングコースになっているそうで、公園の広さは19. 3ヘクタールだとか。 (資料1) かつては「摂津の国小池」として農耕のための池だったようです。 それが昭和45年 1970)5月に水の公園として整備され 現在は伊丹市の上水の水源として活用されている貯水池になっているのです。 (資料2) 池の左側を右折して回り込んで行きます。 少し前進したところで、 彫刻の置かれた花園があり憩いの場所が広がっています。 この彫刻像は公園の完成記念碑なのです。 「日米修好の桜」というのが植樹されています。 伊丹産の桜がワシントンに植樹され、今度はその桜の苗木が里帰り桜として2003年に日本に贈られたのだと言います。 この公園内には、「オオシマザクラ、ヤマザクラ、シダレザクラ、カンヒザクラなど10種類600本のサクラがあります。 」 (資料3) 花が咲きそっていると気持ちがなごみます。 そして、 「昆陽池公園」が1km余り先にあるのです。 ウォーキングには最適のエリアです。 この公園は、 大きな昆陽 (こや)池を中心にしてその周辺が散策路を配した公園になっています。 おもしろいのは、 昆陽池の中に、日本列島の形が作られているようなのです。 昭和43年(1968)に伊丹市が一部公園し、その後段階的に拡張してきたそうです。 農林水産省のため池百選に選定されています。 現在の公園は、広さ27. 8ヘクタール(そのうち自然池12. 5ヘクタール、貯水池4. 5ヘクタール)だとか。 (資料4,5) 公園に入り、小川の流れる傍の小径を進んで行くと、 「伊丹市昆虫館」があり、公園マップの案内板があります。 昆虫館を横目に見ながら 「ふるさと小径」を歩んでいくと、この公園で見られる 野鳥の説明板などもあり、バードウォッチングの趣味人には楽しめる公園。 関西屈指の渡り鳥の飛来地だそうです。 さらに、その先には 慈円(1155~1225)の歌碑があります。 ゑにかきて今唐土(もろこし)の人に見せむ 霞わたれる昆陽の松原 山本紅雲筆「拾玉集」より写されたもののようです。 昆陽池内の日本列島の形になった島々らしきものを見られる展望箇所があります。 しかし、その形は上空からみないと???です。 ここでもまた蒼空を横切っていく飛行機を眺めました。 このあたりも障害物がないので、上空を行く飛行機を撮るには良い場所になりそうです。 飛行機の機内から、この池の日本列島が見えるかもしれません。 このスポットの近くに、 「夏目甕麿の歌碑」も目に止まりました。 自筆写本「七月の記」よりというもの。 遠つあふみ 入江の月の おもかけも 思ひそ出る 昆陽の大池 夏目甕麿という人をこの碑で初めて知ったのですが、江戸時代後期の国学者。 「遠江浜名郡白須賀(付記:現・湖西市)の名主で酒造業を営む家に生まれた」そうで、本居宣長の門人にもなった人。 また 様々な彫刻が置かれたエリアがあります。 この公園は多目的に楽しめそうです。 さらに池に沿った小径を歩むと、公園内の展望が広々と開放的になります。 大きく池を見渡せ、近くには大きな公園案内板が設置されています。 夏目甕麿は地名の語学的研究や近畿の山稜研究を行ったそうです。 この各地を転々とし、昆陽にも住み、1822年、昆陽池で遊んで溺死。 船から月を取ろうとしたという逸話が残るようです。 享年50歳。 (資料6) 昆陽池についての説明板も別にあり、 池中の日本列島を上空から撮った写真も案内板に載せてあります。 誰がこんなアイデアを思いついたのでしょうか。 この後はJR伊丹駅を目指します。 その駅前にあるのが「有岡城跡」。 今回のウォーキング最後の立ち寄りスポットです。 途中、こんな彫刻が市中で目にとまりました。 膝を抱えて座り込む二人の少女と一匹の犬、何を眺めているのでしょう・・・・。 こんな建物も。 「旧岡田家酒蔵」の表札が掛けてありました。 平成4年(1992)に国の重要文化財に指定されています。 店舗・釜屋・酒蔵からなる建物。 店舗は江戸時代・ 延宝2年(1674)の建築で兵庫県最古の町家であり、酒蔵は現存し年代が判明するものとしては日本最古なのだそうです。 「江戸時代の伊丹の酒造家松屋与兵衛が建て、岡田家の所有となったのは明治33年。 ・・・解体修理を経て平成13年(2001)6月24日より一般公開」 (資料7)に至っています。 史跡 有岡城跡 石段を上がったところに、説明板があります。 発掘調査が行われ、ここを昭和58年度(1983)から始まり平成5年度に完了した史跡公園整備により現在の姿になったのです。 この城は南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城です。 天正2年(1574)に当時織田信長の武将だった 荒木村重が伊丹氏を破り入城し、「有岡城」と改名します。 そして、「総構」という城下町の地域全域を囲う巨大な土塁と堀を築いたのです。 その総構は東端に本曲輪(本丸)があり、西に侍町が囲み、その西に町屋が広がり、北(岸の砦)と南(ひよどり塚砦)に砦を設けるという形です。 その全周囲を、堀の深さ3~7m・幅7~18m、土塁の高さ3~5mで囲んでいたといいます。 そして、危急時には本曲輪が領民の避難所にもなり、城籠りができるように造ったとされています。 (資料8,9) 現在、JR伊丹駅のすぐ前に残る城跡は、当時の本丸の10分の1位の規模にすぎないようです。 明治26年に鉄道が開設されるにあたり、城跡の東側が削り取られたのです。 昭和50年(1975)より発掘調査が行われ、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになったといいます。 石段を上がって行くと、左方向に見えるのが礎石と井戸の跡です。 右方向は本曲輪跡の広場です。 右方向に真っ直ぐに行くと、そこが現存する有岡城跡の石垣だと分かりました。 その石垣をよく見ると、石積みの中には石塔の基壇石だったものも確認できます。 発掘調査により出土した荒木村重時代の石垣を復元されたもののようです。 石垣側から眺めた礎石・井戸の跡がある方向 側面に土塁跡の表示があります。 この本曲輪跡には、あらきたしが村重につかわした歌と荒木村重が返した歌の二首を一石に刻んだ歌碑が建てられています。 霜がれに残りて我は八重むぐらなにはのうらのそこのみくづに あらきたし 思ひきやあまのかけ橋ふみならしなにはの花も夢ならんとは 荒木村重 「たし」は「ダシ」と読むそうです。 この歌は『信長公記』巻十二の「伊丹の城にこれある年寄ども、妻子兄弟置き捨て退出の事」の条に記載された二人が歌のやりとりをしたものです。 (資料10) 織田信長の命令で塚口郷(丹羽長秀)をはじめ12ヶ所以上に有岡城に対する付城を築かせ、完全包囲作戦を実行している状況の中で、村重が尼崎城に夜陰にまぎれて脱出したのです。 興味深いのは、この見出しが事実なら、完全包囲網が敷かれた状況の中で、なおかつ有岡城と尼崎城で歌の交換をするくらいの人の行き来が行われていたということです。 『信長公記』にはその続きに、次の歌も記録しています。 荒木村重が尼崎・花隅両城の開城説得に向かった荒木久左衛門の説得に応じません。 そのため、村重の正室をはじめ一族37人は京に護送され、六条河原で斬殺されるに至ります。 この洛中引き回しの上での処刑の状況が上掲書に記載されています。 その前に、「たし歌あまた読み置き候」として、他の一族の人々の歌を併せて記載する冒頭に4首を記録しているのです。 (資料10) きゆる身はおしむべきにも無き物を母のおもひぞさはりとはなる 残しおくそのみどり子の心こそおもひやられてかなしかりけり 木末よりあだにちりし桜花さかりもなくてあらしこそふけ みがくべき心の月のくもらねばひかりとともににしへこそ行(ゆけ) 懐古園の石碑が建てられていて、その碑文の意訳説明板もその傍に立っています。 この城跡の土地は何時の頃からか竹内という人の所有となり、その人が亡くなった後、未亡人の方が昔を偲ばれた思いを太田北山が書いた碑文だそうです。 太田北山とは、小西酒造の小西新右衞門氏が私塾として「弘深館」を造ったときに招かれた初代の先生だとか。 (資料11) 道路を隔てた反対側にも、有岡城の主郭部についての説明板が設置されています。 こちらにも歌碑があります。 春秋の花と月とをときならて 見はてぬ夢の暁はうし 伊丹之親 (ゆきちか) 有岡城とは直接関係がありませんが、 伊丹駅前に「フランドルの鐘」の塔が建てられています。 伊丹市と姉妹都市であるベルギー王国のハッセルト市から平和と友好の象徴として贈られた「カリヨン」だそうです。 国際姉妹都市提携5周年と伊丹市制施行50周年を記念して、1990年に寄贈されました。 「フランドルの鐘」は一般公募で決定した記念塔の愛称だとか。 「カリヨン(Carillon 」はラテン語で「4個で1組」という言葉を語源とする 「組鐘」のことで、「教会の塔や鐘楼に設置された複数の鐘を巨大なシリンダー式のドラムで自動演奏したり、奏者が鍵盤とペダルで演奏する楽器」。 この記念塔のカリヨンは「大小43個の鐘を手動バトン(鍵盤)により4オクターブの音色を奏でることができます。 」 (資料12) 大阪空港駅前を起点としたウォーキングは伊丹駅を終点として終了しました。 ご一読ありがとうございます。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 飛行機が離発着するコース線上で一番接近できる絶景スポットから、メイン滑走路全体をを側面から眺められる伊丹スカイパークへと周り、2つの視点からの離発着を堪能できました。 そこで空港を離れて、伊丹市内の史跡スポットをいくつか訪れて、JR伊丹駅をウォーキングの終着点とするコースとなりました。 冒頭の画像にある通り、 北エントランスからまずは猪名川の堤防に出て、神津大橋からその北に位置する興津橋を目指します。 右の写真は興津橋上から見た神津大橋です。 興津橋から北方向の景色を遠望しながら、一旦福知山線の高架下をくぐり、 駄六川に架かる雲正橋を渡ります。 橋のところの標識によると、 この橋からJR伊丹駅は300mの距離のようです。 ウォーキングとしてはこの橋から逆に北方向をめざしぐるりと回り込んでから終着点として伊丹駅にむかうことになります。 金剛院の門前、市立図書館の前を北に歩むと、猪名野神社です。 金剛院の門柱には「宇多天皇勅願所 真言宗御室派」という標札が片側に掛けてあります。 山号は「有應山」です。 「猪名野神社」の石造鳥居の傍に、「御由緒略記」が掲げてあります。 古くは野ノ宮、天王ノ宮と呼ばれていたそうですが、明治2年の神仏分離令の発布された折に、猪名野神社と改称されたようです。 伊丹郷町の氏神として祀られてきた神社。 鳥居の前の狛犬はぎょろっとした目に特徴がある感じです。 前懸がかけてあるのもおもしろい。 こういうのはあまりみかけません。 鳥居をくぐり真っ直ぐに進むと、 本殿。 唐破風屋根の向拝の木鼻や蟇股はシンプルなデザインです。 屋根の尖端隅に獅子があたかも鯱のような姿勢で置かれているのも興味深いところです。 兎毛通の中心に菊の紋が彫られています。 目に入った範囲の境内社はすべて石造鳥居が建立されているのも立派です。 上の画像の左から順に、天満神社、厳島神社、猿田彦神社です。 (資料1) 愛宕神社 そして一隅に 「鬼貫 (おにつら)句碑」が建立されていました。 鳥ハ末 口もほとけず 初桜 この句碑は嘉永7年(1854)に建立されたものだそうです。 俳人・鬼貫の句碑は伊丹市内に14ヶ所、他地域に4ヶ所、少なくとも20ヶ所は建立されている模様です。 (資料2) 鬼貫の名前は知っていましたが、それほど意識したことがありません。 この句碑をみて少し調べてみました。 江戸時代中期の俳諧師で、1661年、摂津国川辺郡伊丹郷で酒造家・上島宗次(屋号・油屋)の三男に生まれ、1738年、大坂鰻谷で死去、享年78歳。 享保3年(1718年)『獨言 (ひとりごと)』を刊行し、その中で 「まことの外に俳諧なし」と述べるに至ったと言います。 「東の芭蕉、西の鬼貫」と称されたそうです。 (資料3,4) 資料併読で課題が残りました。 一書には、「・・・8歳のころから俳句を始めた。 西山宗因門で誹諧を学んだが、談林誹諧に飽き足らず、25歳の時『まことの外に誹諧なし』と悟って、伊丹風を樹立した」 (資料6)と記されています。 この記述と上掲の刊行本の記載事実を対比すると、鬼貫が「まことの外に俳諧なし」という考えを確立したのはいつ頃なのか? という疑問です。 「13歳で松江維舟 いしゅう の門に入り、16歳ごろには芭蕉にも影響を与えた西山宗因を尊敬するようになります。 」 (資料4)という記述から、松江維舟に入門したことが西山宗因門につながることなのだろうと理解しました。 鬼貫が維舟門につらなる池田宗旦の俳諧塾・也雲軒で学び (資料4,5)、「鬼貫はしだいに遊戯的・享楽的な伊丹風俳諧に疑問を抱き、25歳ごろ、大坂に出ます。 」 (資料4)という説明があります。 この点を考えると、「伊丹風を樹立」という表現は複数の使い方が実際にされているということでしょうか。 文学研究的視点ではどういう解釈が一般的なのかという関心です。 別の視点で興味深いのは、「明治36年、河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう)が雑誌『ホトトギス』で、募集句の題を『鬼貫忌』として以後、秋の季語として定まりました。 」 (資料4)とあります。 上掲歳時記には「鬼貫忌」を秋の季語として掲載しています。 そこから上記の疑問が課題となったのです。 一方、手許にある『改訂版 ホトトギス新歳時記』を繙くと、「鬼貫忌」は秋の季語に取り上げられていないのです。 (資料7)これもおもしろいと感じました。 現在、芭蕉ほどには鬼貫の名前すら目にする機会が少ないのはなぜか? これも新たな関心事に加わりました。 鬼面の句をいくつかの情報源から集めてみました。 見つけた順番での羅列です。 にょっぽりと秋の空なる富士の山 古寺に皮むく椶欄の寒け也 行水 (ぎょうずい)のすてところなし虫の声 月なくて昼ハ霞むやこやの池 古城 (ふるじろ)や茨くろなる蟋蟀 (きりぎりす) 面白さ急には見えぬ 薄 (すすき)かな 後の月入りて貌よし星の空 此塚に柳なくとも あわれ也 賃とらで象も田をかえす動き哉 春と夏と手さへ行きかふ更衣 (ころもがえ) なでしこよ河原に石のやけるまで 大きく脇道にそれました。 軌道修正します。 境内の裏手から「伊丹緑道」の道標が立つ道を、まずは伊丹坂の方向に向かいます。 この説明碑の上あたりが、白洲次郎とゆかりのある地だったのです。 白洲次郎は随筆家として有名な白洲正子の夫です。 日本の実業家であり、吉田茂の側近であるとともに、様々な分野で活躍した人物。 現在の春日丘4丁目あたりに、白洲次郎の父、白洲文平が4万坪の敷地に博物館付きの豪華な屋敷をたてていたところだったのです。 白洲次郎もここに住んでいたことがあるそうで、妻正子との婚姻届は昭和5年に伊丹市で提出しているのだとか。 緑道を進む一方、見上げると蒼空を飛行機が横切っていきます。 「西国街道」の道標 六地蔵尊石像 緑道の道標をみつつ、緑ヶ丘公園をめざします。 小道を進み、171号線を横断し、 「天満神社」の傍を通過して、 かなり大きな池の畔に至りました。 ちょっとした異国情緒に溢れる一隅です。 近くまで行ってみました。 「賞月亭」という扁額が掛けられています。 この池の側に、 「伊丹市公館 鴻臚館」という説明板の建てられた建物が一般公開されています。 ウォーキング主体のため、今回はここも通過地点でした。 池沿いに歩いて行くと、この案内板に行きつきました。 現在地という白字抜きの赤い長方形の場所に立っています。 裏手からこの公園の表入口に至ったのです。 この案内板の左上に2つの建物の概説が記されています。 佛山市の中山公園内の「迎春亭」がモデルになった亭なのだそうです。 なるほど・・・中国風ではなく、 中国建築そのものでした。 一方、 「鴻臚館」は平安時代の外国の賓客接待施設として京都や太宰府に設置された「鴻臚館」の名前を使い、 公館として建てられたものだそうです。 「日本建築の伝統・技術の保存、継承のため、市内在住の大工、左官、建具師など技能功労者として市表彰された人たちの技術を結集して建設されました」 (説明板より)のだとか。 機会があれば拝見したいものです。 この入口傍には、 「緑ヶ丘神社」という小祠と、「 緑ヶ丘」を上の五に冠した句碑と思える碑があります。 説明は付されていません。 私には下部に記された文字を判読しかねています。 ネット検索でこれも調べてみましたが、不詳。 ここにも課題が残りました。 そして、駄六川に架かる橋を渡って、「昆陽池」に向かいます。 このあたりは駄六川の上流にあたるのでした。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 次々に離陸していく飛行機、その合間に着陸してくる飛行機・・・・・ 蒼空の気持ちよい下で、それらを眺める子供達は、将来あれを自分で飛ばしてみたい、操縦桿を握りたい・・・「パイロット」という職種を教えられ、「僕、パイロットになるよ」という夢を育むのではないでしょうか。 冒頭の画像は、当日 2015. 18)入手した 「伊丹市スカイパーク」のリーフレットです。 さて、前回の続きから始めます。 千里川の橋を渡って、猪名川に並行する道路を進みます。 空港敷地側には、原田下水処理場やクリーンランドなど、公共施設などがあります。 後ほど調べて見ると、 この資料館のあるところは尼崎市になり、「国史跡田能遺跡の上立地しており、田能遺跡から出土した遺物を収蔵・展示して」いるところでした。 (資料1) ここが 「8翼の丘」への入口です。 この南方向には「9南エントランス」があり、南駐車場があります。 翼の丘の休憩所前には、「ウィングデッキ」があり、その前方の一段低いところが「遊具広場」になっているようです。 休憩所の前の通路から眺めると、メイン滑走路への待機中のJAL機が目に飛び込んできます。 先ほどの滑走路南東端の絶景スポットとはまた違う角度からの姿が見えて、楽しいです。 離陸していく飛行機を眺めつつ、 「7休憩の丘」「6星空の丘」と進み、「5中央エントランス」に至ります。 「星空の丘」の斜面にある坂道は、「スターライトパス(星空の小道)」と名づけられています。 「夜になると美しく浮かび上がる幻想的な園路です。 130mに及ぶその中にはLEDで表現した8つの星座が隠れいます。 」 (資料2) ここでちょうどお昼の食事および飛行機の離着陸をゆっくりと眺める休憩タイムとなりました。 中央エントランスからの空港の眺めはこんな感じ・・・・。 離着陸する飛行機 「スカイテラス(展望施設)」から眺めた景色 噴水を中央にして 、南北に「だんだんテラス(石階段)」になっています。 スカイパークの東に南北にメイン滑走路が見え、その向こうに補助滑走路と管制塔を始め空港の諸施設が水平に広がっているのが遠望できます。 着陸する飛行機 管制塔の周辺の眺め この花は「ブッドレア」(フジウツキ科) 空港川の上に架かる 「スカイウォーク(人道橋)」をわたり、 「4つつじの丘」「3冒険の丘」「2大空の丘」を経由して、飛行機の離着陸を眺めつつ「1北エントランス」へ。 つつじの丘のエリアは中央駐車場が設営されていて、斜面がつつじの丘になっています。 花の咲く季節は色鮮やかでしょう。 冒険の丘には「キューブアドベンチャー(立体迷路)」や「ローラーすべりだい」があり、子供にとっての遊び天国です。 大空の丘は多目的広場として活用されているようです。 北エントランスの「パークセンター」 この「伊丹スカイパーク」の レイアウト案内掲示が建物の前にあります。 建物の背後が「北駐車場」になっています。 このパークセンターの前を今回は通過しただけですが、 建物内には、リーフレットによると「岩屋遺跡と神津の歴史展示」や「航空管制レーダー展示」があるようです。 こんな記念碑が北エントランスの入口近くに建てられています。 エントランスの目の前が「伊丹スカイパーク・上須古」バス停です。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 しかし、それは飛行機に搭乗或いは着陸後のための通過施設という目で建物を眺めて利用するだけでした。 今回は この空港の施設内に入ることなく、空港の周辺をぐるりと歩いてみようというウォーキング同好会の企画で、 2015年10月18日(土)に歩きました。 冒頭の画像からもおわかりいただけるように、快晴の飛行場見物日和でした。 このときにまとめたものを、再掲してご紹介します。 (再録理由は付記にて) このウォーキングをしてみて、初めて大阪国際空港が3つの都市にまたがっているのを認識した次第です。 私は通称の「伊丹空港」で聞き慣れていますので、空港がすっぽり伊丹市内にあると思っていたのです。 空港敷地の大部分は伊丹市なのですが、北東区域の一部が池田市、東部から南東部にまたがるかなりの区域が豊中市になるのですね。 豊中市からの出発になります。 まずは空港の建物沿いに南東方向に進み、豊中署のところから、阪神高速11号池田線の高架の傍を歩きます。 空港の建物群を離れる前に目にまずしたのがこの飛行機。 プロペラ機を間近に見るのは久しぶりでした。 後で調べてみると、ボンバルディア DHC8 Q400 という機種のようです。 資料1) 勝部の交差点あたりから右折して、西方向に進んでいきます。 目的は空港滑走路の北東端が見える地点に向かうためでした。 そこは飛行機マニアの垂涎の地点なんだとか。 途中でこんな可愛いい幼稚園送迎バスが停まっているのをみかけました。 車体には「仏光幼稚園」と表示された幼児バスです。 幼稚園児が喜びそうな楽しいバス! ある会社のフェンスのところに、朝顔がきれいに咲き、快晴の青空といい感じ・・・・。 滑走路区域にかなり近づいて行った途中で、道路を横断します。 その辺りから、着陸してくる飛行機の機体が見え始めます。 ちょっと楽しくなってきます。 そして、千里川沿いに進みます。 川の北側が空港の敷地です。 フェンスの先には生け垣になっていますが、その切れ目のあるところから滑走路上の飛行機が見え始めます。 そして、神明橋をわたります。 この画像は、メイン滑走路の東側の滑走路を進んでくる飛行機です。 ここで一旦時間調整して、管制塔との後進でメイン滑走路に方向転換していきます。 振り返ると、着陸態勢で進んでくる飛行機が間近に見えるのです。 離陸していったANAの旅客機は、機体に記された機体記号を手がかりにネット検索すると、この写真を撮られて詳しく記されているブログに出会えました。 (資料2) それによると、 ボーイング767のようです。 ANAの旅客機が離陸していくのを眺めていると、補助滑走路には既に2機が待機しています。 その間にも、1機が着陸してきます。 直近を撮りたくても、手持ちでの手頃なデジカメではシャッターチャンスを逃すだけ・・・。 あっという間にランディング状態です。 (資料3) 調べてみると777型でも、 777-300ER、777-300、777-200ER、777-200と4種類、 767型にも、767-300ER、767-300 の2種類が就航しているのです。 (2015年時点) 737型は主翼の形状の違い、あるいはコクピットの外側にマークが付いているようなので対象外でしょう。 こちらも、737-800、737-400と2種類が就航しています。 (資料4) JAL機の離陸 着陸してきた飛行機 こんなタイプの飛行機も蒼空の中に眺められました。 (資料4) これも着陸してきた JAL EXPRESS 機です。 この絶好スポットを後に、堤防沿いにしばらく南下し、空港の西側に回り込んで行きます。 どこに向かうのか? それは「伊丹スカイパーク」でした。 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017. 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 そして、6月のブログ記事まとめの最後に載せた 案内図説明板のところに到着です。 ここからは、ほぼ逆に下って行き、例の山門に至ります。 今回気づいたのは、自分の意識・視点の有り様でした。 同じ場所が違う風景に見えたのです。 6月に歩いたときの記録と対比してみてください。 尾根道から下ると、小さな五輪塔他の 墓所の一角に気づきました。 そして、今回はあの2本の巨大なケヤキが目に飛び込んで来ます。 例の山門が、2本のケヤキの間に見えるのです。 こちらからの景色の方がすばらしい! 積まれた石垣の苔むした姿が目に入ります。 前回はほとんど意識していませんでした。 そして、昼食休憩の時間。 近江天満宮、休憩場所は同じです。 しかし、今回ここにも小さな石仏像が配されていたことに気づきました。 同じ梵鐘も、前回は鐘楼建物の荒廃がまず目に入り、梵鐘そのものをこの角度からは眺めずに通り過ぎていたのです。 この角度で、私は梵鐘そのものに注視できました。 画像を拡大しても十分には読めないのですが、 鐘に銘文が陽刻されているのも気づいた次第です。 池の景色もまた趣が異なります。 水面を見つめる位置、角度の違い。 あたりまえのことのようですが、池にどちらから、どう近づくかで、見え方が違うのですね。 管山寺そのものをじっくりスポット探訪するという目的ではなく、ウォーキングの通過点、休憩地点の方にウエイトがかかると、その場所で眺める時間、見つめる視点も自ずと限定されてしまう。 自分自身の意識と観察に、ある方向づけができてしまっているのです。 全視界観察ができずに、ある側面観察だけになっている、ということなのでしょう。 あたりまえのようなことですが、今回改めて再認識しました。 目的と行動の連鎖、連結のプロセスで行動の方向づけと自己制約を無意識にしているということでしょうか。 たとえば、右側中心に見ながら歩いていると、左側に何があるか、いちいち気にせずに進んでいくように。 交差点での右、左を見るときも、車の有無、接近に注目して、左右の方向の景色が十分に把握できているとはかぎりません。 意識外になり見えていないかもしれない・・・・。 再び、山道を尾根筋に戻り、 集落のある坂口の方に下ります。 高架下を通り抜けたところで、右手に古墳が見えます。 回り込むと石室入口風のものが見えました。 古墳遺跡の一部でしょうか? 情報を持ち合わせていません。 謎が残りました。 この建物が 「弘善館」です。 現在はここに管山寺関連の寺宝などが保管されているそうです。 こちらが表参道なのですね。 石段下の向かって右側に、 管山寺の石標とそれよりもおおきい 「天満宮古蹟」と正面に大きく太い文字の印刻された石標が建てられています。 その側面に 「真言宗大箕管山寺」と記されています。 ある時期から、天満宮の方が主体になって行ったという証なんでしょうか。 興味深いものです。 後は余呉駅に向かうだけということですが、 途中、「乎弥(おみ)神社」の境内で小休止しました。 ここから駅まではわずかの距離でしたが。 石段を上がり、拝殿の後ろの本殿を見たかったのですが、拝殿の背面、つまり本殿側の両翼に新しい建物が繋がっていて、本殿の方を拝見することもできず、本殿の写真が撮れませんでした。 ちょっと残念です。 石段下の右手には、正方形に区画され、白い玉砂利の敷かれた御祓所がありました。 この神社の「由緒」を読むと、興味が湧きます。 御祭神があまり見慣れない祭神だったからです。 天之児屋根命一世の孫が巨知人命 (おうしりびとのみこと)で、この人の後裔がこの余呉の地に定着して繁栄したので、祖神としてこの巨知人命を祀ったのだとか。 この巨知人命の御子・梨津臣命( なしとみのみこと)がこの地の開発に努力されたのでその威徳と恵澤を憶って、この人を別に祭神としたそうです。 2つの神社(乎弥神社・乃弥神社)がこの地に建てられたのですが、賎ヶ岳合戦で類焼し神社は灰燼に帰したのだとか。 その後社殿を一つにして合祀されたと言われています。 さらに、承応年間(17世紀)に、海神、海津見命 (うみつみのみこと)を合祀したと言います。 「余呉湖尻の水の流れたる要所たる故にか」と、合祀理由が推測されています。 余呉湖-淡海(琵琶湖)ということから、海神という連想なのでしょうか。 余呉湖のような湖も海と見なすのでしょうか。 私には川の神や竜王、竜神と言われる方がなんとなくしっくりと収まるのですが・・・・。 神々のことは、その土地の人々の思いと深く結びついているのでしょう。 ところで、なぜ承応年間という時期に合祀されたのでしょうか? これもちょっと謎。 ネットでリサーチしていると、巨知人命と梨津臣命の二人は、「『帝王編年記』では、余呉湖の天女が生んだ兄弟とされている」という説が紹介されているのを見つけました。 (資料1) 境内の入口に架かる橋に近いところの大木がおもしろかったのです。 偶然にできた幹の欠落の結果でしょうが・・・・ じっと眺めていると、動物の頭部に見えてきませんか。 自然の造形というところ。 一休みの後、JR余呉駅に到着。 リベンジが果たせました。 帰路の列車を待つプラットホームには、涼風が通り過ぎて行き、リフレッシュできました。 ご一読ありがとうございます。 TV」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017. 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。

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プリンスつむ 770

横峰峠のところまで府道782号線の舗装道路が登ってきていて、尾根道との分岐になっています。 左側の尾根道を歩み、途中で高塚山に立ち寄ることになりました。 尾根道からの分岐点には、こんな 簡単な標識を作ってくれた人がいます。 なければ分岐を見過ごしてしまいそう。 高塚山への道の途中で 伏見区から山科区にかけての街並みが見えます。 高塚山の三角点と山頂に掛けられた私製の木札。 なぜか立派な数珠が掛けてあります。 再び、分岐点まで戻り、 牛尾観音への尾根道を行きます。 その通過点が「桜の馬場」です。 けっこう広い平地に出ます。 そこが 「桜の馬場」です。 ここから牛尾観音への山道を登って行きます。 途中で2通りの登り道に分かれます。 いずれを登っても、この道になります。 ここからはあと少しです。 牛尾観音は牛尾山の山腹にあります。 この牛尾山は音羽山の一支峰という位置づけになります。 「一説に小野の仁海僧正が亡母追善のために牛皮曼荼羅を描き、その尾を当山に埋めたので、牛尾山と名づけたとつたえる」 (資料1)そうです。 境内の入口付近に、 竹垣と石標が見え、その先に 「手水屋」があります。 この 手水屋の木鼻と蟇股はけっこう深い彫り物になっています。 大杉堂 手水屋の左斜め前、境内に入る左側に、 「大杉坊大権現」と「八頭竜神王」の提灯をずらりと吊したお堂があります。 大杉坊大権現(天狗)は火を司る男性神であり、八頭龍神王(八頭龍王尊)は水を司る女性神だとか。 「大杉坊」「宇賀神」と記された扁額が掛けてあります。 (資料2) この日は、 牛尾観音の本堂と境内で行事が行われていました。 境内には大勢の人々が参集し、本堂の正面の縁と向拝の場所を使い、ある大学のクラブの人たちが、 和太鼓のパフォーマンスを奉納している場面に出会いました。 山伏姿の人が司会をされていました。 しばらくその演奏を見聞してから、境内の一隅で昼食休憩です。 事後に調べてみると、 この10月17日は、秋季御開帳・大般若経転読法要(本尊の公開)が行われる行事日だったのです。 「牛尾観音」は通称で、正式には「法厳寺」というお寺です。 山号はかつては牛尾山、現在は 「牛王山」だそうです。 真言宗系で単立の本山修験宗のお寺。 本尊は十一面千手観音、天智天皇の自刻とされるもので秘仏です。 脇壇には行叡居士や延鎮法師の像を安置され、 不動明王・毘沙門天像も安置されているそうです、 (資料1,2,3 本堂の向拝の木鼻と蟇股はなかなか見応えと力強さのあるものです。 現在の本堂は元禄2年(1689)の再建によるものだとか。 垂仁天皇(前29~70)の指示により大国ノ不遅が牛尾山の山頂に祠を建立したのがはじまりとされ、奈良時代、光仁天皇の宝亀元年 770)に賢心法師により開基されたと伝わっています。 平安時代前期には、清水寺の開山延鎮法師が仏閣を建立し、清水の奧の院とも称されたことがあるようです。 もとは現在地よりも400m余山上に伽藍が建立されていたそうです。 しかし中世に衰微し、その後現在の地に移ったといいます。 豊臣秀吉による再興、その後に衰微、そして再び近世に再興されて現在に至るのです。 大石内蔵助が仇討成就の祈願をしたお寺でもあり、勤王の志士らが密議に利用した寺でもあるそうです。 (資料1,2,3) 平安中期以降に、観音信仰が流行し、この寺も霊場として栄え、今は「京都通称寺」の会員となっているお寺です。 (資料1,3) 本堂の前方左方向で境内の端近くに 「護摩堂」があります。 ここには 不動明王像 が祀られています。 護摩堂の建物からみて正面の左側に 「大弁財天」の石標が立っており、 建物の左斜め方向には石鳥居を備えた 「天龍王神」の石碑が祀られています。 この石標の陰になりますが、手水鉢があり、その傍に置かれた石板には次の語句が刻されています。 如来同智 明王智水 身内身外 正理清淨 祐峯 この石鳥居の対極は、本堂の正面に向かって右側になりますが、本堂の右斜め奥に、もう一つの石鳥居が見えます。 行事が行われていたので、近づけませんでした。 手水屋の右側、上掲の竹垣の内側に、この観音像と南無大師遍照金剛像が安置されています。 観音像の背後の塀には「西国三十三ヶ所霊場」の寺名一覧が掲示され、南無大師遍照金剛像の背後には「四国八十八所霊場」の寺名一覧が掲示されています。 このそれぞれの像の周囲は御砂踏み場となっています。 それぞれの霊場の砂が集めて納められているので、それぞれの周囲を巡れば、各霊場を巡った功徳があるという主旨の説明があります。 信仰心があっても遠方まで出かけるゆとりのない人々にはありがたい場所といえるでしょう。 南無大師遍照金剛像の前を通り過ぎ、 突き当たりにあるこの簡便な標識が牛尾観音から音羽山への登山道を示しています。 幅の細い階段状の登山道があります。 ここを登れると、 さらにこの標識のところを進みます。 途中にある道標 鉄塔の傍を通過します。 こんな瘤のできた木が目にとまりました。 音羽山山頂まで900mという道標が見えます。 さらに、この道標も まずは、ちょっと「パノラマ台」に立ち寄ってから、音羽山山頂に行くことに。 滋賀県側瀨田川の景色が遠望できる場所です。 道標からそれほどの距離はありませんでした。 眺望を楽しんで、パノラマ台から引き返し、音羽山へ。 平らな広い場所に出て、音羽山頂上が間近になります。 音羽山山頂の三角点 この山頂にも鉄塔があります。 琵琶湖側の風景が見えます。 デジカメをズームアップすると 「琵琶湖大橋」が望めます。 京都側の景色をしばらく眺めていました。 京都にはほかに東山清水の音羽山、洛北一乗寺の音羽山があります。 この音羽山は古来、歌枕として知られた名山です。 北は逢坂山に接し、南は醍醐山に連なっています。 現在はこの山の中央を新幹線のトンネルが東西方向に通じていますので、この山頂から新幹線が上下線で走っているのを遠望できます。 平安時代にこんな歌が詠まれています。 (資料1,4) 音羽山をこえける時に郭公のなくをききてよめる おとは山けさこえくれば郭公こずゑはるかに今ぞなくなる 紀 友則 古今集 142 石山にまうでける時、音羽山の紅葉を見てよめる 秋風のふきにし日よりおとは山峰のこずゑも色づきにけり 紀 貫之 古今集 256 おとはの山のほとりにて、人とわかるとてよめる おとは山こだかくなきて郭公君が別れををしむべらなり 紀 貫之 古今集 384 山夕立 夕立は早や山科の奧晴れて音羽になびく浮き雲の空 冷泉為尹 為尹卿千首 夏歌 山頂から再び、道標のところまで戻り、下山に入ります。 途中で、道標を辿りつつ下山。 逢坂山関址 この手前の国道脇で、大津駅方向に向かうメンバーと別れます。 逢坂山は近江と山城の国境の山ですが、その中心となる「逢坂の関」は近江国にります。 そのため古来の歌枕書は「あふさか(逢坂・相坂)」を近江国としてきたそうです。 私たちは逢坂という漢字で覚えています。 一般にはこの字を書くのですが、藤原定家は「相坂」と書くことが多かったとか。 (資料5、以下引用歌も同じ) 一番良く知られている歌はやはりこれでしょう。 これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸 後撰集・雑一 あれっと思われた方、 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 じゃないのかと・・・。 『百人一首』には、蝉丸の歌として第三句がこちらの文言で収載されています。 上の方は『後撰集』の記載なのです。 文意がどう変化するかが興味深いところです。 後撰集: これがまあ、行く人も帰る人も、また知っている人も知らぬ人も、再びここで逢うという逢坂の関なのだなあ。 (資料5) 百人一首: これがかの有名な逢坂の関だ。 旅立つ人も帰ってくる人も、知り合い同士も見知らぬ同士も、ここで出会って別れるといわれているよ。 (資料6) この逢坂の関は大化2年(646)に設置されたそうです。 『万葉集』巻十五に次の歌が載っています。 我妹子 (わぎもこ)に逢坂山を越えてきて泣きつつ居れどあふよしもなし 紀貫之が詠んだ有名な歌は 逢坂の関の清水にかげ見えて今や引くらむ望月の駒 拾遺集・秋 「信濃望月の牧場から馬を引いて上京する駒牽きの行事のために逢坂の関まで駒迎えに出かけた光景を屏風の絵にし、それを歌によんだ」 (資料5)というものです。 貫之は、「かつ越えて別れもゆくか逢坂は人だのめなる名にこそありけれ」 (古今集・離別歌 390)というのも詠んでいます。 同様に、 清少納言が当意即妙の返歌を詠んだものとして有名な歌があります。 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ 後拾遺集 940 です。 『百人一首』の62番。 藤原行成との教養人同士のハイレベルな社会的応酬を歌で交わしたというエピソードのあるものです。 文意は「夜の明けないうちに、鶏の鳴きマネをして、函谷関(かんこくかん)はだませたとしても、逢坂の関はそうはいきません。 私はけっして逢いませんよ」 (資料6) 中国、斎の孟嘗君 (もうしょうくん)のとった戦術を下敷きにしているのです。 清少納言が己の知識をはばからずに堂々と披露している応答です。 蝉丸神社への石段傍 逢坂の関のすぐ近くにあります。 蝉丸は逢坂の関の傍に住んでいた隠者だといわれています。 「盲目ながら琵琶の名手で、じつは醍醐天皇のご落胤だという伝説もある」 (資料6)のです。 その蝉丸を祀ったのがこの蝉丸神社です。 祭神は蝉丸大神猿田彦命です。 なのですが、蝉丸神社は2つあります。 もう一つは、「関蝉丸神社」です。 こちらは「探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -3 蝉丸神社(関蝉丸神社・下社)」というブログ記事にまとめて再録しご紹介しています。 今回のウォーキングの終着点です。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 「上醍醐不動の滝」です。 休憩所の建物の傍に、かなり古びてきた説明板が立っています。 そこには、この山に聖宝理源大師がお寺を開かれたことと、修験道の中興の祖と仰がれていること、並びにこの山が道場でもあると記されています。 その後に、こんな記述があります。 「お山は修験道にかぎらずとも、人間精神の道場である。 頂上に立つ爽快さはどうしても頂上に立つことなくしては体感できない。 がんばれ、降りの道は苦しさを伴っても楽しい。 人間精神を鍛える原始の場、山こそはその価値を失はぬ神秘の姿である」と。 その後に俳句と短歌が記されています。 山さくら つづくや上の 醍醐まで 蝶夢 幾山河 遍路の遠き 浄土かな 玄空 ひとりする行をたのしとおもひつつ醍醐山路のけはしきを踏む 勇 登って行くと、坂道の途中に朱色の鳥居を備えた 小さな神社があります。 そこに「南無音羽魔王・・・」と記された札が置かれていました。 後日、ネットで調べてみると、この社は 「音羽魔王大権現社」という名称でした。 昔この地に天狗杉があり、諸国を巡る天狗がこの木に腰かけて休むと伝えられていたそうです。 その杉が老い朽ちてしまったために、昭和10年に時の座主がここに社殿を建立されたと言います。 天狗の休み所がなくなるのをいたんだためとか。 (資料1) 登山道の傍には、表面に刻された文字が判然としなくなってきた碑が建立されています。 亀形の台座は 亀扶 (きふ)と呼ばれる中国の想像上の動物です。 余談ですが、東寺、黄檗山萬福寺、宇治川の隠元橋の傍その他何カ所かで見かけています。 途中に、役行者の小ぶりの石像が祀られています。 十八丁を登った先に、 「上醍醐寺務所」があります。 ここの建物は谷間の少し下がったところに位置します。 登山道(参道)はこの門の左側を通ります。 築地塀沿いの紅葉が紅く色づくと良い景色になります。 道端には、 「醍醐山の略史」の詳しい説明板が立っています。 道標はこのあたりが十九丁であることを示しています。 その隣に 石造卒塔婆があります。 清滝宮拝殿(国宝) 上醍醐の入口に、 開山の聖宝理源大師が醍醐の守護神として勧請した「清滝宮」があり、その拝殿の建物です。 室町時代、永享6年(1434)の建造で、三間七間、入母屋造り、檜皮葺で建物の側面に向拝が付き、入口となっていて、軒に唐破風が付いています。 蔀戸のある寝殿造りにならった舞台造りの構造となっている建物です。 (資料2,3) 清滝宮拝殿の傍、少し奥まったところに、 「醍醐水」の井戸があります。 ここが醍醐寺発祥となった霊泉です。 この霊泉が閼伽井 (あかい)に用いられています。 閼伽というのは、「仏に供えるもの。 一般に、仏前に捧げる清らかな水」 (日本語大辞典・講談社)という意味です。 寺伝によれば、ここで聖宝理源大師が白髪の老翁(横尾明神)と出会った場所なのです。 (資料2,駒札) 醍醐寺の名称が「ああ、醍醐味なる哉」というところに由来するとか。 今は建物の正面左側に霊水を引いた蛇口が設置されていて、この霊水を飲むことができるようになっています。 自然なおいしい水です。 最後の一字が判読しがたいのですが、「堂」という字かと思います。 清滝宮の背後少し高い上段の地に「准胝堂」があったのです。 創建は貞観18年(876)と伝えられていますが、たびたび火災に見舞われ、昭和43年に再建されたのですが、 平成20年(2008)8月にまたもや落雷による火災で焼失してしまったのです。 (資料3) 准胝というのは、サンスクリット語の音訳(音写)であり、女性名詞なので女尊となるそうです。 サンスクリット語・チュンディーは清淨という意味だとか (資料4)。 そして、「准胝観音は、子供を授けてくれるという、腕をたくさんもつ仏で、千手観音像に似た像容」 (資料5)だそうですので、「仏母」という表現が出てくるということなのでしょうね。 准胝観音が単独で祀られることは少ないそうです。 「経蔵跡」の傍を通り登って行くと、 「薬師堂」(国宝)があります。 山上伽藍最古の建物。 お堂の創立は延喜7年に遡るそうですが、 現在の堂は平安時代・保安2年(1121)の再建。 ここまで来ると、眺望が開けます。 さらに歩みを進めると、道の脇に階段を設けた高みがあり、 地蔵尊が祀られています。 さらに登って行くと、 手水舎と鐘楼が見えます。 そして 「五大堂」です。 昭和15年に再建されたもの。 薬師堂から東に300m余です。 『都名所図会』には、このお堂に祀られた不動明王は開山聖宝の作で、「延喜帝(注記:醍醐天皇)の御願にして、朝敵平将門降伏のためつくり給う本尊なり」という説明が記されています。 時代の背景が窺えておもしろい。 (資料6) 駒札に「祝融」という言葉が使われています。 文脈から火事・火災の意味と推測できますが、手許の辞書を引いてみました。 2つめの意味に「火事。 祝融の災い。 火事の災難。 火災」と説明があります。 その第一義の説明は「中国古代の伝説上の人物。 『墨子』によれば、殷の湯王とうおうが夏かの桀王けつおうを攻めたさい、城に火を降らせたという。 のち火の神・夏の神とされた」 (日本語大辞典・講談社)とあります。 駒札にその明王名が列挙されています。 手許の本の説明をご紹介しましょう。 (資料5) 不動明王: 大日如来の教令(命令)を受けて行動する、もっとも威力があり、功徳も大きい明王。 五大明王像の中央に安置。 降三世 (ごうさんぜ)明王: 過去・現在・未来の三世と貪 (とん、むさぼり)、瞋 (じん、怒り)、痴 (ち、無知)の三毒 (煩悩)を降伏 (ごうふく)する (抑え鎮める)仏。 不動明王に次いで格の高い明王。 軍荼利 (ぐんだり)明王: サンスクリット語で「とぐろを巻くもの」という意味を持つ明王。 蛇と密接な関係にある。 諸事を解決し、さまざまな障害を取り除いてくれる仏。 一方、不死の妙薬である甘露信仰と結びつき、拝まれることがあります。 大威徳明王: 阿弥陀如来の教令輪身 (りんじん)で、文珠菩薩の化身ともいわれる明王。 サンスクリット語の名前は、「死の神マヤを倒すもの」という意味があります。 世間に蔓延する悪の一切を降伏する仏とされます。 金剛夜叉明王: 「金剛杵 (こんごうしょ)の威力をもつ夜叉」という意味のサンスクリット語の名前を持ちます。 この金剛杵でさまざまな悪を打ち砕き、調伏 (ちょうぶく)する不空成就如来の教令輪身とされています。 種字(梵字)の下に「阿閦 (あしゅく)佛」、その下部には「卅十八町」と刻されています。 ここの文字は鮮明に判別できるものです。 阿閦仏とは「東方の阿比羅提 (あひらだい)世界(妙喜 みょうき世界)で成仏し、説法する仏。 密教では五智如来の一つ」 (日本語大辞典・講談社)だとか。 五大力堂からさらに東に登ります。 といってもあとわずかの距離ですが。 「如意輪堂」(重文) 慶長11年(1606)に豊臣秀頼により再建されたもの。 外観は五間三間、入母屋造り、こけら葺で懸崖 (けんがい)造りの建物です。 (資料2) 名前の通り、 本尊は如意輪観音。 二臂像で駒札には豊臣家ゆかりの女房衆のが寄進によると記しています。 開山堂(重文) 開山堂(重文) この建物も慶長11年(1606)に豊臣秀頼により再建されたもの。 この如意輪堂と開山堂の間に、 「結縁白山大権現」を祀る社があります。 開山堂は、建立当初「 御影堂 (みえどう)」といわれたようです。 『都名所図会』は「 祖師堂」と記しています。 八間五間、入母屋造り、妻を正面として、向拝に軒唐破風が付けられています。 屋根の前部が檜皮葺で後部がこけら葺だそうです。 (資料2. 3,6) 向拝の中央の蟇股と木鼻。 木鼻はシンプルな造形です。 象の鼻の部分の彫り込みをおもしろいと感じます。 開山堂内部と祀られている 理源大師像は、 醍醐寺の「上醍醐伽藍のご案内」のページ内に「理源大師像(木像)」と題して、諸堂とともに紹介されています。 堂前からは眺望を楽しめます。 この上醍醐で詠まれた歌のいくつかをご紹介します。 名をとむる世々は昔に絶えねどもすぐれし跡ぞ見るも畏 (かしこ)し 中原師光 新勅撰集 十七 雑歌二 樒 (しきみ)つむ山の往来 (ゆきき)の道かへて春は桜の花や尋ねん 法眼顕恵 続門葉集 巻八 雑上 兎に角に世のうきよりは淋しさを忍びてすぐる山かげの庵 (いほ) 阿闍梨俊叡 続門葉集 巻九 雑下 開山堂の前を少し下がったところに、 「上醍醐陵」があります。 南面する小円墳だそうです。 右側に立つ石標には、「白河天皇皇后 藤原賢子 堀河院天皇准母 媞子 (ていし)内親王 鳥羽院天皇准母 令子内親王」とあり、白河天皇の皇女とその生母・賢子が奉葬されているところです。 「この地はもと上醍醐の子院円光院があったが、明治の修陵にあたって寺は撤去されたとつたえる」 (資料2)とか。 この後、一旦五大力堂まで降り、手水舎に近い所から、尾根道に入ります。 横峰峠から高塚山に向かいます。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 このときにまとめたものを再録しご紹介します。 (再録理由は付記にて) 冒頭の景色は 京都市の地下鉄東西線の醍醐駅から地上に出たところです。 外環状線の道路を挟む パセオ・ダイゴローの建物です。 所在地は伏見区になります。 こちらは東に広がる住宅地域への架橋です。 まずは団地の間の遊歩道を通り、 旧奈良街道に面した醍醐寺総門に向かいます。 醍醐寺総門 総門の傍に、 世界遺産「古都京都の文化財」の説明板と醍醐寺の駒札が掲示されています。 古都京都の文化財の一つとして、醍醐寺も世界遺産として、平成6年(1994)12月17日に登録されています。 「醍醐寺」は、伽藍が山上と西麓の平地とに分かれており、山上伽藍は貞観16年(874)に、平地伽藍は延喜4年 904)に整備が始められたと伝えます。 その後たびたび火災にあい、16世紀末から17世紀初頭にかけて現在みられる姿に復興されました。 山上伽藍の 「薬師堂」は、保安5年(1124)に再建されたもので、平安時代初期の礼堂をもたない仏堂の規模・様式を伝えています。 また鎮守社清瀧宮拝殿は、永享6年(1434)に再建された懸造の建物で、意匠的には住宅風に仕上げられています。 いっぽう平地伽藍のうち、天暦5年(951)に建立された 「五重塔」は、年代が明かな建物としては京都における現存最古のもので、その外観は雄大で安定感があり、また初層内部に両界マンダラを描く点に密教寺院としての特色がみられます。 「金堂」は、慶長5年(1600)に紀州満願寺の金堂を移築したもので、平安時代末期の仏堂の様式を残しています。 「三宝院の表書院」は、豊臣秀吉による慶長3年の花見に際して増改築されたもので、寝殿造りの様式が取り入れられており、またこの横に広がる庭園も秀吉が直接指示して造らせた豪華なもので、 地泉回遊式と枯山水が折衷されています」 (説明板の転記) 世界遺産の説明板と駒札を対比的に読んで、おもしろいことに気づきました。 世界遺産は文化財の視点だけで作庭を含む建造物についての説明に限定されています。 駒札から抜けている要素の要点をまとめてみます。 * 醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山 *理源大師聖宝が笠取山(上醍醐)に登って観音像を安置したのが当寺の始まり *現在、醍醐寺の所蔵品は多くを霊宝館に保管して、春と秋に公開 ということでしょう。 「霊宝館」は醍醐天皇1000年遠忌を記念して昭和5年(1930)に建立されたものです。 総門の内側参道から、旧奈良街道を見た景色 旧奈良街道には京阪バスの路線が通っています。 総門から幅広い参道(桜の馬場)を進むと、左側(北側)に 「三宝院」の表門と拝観受付所があります。 醍醐寺の塔頭の一つです。 平安時代、永久3年(1115)権僧正勝覚(14世座主)の創建です。 古くから醍醐寺は真言系の修験の中心となっていたのです。 一方、修験道には独自の立場で活動する人々もいたようですが、江戸時代に幕府は修験道法度を定め、真言系当山派と天台系本山派のいずれかに属させたのです。 三宝院が山伏修験道当山派の総本山となりました。 しかし、明治維新後神仏分離令に続き、 明治5年(1872)に修験禁止令が出され、修験道が禁止されます。 当山派という名称は醍醐寺のホームページで見つけられません。 明治の時点で、 真言宗醍醐派という宗派に統合されてしまったようです。 だが修験道の実践者が存在するのは事実でしょう。 山伏姿が宗教行事の中でニュースに登場するのですから。 (資料1,2,3,4,5) 唐門(国宝) 三間一戸の檜皮葺の平唐門。 中央の門扉には五三の太閤桐が輝いています。 その左右には複弁十二葉の菊花文が同じサイズで配されています。 秀吉がでんと控えている感じ。 (資料1) 参道の先に、 「西大門(仁王門)」が見えます。 この門は下醍醐の入口になります。 三間一戸、入母屋造り、本瓦葺の楼門です。 左右の金剛力士立像(重文)は平安時代の作です。 (資料1) 三宝院とこの門から入った下醍醐境内、霊宝館はそれぞれ別個の拝観扱いなのです。 つまり、個別に拝観料が必要。 今回はウォーキング目的なので、 この仁王門を眺めて、外周を右から回り込むようにして上醍醐への入口に向かいます。 仁王門の前で右に行くと、 「右上のだいごみち」の道標があります。 ここを左折して下醍醐境内の境界外の道を東に進みます。 途中、フェンスごしに見える門 観音堂(旧大講堂) 醍醐寺は西国三十三所第十一番札所です。 こちらも醍醐天皇1000年遠忌を記念して昭和5年(1930)に建立されたもの。 いよいよ 上醍醐への登山口になりますが、 ここはまだ下醍醐の一部です。 醍醐山の山上に准胝観音が祀られていますので、「西国第十一番霊場」の石標が立っています。 石標の先、坂道の右手にあるのが「高王十句観音経」の経文を記した写経PR板。 なぜか鳥居が坂道の先に。 醍醐山の山上に醍醐一山の鎮守社「清滝宮」があります。 その参道にもなるからでしょう。 たぶん。 一方、下醍醐の境内にも、「清滝宮」が祀られています。 鳥居をくぐると、左側に「 成身院 (じょうしんいん)」があります。 通称が「 女人堂 (にょにんどう)」です。 ここまでが下醍醐になります。 現在のお堂は江戸初期の再建といわれるもので、 本尊には山上の准胝観音の分身が祀られています。 昔は女性が山に登れないことから、ここで山上の諸仏を拝んだそうです。 本堂正面には、 「第十一番上醍醐寺」としてご詠歌の扁額が掛かっています。 享和元年 1801)に奉納されたものです。 逆縁ももらさで救う願(がん)なれば准胝堂はたのもしきかな 本堂の前には、五体の像が祀られています。 右から地蔵菩薩、役行者、弥勒菩薩、理源大師、不動明王です。 理源大師は醍醐寺を開山した人、役行者は修験道の元祖ともいうべき人。 弥勒菩薩は、釈迦入滅後56億7000万年後に現れるとされる未来仏です。 「社会が混乱するという末法の時代に入ったとされた平安時代の11世紀初めには、未来仏である弥勒菩薩の信仰がより盛んになりました。 」 (資料6) 入山の受付所の傍に、この 鳥瞰図の案内が掲示されています。 丁単位で距離を表示する石標が目に止まります。 「一丁」の文字の上に太く陰刻されているのは「准胝観音」を示す種字のようです。 その背後に 「三光共立会本部」という見慣れない名称の石標も立っています。 これが何かはネット検索の対象にしてみました。 「丁」表示の石標と合わせて、 一定間隔で別の種類の石標が参道の反対側に続きます。 これが、その一つ。 何が記されているのか私には判別ができません。 「金剛」という文字がその一部として刻まれているのが識別できる程度です。 金剛という語句から連想するのは、金剛菩薩、金剛界五仏、金剛願・金剛宝・金剛幡・金剛悲の四地蔵、そして金剛石・・・・。 途中に道標もあります。 5丁目を越えてしばらく登ると、 「槍山」です。 ここが「豊太閤花見跡」と称される場所。 慶長3年(1598)年3月15日、あの秀吉がここで花見をしたといいます。 最初にご紹介した 桜の馬場から登山口を経由し五丁以上の先のここまで、道の両側に桜の木700本が植樹されたというのです。 さらに、 女人堂からこの槍山までの間に、名だたる武将が智恵を絞り趣向をこらした茶屋を建てたのです。 八棟の茶屋に秀吉はゆるゆると立ち寄り、茶を喫し歓談しつつ、桜の花を愛で、この槍山まで登ってきたといいます。 小瀬甫庵が寛永3年(1626)までに書き継いだ『太閤記』は、この時の茶屋について次のように詳述しています。 茶屋に関わる部分を抽出してみます。 「石橋の左に当て、さび渡りたる堂に、益田少将此所を便りとして、茶屋をいとなみ一献すすめ奉る。 ・・・岩下聊 (いささ)か平かなる所に、松杉の大木、椎檜の老木数千本茂りあふて、日影を知ぬ地有。 新庄雑齋是を寄なりと悦びつつ、茶屋を建置、物さびたる茶具などを以 (もって)御茶を上奉りぬ。 殿下一入 (ひとしお)に興じ給ふ。 三番に小川土佐守茶屋を営みしが、是は前の両人に事替 (かわっ)て、手のこもりたる事をもし侍らず。 三間廿間にあらましき、かやぶきして、垣はよしを以 (もって)かこひこめ、そさうなる畳をしき渡し、幕屏風をあまた所に置けり。 ・・・・秀吉公小川が倫をはなれたる作分 (つくりぶん)なるなりと感じ給ふ。 土佐守茶屋より十五六町も上に、岩堀の便おかしき所あり。 増田右衞門尉これに茶屋をしつらひ渡しつつ、・・・・五番徳善院玄以は、有べき式のかりやかた営み奉りぬ。 いかにも大やうに、大躰のよきを本意とせり。 六番長束太輔茶屋は、晩日に及ぶべきを兼て期せしに依て、御膳の用意なり。 ・・・・七番御牧勘兵衛茶屋、是もけつこうを盡 (つく)しけり。 八番新庄東玉種々の異風躰をいとなみ、御機嫌を望にけり。 鞍馬のふこおろしなどを沙汰し、其下に岩つたふ流れを手水に用ゐ、山居の興を盡せり。 ・・・・」 (資料7 茶屋を営んだ亭主が、智恵を絞り、様々に工夫している様子が窺えます。 史実がどこまでかはわかりませんが、当時の雰囲気が感じ取れます。 醍醐の花見の日によめる あらためて名を変へて見ん深雪山埋(うづ)もる花もあらわれにけり 秀吉 花もまた君のためにと咲きいでて世にならびなき春にあふらし 淀君 醍醐山山頂まで、まだ3分の1にも至りません。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 ウォーキング同好会の恒例企画に参加したのです。 JRの近江長岡駅前に集合し、路線バスで伊吹山登山口まで行きます。 登山口の近くに、 「三之宮神社」があります。 この境内で登山前の軽い準備運動をしてから、今や恒例となった 入山料を登山口で払い、代わりに「伊吹山登山MAP」をいただいて、登山口から表山道を登りました。 この時にまとめたものを再録してご紹介します。 (再録理由は付記にて) 一説によると、「山頂の弥勒堂を一之宮(上宮)、磐座がある2合目のシャクシの森が二之宮(中宮)とされ」、登山口の上野にある神社が三之宮となるそうです。 かつての伊吹山の修行の道も、ここ三之宮神社から始まっていたそうです。 (資料1) それでは登り始めましょう。 1合目(標高420m)に至る手前で見上げる景色 伊吹山スキー場のゲレンデが見えます。 1合目で小休憩をとり、まずは3合目をめざして登ります。 緑のゲレンデを眺めると、パラグライダーをする人々がいます。 このあたりはパラグライダーをする人々のグラウンドになっているようです。 毎年、目にします。 2合目(標高580m)からの眺め 大空には、パラグライダーが・・・・気持ちよさそう! 眼下を遠望すると、琵琶湖が広がっています。 3合目。 もう結構汗だくになっています。 3合目(標高720m)で、再び小休止。 「アキノキリンソウ」が咲いています。 ここにはトイレ施設も整備されています。 このあたりは、 「3合目山野保護地域」となっていて、登山道以外のところはところどころに防護ネット柵が設置されています。 ちょっと無粋ですが、山野の維持保全には必要なことなのでしょう。 3合目附近から眺めた湖北の景色 4合目(標高800m)・5合目(標高880m)を経由して、その少し先にある 避難小屋を目指します。 ゲレンデ斜面の中央にぽつんとみえる小屋がここからの目標地点です。 5合目を越えたあたりから眺めた全景 避難小屋付近で小休止後、目指すは8合目! やっと避難小屋を眼下に眺める地点まで到達 ネット情報を参照すると、 「イブキフウロ」のようです。 蝶々を目にしました。 8合目の少し手前で、西方向を眺めると、 説明板がないと意識すらしないでしょう。 肉眼ではお堂が小さな点としか見えません。 登山MAPには別名の「平等岩」で記入されています。 「行導岩」という巨岩の上に建てられています。 伊吹山を開いた高僧・三修がこの岩上で修行したといわれ、円空仏で有名な聖の円空もまた江戸時代前期に、この行導岩で修行した時期があったようです。 (説明版より) 伊吹山は平安時代には「七高山」の一つに数えられ、 9世紀中ごろ山中に伊吹山寺 (いぶきさんじ)が建立されたそうです。 後に、弥高寺 (みたかじ)・太平寺・観音寺・長尾寺という伊吹山4ヶ寺に発展していき、 伊吹山信仰の拠点となったようです。 戦国期には、伊吹山中腹の尾根上が山城としても利用されます。 「史跡弥高寺跡」「史跡上平寺跡」の石標が建てられていて、湖北を眼下に見る拠点にもなったのです。 (資料1) 平安時代は京都を中心にした世界です。 七高山は近畿にある7つの霊峰。 比叡山・比良山・伊吹山・愛宕 (あたご)山・神峰山 (かぶせん)・金峰山 (きんぶせん)と葛城 (かつらぎ)山あるいは高野山がそれにあたるようです。 (「デジタル大辞泉」) 『三代実録』には、七高山として葛城山の方を加えた七霊峰を記しているといいます。 伊吹山寺は伊吹山4ヶ寺に発展していきます。 4ヶ寺の一つ観音寺は、 大原観音寺と通称され、ここには 『大原観音寺文書』と称される古文書が豊富に残っているようです。 それによれば、寺号は正式には伊吹山護国寺、 観音護国寺と称するのだそうです。 中世の伊吹山は、伊吹4ヶ寺と伊吹社・三宮の両社が宗教組織として相互に関係しつつ、衆徒(寺僧)や山伏が存在した 山岳信仰の地だったのです。 そのため、「14世紀末? 15世紀、伊吹山を揺るがす相論が発生する。 その争点は、伊吹山の抖藪における一宿が弥高寺と三宮のいずれであるかということだった。 宿とは、山内の聖地であり、とくに一宿は入峰拠点としても意味が大きかった。 」 (資料2 という論争に発展する局面もあったようです。 一方、伊吹山の山伏は、寺外にネットワークを形成し、修験道の拠点である聖護院門跡の配下のもとに統括されていく形になったとか。 資料2) 伊吹山を山岳信仰の地とみると、ここもさまざまな変遷を経ているようです。 8合目(標高1220m)には、多くの登山者が休憩しています。 最後のひとがんばりへの小休憩でしょう。 この辺りからの展望が良いことと休憩できる空間が広いこともその一因だと思います。 この辺りから急坂にもなります。 山頂は目前です。 眼下に広がる景色を時折眺めつつ、最後の登りです。 「イブキトラノオ」が咲いています。 山頂への最後の直線道に入るあたりに、 「伊吹山頂遊歩道ご案内」の説明板があります。 ウツボグサ イブキアザミ イブキフウロなどが咲いています。 山頂の「伊吹山寺山頂本堂」が見えて来ました。 頂上の一等三角点まで直行です。 頂上1,377m。 頂上から登ってきた山頂入口のある西方向、山頂部の西半分の眺め 南西方向には、湖北の風景が広がり、 振り返ると、山頂の東半分とその彼方に北の山々の連なりが広がっています。 2015年も伊吹山山頂に立つことができました。 (今年2017は残念ながら、膝の不調で参加を断念、嗚呼!) 後は登ってきた表参道を逆に下って行くだけです。 山頂の日本武尊像のところで、多くの人々が記念写真を撮っています。 伊吹山は古代から人々に知られていた山です。 『古事記』の人代篇にヤマトタケルの逸話で登場します。 佩刀の草薙の剣をミヤズヒメの許に置き、素手でも可能として、伊服岐( いふき伊吹)の山の神を倒しに出かけます。 山を登り始めたとき、山のほとりで白い猪に出会うのです。 その後、以下のようなストーリーが語られます。 今殺さずとも、帰る時に殺せばよかろう」と言うての、そのまま山を登ったのじゃ。 すると、山の神がにわかに荒れ狂うて、大粒の氷雨を礫 (つぶて)のごとく零 (ふ)らせての、ヤマトタケルを打ち惑わしたのじゃった。 この白い猪に姿を変えておったのはの、その山の神の使いではなのうて、まこと、山の神そのものだったのじゃ。 それを見抜けずに、偽りの言葉を口の端に載せてしもうたのでの、ヤマトタケルは神の怒りに惑わされてしもうたというわけじゃ。 そこが「居寝 (いさめ)の清水」と呼ばれたと記しています。 ところが、大筋は同じですが、『日本書紀』の巻七・景行天皇のところには、山の神は大蛇 (おろち)になって道を塞いだとしているのです。 日本武尊はこの大蛇を神の使いと考え、その蛇をふみ越えて進んだとします。 「このとき山の神は雲をおこして雹 (ひょう)を降らせた。 霧は峯にかかり、谷は暗くて、行くべき道がなかった。 さまよって歩くところが分からなくなった。 霧をついて強行すると、どうにか出ることができた。 しかし正気を失い酔ったようであった。 それで山の下の泉に休んで、そこの水を飲むとやっと気持が醒めた。 それでその泉を居醒井 (いさめがい)という。 日本武尊はここで始めて病気になられた。 そしてようやく起きて尾張に帰られた。 」 (資料4) その場所は、滋賀県米原市の「 醒井 (さめがい)」だとされているのです。 「居寝の清水」・「居醒井」が「醒井」という地名の由来だといいます。 近世には木曾街道六十九次の 「醒井宿」として栄えた土地です。 下山にかかります。 路線バスの発車時刻に何とか間に合い、無事伊吹山行完了です。 伊吹山は中世以降、和歌や短歌、俳句に詠まれています。 諸資料から拾ってみます。 かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな 燃ゆる思ひを 藤原実方 後拾遺集 小倉百人一首 51 「まことにや、やがては下る」と言ひたる人に、 思ひだにかからぬ山のさせも草たれか伊吹の里は告げしぞ 清少納言 枕草子 302段 色にいでてうつろう春をとまれともえやは伊吹の山ぶきの花 藤原定家 拾遺愚草 今日も又かくやいぶきのさしも草さらばわれのみ燃えや渡らむ 和泉式部 新古今集 1012 水うみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを 名に高き越の白山ゆき馴れて伊吹の岳をなにとこそ見ね 紫 式部 紫式部集 82 湖のはてに伊吹は白く光りたり地震にくづれし片面かも 川田 順 うちわたす菜畑やうやく黄ばみけり伊吹嶺はなほ雪白くして 山川桃崖 雪曳ける遠つ伊吹の秋姿花野の末に柔らぎて見ゆ 服部綾足 どとおろす伊吹颪に野べの雪煙り上りて淋しきものを 梅村智美 伊吹山いぶく朝風吹きたえてあふみは霧の海となりぬる 加藤宇万伎 其のままよ月もたのまじ伊吹山 芭蕉 真蹟詠草 折々に伊吹をみては冬ごもり 芭蕉 後の旅 木枕の垢や伊吹に残る雪 丈草 植田よりなほさみどりに伊吹山 福田蓼汀 木曽を出て伊吹日和や曼珠沙華 河東碧梧桐 八月の色を抜けでて伊吹かな 上田 操 稲妻の怒り伊吹の怒りかな 平井照敏 秋高し苦り立ちたる伊吹山 松本たかし 雲湧いてのちの伊吹の冬の暮 桂 信子 (資料5,6,7,8) 脱線序でに、伊吹もぐさを始め、伊吹は薬草栽培地として有名です。 和歌に出てくる「伊吹のさしも草」の「さしもぐさ」は「ヨモギの異名」です。 「もぐさ」は「灸に使う、ヨモギの葉を乾燥して綿状にしたもの」であり、「ヨモギの異名」でもあります。 (『大辞林』三省堂) 調べてみると、平安時代の延長5年(927)に完成した『延喜式』の巻37・典薬寮には、「諸国進年料雑薬」という項の「東山道」という分類に「近江国七十三種」と薬材料の名称が列挙されています。 たぶん、これらの薬草のかなりが伊吹山から採取されたのかもしれません。 具体的な産地名は記載がありませんので推測ですが。 (資料9,10) 戦国時代、織田信長はポルトガル宣教師から病気の治療のための薬草栽培の必要性についての進言を得て、伊吹山に薬草園の開設を許可したそうです。 何とその規模は50ヘクタール(50町歩とも)、3,000種の薬草栽培に及ぶものだったとか。 (資料10,11) いろんなことを学べる興味深い霊峰、伊吹山です。 ご一読ありがとうございます。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 その折のリーダーについて歩き、行路での写真を撮ることを楽しんでいましたので、詳細な道筋は記憶していません。 ウォーキングの通過点を事後に少し手許の本やネット検索などで調べて、要所要所の見聞ポイントをまとめていました。 ここに再録しご紹介します。 JR草津駅に集合し、ほぼ予定時刻に出発。 歩いた経路は、 草津駅~草津川・木川町・山田町・矢橋帰帆島公園・近江大橋~膳所駅 です。 草津駅からまずは草津川に向かい、堤防の上を琵琶湖に向かって歩きます。 砂川大橋のところまでです。 そこで草津川堤防から、県道42号線に沿って南西方向に向かいます。 神社のまだ新しそうな由来説明碑が立っています。 鎮座地は草津市木川町1314。 祭神は天若御子神。 「鎮座地は地蔵山と称し、安政七年地頭木村左衛門他四十三名が、当地の守護神として祀ったと伝えられ、木川町天神社の御旅所となっていたが、昭和四十七年社殿を建て、天神社より御分霊を遷座して氏神とした」 (資料1)との由。 県道42号線を進むと、木川北交差点の次は県道141号線との交差点となります。 ここで、右折して県道141号線を琵琶湖の方向に進みます。 すると、鳥居の立つ杜が見えてきます。 ここが 「天神社」 (てん・じんじゃ)です。 砂原天神社はこの天神社からの分霊遷座ということになるようです。 鎮座地は草津市木川町542。 祭神は天市々魂命・天興豊魂命・天若御子神だとか。 説明碑には、推古天皇の時代(592-628)に淡海栗太郡の県主物部彦安の勧請により祭神が鎮座されたと伝えられています。 この辺りは往古は奈良興福寺の寺領だったようです。 当時は広域の神領を有する大社だったと説明碑には記されています。 なお、祭神にさらに 豊斟淳尊 (とよむぬのみこと)を加えて滋賀県神社庁には登録されています。 その途中で 「山田正八幡宮」の境内の傍をとおります。 滋賀県神社庁には「 山田八幡宮(ヤマダハチマン)」で登録されています。 鎮座地は草津市北山田町10-1。 祭神は応神天皇。 「天武天皇白鳳四年大中臣清麻呂の祈願に依り創建される。 建久三年に源頼朝が再興し、慶長以後は膳所城主戸田・石川・本多の諸侯が社領を献じて厚く崇敬した。 」 (資料3) 交差点を横断し、そのまま道沿いに進むと、右側に見えたのが、 「渡海神社」です。 「とかい」と読むのではなくて「わたつみ」と読む神社です。 鎮座地は草津市山田町3。 祭神は塩槌神。 「明細帳によれば創祀年代不詳であるが、社伝によると、醍醐天皇延喜六年に金峰山寺僧日蔵が同寺創建の時、大和国金峰山より春日の四所を勧請し若松神と尊崇したが、後奈良天皇天文年間同刹癈滅の際、その本尊蔵王権現を本社に合祀し爾来蔵王権現社と称した。 渡航、料理の神として信仰がある。 明治元年蔵王権現を渡海神社と改称する、」 (資料4) 蔵王権現社からの改称は、明治の神仏分離令の結果でしょう。 この辺りの集落では目立つ建物です。 そのまま湖岸の方向に歩いたのですが、湖岸傍で目にするのがこの建物。 かなり以前に、大津市側のなぎさ公園の方からこの特異な建物の形が目に止まり、何の建物だろうかと思っていたのですが、このウォーキングで初めて建物の近くを通り、関心をもっていたことが判明しました。 「天聖真美会」という宗教法人の建物でした。 帰帆北橋を渡って、矢橋帰帆公園に入ります。 「さざなみ街道」と称されています。 県道559号線。 この辺りからの眺望もいいですねえ。 1151,1155 ここには松尾芭蕉の句碑が建てられています。 こんな案内板が立っています。 この公園からの琵琶湖の景色はなかなか雄大な広がりを感じさせます。 公園を湖岸沿いに歩き、帰帆南橋、近江大橋を渡ります。 近江大橋西詰の歩道下で「晴嵐夕映」と刻された碑が目にとまりました。 中国の「瀟湘 (しょうしょう)八景」に倣って、江戸時代から 「近江八景」として「瀨田夕照 (せきしょう)」「粟津晴嵐 (せいらん)」「堅田落雁 (かたたのらくがん)」「矢橋帰帆 (やばせのきはん)」などが撰定され、浮世絵にも描かれてきました。 この「晴嵐夕映」という語句をこの日、初めて目にしました。 「琵琶湖八景・近江八景」にはない語句です (資料5)。 新造語というところでしょうか・・・・。 このあとは 湖岸沿いの道を歩きます。 「なぎさ公園」の一部です。 途中で、琵琶湖大橋の蜃気楼らしき眺めに遭遇。 右側、湖面の途中で橋の端が終わっていますよね・・・? やはり、今の琵琶湖周辺の一つのランドマークとなるのは、この建物です。 大津プリンスホテルが目立ちます。 これを目印に位置を考えるのに便利です。 場所によって、この建物が様々な表情を見せてくれるのもおもしろいところです。 琵琶湖汽船のクルーズ船を見かけました。 このあたりから膳所駅は、全行程からすれば、ほんの少しの距離ということになります。 天気に恵まれるとなかなか歩きごたえがあります。 距離と景色の両方の意味で・・・・。 ご一読ありがとうございます。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 この道標が、次の池の左側、道路が交差する角に立っています。 この池が 「瑞ヶ池 (ずがいけ)」です。 周りが金網で囲われていて、道路沿いに歩きながら眺めると方形の感じに見えるかなり大きな池です。 池の周囲が1. 6kmのトリムランニングコースになっているそうで、公園の広さは19. 3ヘクタールだとか。 (資料1) かつては「摂津の国小池」として農耕のための池だったようです。 それが昭和45年 1970)5月に水の公園として整備され 現在は伊丹市の上水の水源として活用されている貯水池になっているのです。 (資料2) 池の左側を右折して回り込んで行きます。 少し前進したところで、 彫刻の置かれた花園があり憩いの場所が広がっています。 この彫刻像は公園の完成記念碑なのです。 「日米修好の桜」というのが植樹されています。 伊丹産の桜がワシントンに植樹され、今度はその桜の苗木が里帰り桜として2003年に日本に贈られたのだと言います。 この公園内には、「オオシマザクラ、ヤマザクラ、シダレザクラ、カンヒザクラなど10種類600本のサクラがあります。 」 (資料3) 花が咲きそっていると気持ちがなごみます。 そして、 「昆陽池公園」が1km余り先にあるのです。 ウォーキングには最適のエリアです。 この公園は、 大きな昆陽 (こや)池を中心にしてその周辺が散策路を配した公園になっています。 おもしろいのは、 昆陽池の中に、日本列島の形が作られているようなのです。 昭和43年(1968)に伊丹市が一部公園し、その後段階的に拡張してきたそうです。 農林水産省のため池百選に選定されています。 現在の公園は、広さ27. 8ヘクタール(そのうち自然池12. 5ヘクタール、貯水池4. 5ヘクタール)だとか。 (資料4,5) 公園に入り、小川の流れる傍の小径を進んで行くと、 「伊丹市昆虫館」があり、公園マップの案内板があります。 昆虫館を横目に見ながら 「ふるさと小径」を歩んでいくと、この公園で見られる 野鳥の説明板などもあり、バードウォッチングの趣味人には楽しめる公園。 関西屈指の渡り鳥の飛来地だそうです。 さらに、その先には 慈円(1155~1225)の歌碑があります。 ゑにかきて今唐土(もろこし)の人に見せむ 霞わたれる昆陽の松原 山本紅雲筆「拾玉集」より写されたもののようです。 昆陽池内の日本列島の形になった島々らしきものを見られる展望箇所があります。 しかし、その形は上空からみないと???です。 ここでもまた蒼空を横切っていく飛行機を眺めました。 このあたりも障害物がないので、上空を行く飛行機を撮るには良い場所になりそうです。 飛行機の機内から、この池の日本列島が見えるかもしれません。 このスポットの近くに、 「夏目甕麿の歌碑」も目に止まりました。 自筆写本「七月の記」よりというもの。 遠つあふみ 入江の月の おもかけも 思ひそ出る 昆陽の大池 夏目甕麿という人をこの碑で初めて知ったのですが、江戸時代後期の国学者。 「遠江浜名郡白須賀(付記:現・湖西市)の名主で酒造業を営む家に生まれた」そうで、本居宣長の門人にもなった人。 また 様々な彫刻が置かれたエリアがあります。 この公園は多目的に楽しめそうです。 さらに池に沿った小径を歩むと、公園内の展望が広々と開放的になります。 大きく池を見渡せ、近くには大きな公園案内板が設置されています。 夏目甕麿は地名の語学的研究や近畿の山稜研究を行ったそうです。 この各地を転々とし、昆陽にも住み、1822年、昆陽池で遊んで溺死。 船から月を取ろうとしたという逸話が残るようです。 享年50歳。 (資料6) 昆陽池についての説明板も別にあり、 池中の日本列島を上空から撮った写真も案内板に載せてあります。 誰がこんなアイデアを思いついたのでしょうか。 この後はJR伊丹駅を目指します。 その駅前にあるのが「有岡城跡」。 今回のウォーキング最後の立ち寄りスポットです。 途中、こんな彫刻が市中で目にとまりました。 膝を抱えて座り込む二人の少女と一匹の犬、何を眺めているのでしょう・・・・。 こんな建物も。 「旧岡田家酒蔵」の表札が掛けてありました。 平成4年(1992)に国の重要文化財に指定されています。 店舗・釜屋・酒蔵からなる建物。 店舗は江戸時代・ 延宝2年(1674)の建築で兵庫県最古の町家であり、酒蔵は現存し年代が判明するものとしては日本最古なのだそうです。 「江戸時代の伊丹の酒造家松屋与兵衛が建て、岡田家の所有となったのは明治33年。 ・・・解体修理を経て平成13年(2001)6月24日より一般公開」 (資料7)に至っています。 史跡 有岡城跡 石段を上がったところに、説明板があります。 発掘調査が行われ、ここを昭和58年度(1983)から始まり平成5年度に完了した史跡公園整備により現在の姿になったのです。 この城は南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城です。 天正2年(1574)に当時織田信長の武将だった 荒木村重が伊丹氏を破り入城し、「有岡城」と改名します。 そして、「総構」という城下町の地域全域を囲う巨大な土塁と堀を築いたのです。 その総構は東端に本曲輪(本丸)があり、西に侍町が囲み、その西に町屋が広がり、北(岸の砦)と南(ひよどり塚砦)に砦を設けるという形です。 その全周囲を、堀の深さ3~7m・幅7~18m、土塁の高さ3~5mで囲んでいたといいます。 そして、危急時には本曲輪が領民の避難所にもなり、城籠りができるように造ったとされています。 (資料8,9) 現在、JR伊丹駅のすぐ前に残る城跡は、当時の本丸の10分の1位の規模にすぎないようです。 明治26年に鉄道が開設されるにあたり、城跡の東側が削り取られたのです。 昭和50年(1975)より発掘調査が行われ、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになったといいます。 石段を上がって行くと、左方向に見えるのが礎石と井戸の跡です。 右方向は本曲輪跡の広場です。 右方向に真っ直ぐに行くと、そこが現存する有岡城跡の石垣だと分かりました。 その石垣をよく見ると、石積みの中には石塔の基壇石だったものも確認できます。 発掘調査により出土した荒木村重時代の石垣を復元されたもののようです。 石垣側から眺めた礎石・井戸の跡がある方向 側面に土塁跡の表示があります。 この本曲輪跡には、あらきたしが村重につかわした歌と荒木村重が返した歌の二首を一石に刻んだ歌碑が建てられています。 霜がれに残りて我は八重むぐらなにはのうらのそこのみくづに あらきたし 思ひきやあまのかけ橋ふみならしなにはの花も夢ならんとは 荒木村重 「たし」は「ダシ」と読むそうです。 この歌は『信長公記』巻十二の「伊丹の城にこれある年寄ども、妻子兄弟置き捨て退出の事」の条に記載された二人が歌のやりとりをしたものです。 (資料10) 織田信長の命令で塚口郷(丹羽長秀)をはじめ12ヶ所以上に有岡城に対する付城を築かせ、完全包囲作戦を実行している状況の中で、村重が尼崎城に夜陰にまぎれて脱出したのです。 興味深いのは、この見出しが事実なら、完全包囲網が敷かれた状況の中で、なおかつ有岡城と尼崎城で歌の交換をするくらいの人の行き来が行われていたということです。 『信長公記』にはその続きに、次の歌も記録しています。 荒木村重が尼崎・花隅両城の開城説得に向かった荒木久左衛門の説得に応じません。 そのため、村重の正室をはじめ一族37人は京に護送され、六条河原で斬殺されるに至ります。 この洛中引き回しの上での処刑の状況が上掲書に記載されています。 その前に、「たし歌あまた読み置き候」として、他の一族の人々の歌を併せて記載する冒頭に4首を記録しているのです。 (資料10) きゆる身はおしむべきにも無き物を母のおもひぞさはりとはなる 残しおくそのみどり子の心こそおもひやられてかなしかりけり 木末よりあだにちりし桜花さかりもなくてあらしこそふけ みがくべき心の月のくもらねばひかりとともににしへこそ行(ゆけ) 懐古園の石碑が建てられていて、その碑文の意訳説明板もその傍に立っています。 この城跡の土地は何時の頃からか竹内という人の所有となり、その人が亡くなった後、未亡人の方が昔を偲ばれた思いを太田北山が書いた碑文だそうです。 太田北山とは、小西酒造の小西新右衞門氏が私塾として「弘深館」を造ったときに招かれた初代の先生だとか。 (資料11) 道路を隔てた反対側にも、有岡城の主郭部についての説明板が設置されています。 こちらにも歌碑があります。 春秋の花と月とをときならて 見はてぬ夢の暁はうし 伊丹之親 (ゆきちか) 有岡城とは直接関係がありませんが、 伊丹駅前に「フランドルの鐘」の塔が建てられています。 伊丹市と姉妹都市であるベルギー王国のハッセルト市から平和と友好の象徴として贈られた「カリヨン」だそうです。 国際姉妹都市提携5周年と伊丹市制施行50周年を記念して、1990年に寄贈されました。 「フランドルの鐘」は一般公募で決定した記念塔の愛称だとか。 「カリヨン(Carillon 」はラテン語で「4個で1組」という言葉を語源とする 「組鐘」のことで、「教会の塔や鐘楼に設置された複数の鐘を巨大なシリンダー式のドラムで自動演奏したり、奏者が鍵盤とペダルで演奏する楽器」。 この記念塔のカリヨンは「大小43個の鐘を手動バトン(鍵盤)により4オクターブの音色を奏でることができます。 」 (資料12) 大阪空港駅前を起点としたウォーキングは伊丹駅を終点として終了しました。 ご一読ありがとうございます。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 飛行機が離発着するコース線上で一番接近できる絶景スポットから、メイン滑走路全体をを側面から眺められる伊丹スカイパークへと周り、2つの視点からの離発着を堪能できました。 そこで空港を離れて、伊丹市内の史跡スポットをいくつか訪れて、JR伊丹駅をウォーキングの終着点とするコースとなりました。 冒頭の画像にある通り、 北エントランスからまずは猪名川の堤防に出て、神津大橋からその北に位置する興津橋を目指します。 右の写真は興津橋上から見た神津大橋です。 興津橋から北方向の景色を遠望しながら、一旦福知山線の高架下をくぐり、 駄六川に架かる雲正橋を渡ります。 橋のところの標識によると、 この橋からJR伊丹駅は300mの距離のようです。 ウォーキングとしてはこの橋から逆に北方向をめざしぐるりと回り込んでから終着点として伊丹駅にむかうことになります。 金剛院の門前、市立図書館の前を北に歩むと、猪名野神社です。 金剛院の門柱には「宇多天皇勅願所 真言宗御室派」という標札が片側に掛けてあります。 山号は「有應山」です。 「猪名野神社」の石造鳥居の傍に、「御由緒略記」が掲げてあります。 古くは野ノ宮、天王ノ宮と呼ばれていたそうですが、明治2年の神仏分離令の発布された折に、猪名野神社と改称されたようです。 伊丹郷町の氏神として祀られてきた神社。 鳥居の前の狛犬はぎょろっとした目に特徴がある感じです。 前懸がかけてあるのもおもしろい。 こういうのはあまりみかけません。 鳥居をくぐり真っ直ぐに進むと、 本殿。 唐破風屋根の向拝の木鼻や蟇股はシンプルなデザインです。 屋根の尖端隅に獅子があたかも鯱のような姿勢で置かれているのも興味深いところです。 兎毛通の中心に菊の紋が彫られています。 目に入った範囲の境内社はすべて石造鳥居が建立されているのも立派です。 上の画像の左から順に、天満神社、厳島神社、猿田彦神社です。 (資料1) 愛宕神社 そして一隅に 「鬼貫 (おにつら)句碑」が建立されていました。 鳥ハ末 口もほとけず 初桜 この句碑は嘉永7年(1854)に建立されたものだそうです。 俳人・鬼貫の句碑は伊丹市内に14ヶ所、他地域に4ヶ所、少なくとも20ヶ所は建立されている模様です。 (資料2) 鬼貫の名前は知っていましたが、それほど意識したことがありません。 この句碑をみて少し調べてみました。 江戸時代中期の俳諧師で、1661年、摂津国川辺郡伊丹郷で酒造家・上島宗次(屋号・油屋)の三男に生まれ、1738年、大坂鰻谷で死去、享年78歳。 享保3年(1718年)『獨言 (ひとりごと)』を刊行し、その中で 「まことの外に俳諧なし」と述べるに至ったと言います。 「東の芭蕉、西の鬼貫」と称されたそうです。 (資料3,4) 資料併読で課題が残りました。 一書には、「・・・8歳のころから俳句を始めた。 西山宗因門で誹諧を学んだが、談林誹諧に飽き足らず、25歳の時『まことの外に誹諧なし』と悟って、伊丹風を樹立した」 (資料6)と記されています。 この記述と上掲の刊行本の記載事実を対比すると、鬼貫が「まことの外に俳諧なし」という考えを確立したのはいつ頃なのか? という疑問です。 「13歳で松江維舟 いしゅう の門に入り、16歳ごろには芭蕉にも影響を与えた西山宗因を尊敬するようになります。 」 (資料4)という記述から、松江維舟に入門したことが西山宗因門につながることなのだろうと理解しました。 鬼貫が維舟門につらなる池田宗旦の俳諧塾・也雲軒で学び (資料4,5)、「鬼貫はしだいに遊戯的・享楽的な伊丹風俳諧に疑問を抱き、25歳ごろ、大坂に出ます。 」 (資料4)という説明があります。 この点を考えると、「伊丹風を樹立」という表現は複数の使い方が実際にされているということでしょうか。 文学研究的視点ではどういう解釈が一般的なのかという関心です。 別の視点で興味深いのは、「明治36年、河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう)が雑誌『ホトトギス』で、募集句の題を『鬼貫忌』として以後、秋の季語として定まりました。 」 (資料4)とあります。 上掲歳時記には「鬼貫忌」を秋の季語として掲載しています。 そこから上記の疑問が課題となったのです。 一方、手許にある『改訂版 ホトトギス新歳時記』を繙くと、「鬼貫忌」は秋の季語に取り上げられていないのです。 (資料7)これもおもしろいと感じました。 現在、芭蕉ほどには鬼貫の名前すら目にする機会が少ないのはなぜか? これも新たな関心事に加わりました。 鬼面の句をいくつかの情報源から集めてみました。 見つけた順番での羅列です。 にょっぽりと秋の空なる富士の山 古寺に皮むく椶欄の寒け也 行水 (ぎょうずい)のすてところなし虫の声 月なくて昼ハ霞むやこやの池 古城 (ふるじろ)や茨くろなる蟋蟀 (きりぎりす) 面白さ急には見えぬ 薄 (すすき)かな 後の月入りて貌よし星の空 此塚に柳なくとも あわれ也 賃とらで象も田をかえす動き哉 春と夏と手さへ行きかふ更衣 (ころもがえ) なでしこよ河原に石のやけるまで 大きく脇道にそれました。 軌道修正します。 境内の裏手から「伊丹緑道」の道標が立つ道を、まずは伊丹坂の方向に向かいます。 この説明碑の上あたりが、白洲次郎とゆかりのある地だったのです。 白洲次郎は随筆家として有名な白洲正子の夫です。 日本の実業家であり、吉田茂の側近であるとともに、様々な分野で活躍した人物。 現在の春日丘4丁目あたりに、白洲次郎の父、白洲文平が4万坪の敷地に博物館付きの豪華な屋敷をたてていたところだったのです。 白洲次郎もここに住んでいたことがあるそうで、妻正子との婚姻届は昭和5年に伊丹市で提出しているのだとか。 緑道を進む一方、見上げると蒼空を飛行機が横切っていきます。 「西国街道」の道標 六地蔵尊石像 緑道の道標をみつつ、緑ヶ丘公園をめざします。 小道を進み、171号線を横断し、 「天満神社」の傍を通過して、 かなり大きな池の畔に至りました。 ちょっとした異国情緒に溢れる一隅です。 近くまで行ってみました。 「賞月亭」という扁額が掛けられています。 この池の側に、 「伊丹市公館 鴻臚館」という説明板の建てられた建物が一般公開されています。 ウォーキング主体のため、今回はここも通過地点でした。 池沿いに歩いて行くと、この案内板に行きつきました。 現在地という白字抜きの赤い長方形の場所に立っています。 裏手からこの公園の表入口に至ったのです。 この案内板の左上に2つの建物の概説が記されています。 佛山市の中山公園内の「迎春亭」がモデルになった亭なのだそうです。 なるほど・・・中国風ではなく、 中国建築そのものでした。 一方、 「鴻臚館」は平安時代の外国の賓客接待施設として京都や太宰府に設置された「鴻臚館」の名前を使い、 公館として建てられたものだそうです。 「日本建築の伝統・技術の保存、継承のため、市内在住の大工、左官、建具師など技能功労者として市表彰された人たちの技術を結集して建設されました」 (説明板より)のだとか。 機会があれば拝見したいものです。 この入口傍には、 「緑ヶ丘神社」という小祠と、「 緑ヶ丘」を上の五に冠した句碑と思える碑があります。 説明は付されていません。 私には下部に記された文字を判読しかねています。 ネット検索でこれも調べてみましたが、不詳。 ここにも課題が残りました。 そして、駄六川に架かる橋を渡って、「昆陽池」に向かいます。 このあたりは駄六川の上流にあたるのでした。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 次々に離陸していく飛行機、その合間に着陸してくる飛行機・・・・・ 蒼空の気持ちよい下で、それらを眺める子供達は、将来あれを自分で飛ばしてみたい、操縦桿を握りたい・・・「パイロット」という職種を教えられ、「僕、パイロットになるよ」という夢を育むのではないでしょうか。 冒頭の画像は、当日 2015. 18)入手した 「伊丹市スカイパーク」のリーフレットです。 さて、前回の続きから始めます。 千里川の橋を渡って、猪名川に並行する道路を進みます。 空港敷地側には、原田下水処理場やクリーンランドなど、公共施設などがあります。 後ほど調べて見ると、 この資料館のあるところは尼崎市になり、「国史跡田能遺跡の上立地しており、田能遺跡から出土した遺物を収蔵・展示して」いるところでした。 (資料1) ここが 「8翼の丘」への入口です。 この南方向には「9南エントランス」があり、南駐車場があります。 翼の丘の休憩所前には、「ウィングデッキ」があり、その前方の一段低いところが「遊具広場」になっているようです。 休憩所の前の通路から眺めると、メイン滑走路への待機中のJAL機が目に飛び込んできます。 先ほどの滑走路南東端の絶景スポットとはまた違う角度からの姿が見えて、楽しいです。 離陸していく飛行機を眺めつつ、 「7休憩の丘」「6星空の丘」と進み、「5中央エントランス」に至ります。 「星空の丘」の斜面にある坂道は、「スターライトパス(星空の小道)」と名づけられています。 「夜になると美しく浮かび上がる幻想的な園路です。 130mに及ぶその中にはLEDで表現した8つの星座が隠れいます。 」 (資料2) ここでちょうどお昼の食事および飛行機の離着陸をゆっくりと眺める休憩タイムとなりました。 中央エントランスからの空港の眺めはこんな感じ・・・・。 離着陸する飛行機 「スカイテラス(展望施設)」から眺めた景色 噴水を中央にして 、南北に「だんだんテラス(石階段)」になっています。 スカイパークの東に南北にメイン滑走路が見え、その向こうに補助滑走路と管制塔を始め空港の諸施設が水平に広がっているのが遠望できます。 着陸する飛行機 管制塔の周辺の眺め この花は「ブッドレア」(フジウツキ科) 空港川の上に架かる 「スカイウォーク(人道橋)」をわたり、 「4つつじの丘」「3冒険の丘」「2大空の丘」を経由して、飛行機の離着陸を眺めつつ「1北エントランス」へ。 つつじの丘のエリアは中央駐車場が設営されていて、斜面がつつじの丘になっています。 花の咲く季節は色鮮やかでしょう。 冒険の丘には「キューブアドベンチャー(立体迷路)」や「ローラーすべりだい」があり、子供にとっての遊び天国です。 大空の丘は多目的広場として活用されているようです。 北エントランスの「パークセンター」 この「伊丹スカイパーク」の レイアウト案内掲示が建物の前にあります。 建物の背後が「北駐車場」になっています。 このパークセンターの前を今回は通過しただけですが、 建物内には、リーフレットによると「岩屋遺跡と神津の歴史展示」や「航空管制レーダー展示」があるようです。 こんな記念碑が北エントランスの入口近くに建てられています。 エントランスの目の前が「伊丹スカイパーク・上須古」バス停です。 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 しかし、それは飛行機に搭乗或いは着陸後のための通過施設という目で建物を眺めて利用するだけでした。 今回は この空港の施設内に入ることなく、空港の周辺をぐるりと歩いてみようというウォーキング同好会の企画で、 2015年10月18日(土)に歩きました。 冒頭の画像からもおわかりいただけるように、快晴の飛行場見物日和でした。 このときにまとめたものを、再掲してご紹介します。 (再録理由は付記にて) このウォーキングをしてみて、初めて大阪国際空港が3つの都市にまたがっているのを認識した次第です。 私は通称の「伊丹空港」で聞き慣れていますので、空港がすっぽり伊丹市内にあると思っていたのです。 空港敷地の大部分は伊丹市なのですが、北東区域の一部が池田市、東部から南東部にまたがるかなりの区域が豊中市になるのですね。 豊中市からの出発になります。 まずは空港の建物沿いに南東方向に進み、豊中署のところから、阪神高速11号池田線の高架の傍を歩きます。 空港の建物群を離れる前に目にまずしたのがこの飛行機。 プロペラ機を間近に見るのは久しぶりでした。 後で調べてみると、ボンバルディア DHC8 Q400 という機種のようです。 資料1) 勝部の交差点あたりから右折して、西方向に進んでいきます。 目的は空港滑走路の北東端が見える地点に向かうためでした。 そこは飛行機マニアの垂涎の地点なんだとか。 途中でこんな可愛いい幼稚園送迎バスが停まっているのをみかけました。 車体には「仏光幼稚園」と表示された幼児バスです。 幼稚園児が喜びそうな楽しいバス! ある会社のフェンスのところに、朝顔がきれいに咲き、快晴の青空といい感じ・・・・。 滑走路区域にかなり近づいて行った途中で、道路を横断します。 その辺りから、着陸してくる飛行機の機体が見え始めます。 ちょっと楽しくなってきます。 そして、千里川沿いに進みます。 川の北側が空港の敷地です。 フェンスの先には生け垣になっていますが、その切れ目のあるところから滑走路上の飛行機が見え始めます。 そして、神明橋をわたります。 この画像は、メイン滑走路の東側の滑走路を進んでくる飛行機です。 ここで一旦時間調整して、管制塔との後進でメイン滑走路に方向転換していきます。 振り返ると、着陸態勢で進んでくる飛行機が間近に見えるのです。 離陸していったANAの旅客機は、機体に記された機体記号を手がかりにネット検索すると、この写真を撮られて詳しく記されているブログに出会えました。 (資料2) それによると、 ボーイング767のようです。 ANAの旅客機が離陸していくのを眺めていると、補助滑走路には既に2機が待機しています。 その間にも、1機が着陸してきます。 直近を撮りたくても、手持ちでの手頃なデジカメではシャッターチャンスを逃すだけ・・・。 あっという間にランディング状態です。 (資料3) 調べてみると777型でも、 777-300ER、777-300、777-200ER、777-200と4種類、 767型にも、767-300ER、767-300 の2種類が就航しているのです。 (2015年時点) 737型は主翼の形状の違い、あるいはコクピットの外側にマークが付いているようなので対象外でしょう。 こちらも、737-800、737-400と2種類が就航しています。 (資料4) JAL機の離陸 着陸してきた飛行機 こんなタイプの飛行機も蒼空の中に眺められました。 (資料4) これも着陸してきた JAL EXPRESS 機です。 この絶好スポットを後に、堤防沿いにしばらく南下し、空港の西側に回り込んで行きます。 どこに向かうのか? それは「伊丹スカイパーク」でした。 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017. 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。 そして、6月のブログ記事まとめの最後に載せた 案内図説明板のところに到着です。 ここからは、ほぼ逆に下って行き、例の山門に至ります。 今回気づいたのは、自分の意識・視点の有り様でした。 同じ場所が違う風景に見えたのです。 6月に歩いたときの記録と対比してみてください。 尾根道から下ると、小さな五輪塔他の 墓所の一角に気づきました。 そして、今回はあの2本の巨大なケヤキが目に飛び込んで来ます。 例の山門が、2本のケヤキの間に見えるのです。 こちらからの景色の方がすばらしい! 積まれた石垣の苔むした姿が目に入ります。 前回はほとんど意識していませんでした。 そして、昼食休憩の時間。 近江天満宮、休憩場所は同じです。 しかし、今回ここにも小さな石仏像が配されていたことに気づきました。 同じ梵鐘も、前回は鐘楼建物の荒廃がまず目に入り、梵鐘そのものをこの角度からは眺めずに通り過ぎていたのです。 この角度で、私は梵鐘そのものに注視できました。 画像を拡大しても十分には読めないのですが、 鐘に銘文が陽刻されているのも気づいた次第です。 池の景色もまた趣が異なります。 水面を見つめる位置、角度の違い。 あたりまえのことのようですが、池にどちらから、どう近づくかで、見え方が違うのですね。 管山寺そのものをじっくりスポット探訪するという目的ではなく、ウォーキングの通過点、休憩地点の方にウエイトがかかると、その場所で眺める時間、見つめる視点も自ずと限定されてしまう。 自分自身の意識と観察に、ある方向づけができてしまっているのです。 全視界観察ができずに、ある側面観察だけになっている、ということなのでしょう。 あたりまえのようなことですが、今回改めて再認識しました。 目的と行動の連鎖、連結のプロセスで行動の方向づけと自己制約を無意識にしているということでしょうか。 たとえば、右側中心に見ながら歩いていると、左側に何があるか、いちいち気にせずに進んでいくように。 交差点での右、左を見るときも、車の有無、接近に注目して、左右の方向の景色が十分に把握できているとはかぎりません。 意識外になり見えていないかもしれない・・・・。 再び、山道を尾根筋に戻り、 集落のある坂口の方に下ります。 高架下を通り抜けたところで、右手に古墳が見えます。 回り込むと石室入口風のものが見えました。 古墳遺跡の一部でしょうか? 情報を持ち合わせていません。 謎が残りました。 この建物が 「弘善館」です。 現在はここに管山寺関連の寺宝などが保管されているそうです。 こちらが表参道なのですね。 石段下の向かって右側に、 管山寺の石標とそれよりもおおきい 「天満宮古蹟」と正面に大きく太い文字の印刻された石標が建てられています。 その側面に 「真言宗大箕管山寺」と記されています。 ある時期から、天満宮の方が主体になって行ったという証なんでしょうか。 興味深いものです。 後は余呉駅に向かうだけということですが、 途中、「乎弥(おみ)神社」の境内で小休止しました。 ここから駅まではわずかの距離でしたが。 石段を上がり、拝殿の後ろの本殿を見たかったのですが、拝殿の背面、つまり本殿側の両翼に新しい建物が繋がっていて、本殿の方を拝見することもできず、本殿の写真が撮れませんでした。 ちょっと残念です。 石段下の右手には、正方形に区画され、白い玉砂利の敷かれた御祓所がありました。 この神社の「由緒」を読むと、興味が湧きます。 御祭神があまり見慣れない祭神だったからです。 天之児屋根命一世の孫が巨知人命 (おうしりびとのみこと)で、この人の後裔がこの余呉の地に定着して繁栄したので、祖神としてこの巨知人命を祀ったのだとか。 この巨知人命の御子・梨津臣命( なしとみのみこと)がこの地の開発に努力されたのでその威徳と恵澤を憶って、この人を別に祭神としたそうです。 2つの神社(乎弥神社・乃弥神社)がこの地に建てられたのですが、賎ヶ岳合戦で類焼し神社は灰燼に帰したのだとか。 その後社殿を一つにして合祀されたと言われています。 さらに、承応年間(17世紀)に、海神、海津見命 (うみつみのみこと)を合祀したと言います。 「余呉湖尻の水の流れたる要所たる故にか」と、合祀理由が推測されています。 余呉湖-淡海(琵琶湖)ということから、海神という連想なのでしょうか。 余呉湖のような湖も海と見なすのでしょうか。 私には川の神や竜王、竜神と言われる方がなんとなくしっくりと収まるのですが・・・・。 神々のことは、その土地の人々の思いと深く結びついているのでしょう。 ところで、なぜ承応年間という時期に合祀されたのでしょうか? これもちょっと謎。 ネットでリサーチしていると、巨知人命と梨津臣命の二人は、「『帝王編年記』では、余呉湖の天女が生んだ兄弟とされている」という説が紹介されているのを見つけました。 (資料1) 境内の入口に架かる橋に近いところの大木がおもしろかったのです。 偶然にできた幹の欠落の結果でしょうが・・・・ じっと眺めていると、動物の頭部に見えてきませんか。 自然の造形というところ。 一休みの後、JR余呉駅に到着。 リベンジが果たせました。 帰路の列車を待つプラットホームには、涼風が通り過ぎて行き、リフレッシュできました。 ご一読ありがとうございます。 TV」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017. 31で終了しました。 ある日、ある場所を探訪したときの記録です。 私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。 再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。 再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。 少しはお役に立つかも・・・・・。 他の記録もご一読いただけるとうれしいです。 その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。 掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。

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