明智 光秀 越前。 大河ドラマの前に、絶対に見てはいけない光秀の正体

大河ドラマ明智光秀の前半生 織田信長に出会うまで

明智 光秀 越前

福井の称念寺 しょうねんじ は、福井県坂井市にある時宗のお寺さんです。 に、 から明智城を攻められた は、妻である 妻木範煕の娘 と共に、越前に逃れます。 この時、最初に逃れたのは、越前ではなく、 の腰元・竹川という女性の叔母を頼ったようです。 諸説ありますが、 おまきのかた は、明智光秀の母ともされる女性です。 の出身だったようで、 の女中である竹川のつてを頼ったようです。 その竹川の叔母が、若狭・小浜にある西福庵の庵主で、縁があった越前の称念寺を、明智光秀らは紹介されたと言う事になるのでしょう。 なんでも、西福庵は越前・称念寺の末寺ともされ、母の於牧の方と明智光秀は、幼い頃に西福庵に身を寄せていた時期があったそうです。 すなわち、一介の のような感じで、1562年から越前・称念寺に身を寄せたようです。 門前の北国街道沿いに寺子屋を建てては、地元の子供たちに読み書きを教えて、生計を立てたと伝わります。 なお、明智光秀が越前に逃れていたことは「遊行三十一祖京畿御修行記」という史料にて確実視されるようになりました。 時宗の総本山である、相模・ の31代住職の同念上人が、東海~関西地方を遊行した際の記録が遊行三十一祖京畿御修行記になります。 同念和尚は、 の領地を通行するのに配慮を得るため、明智光秀の に僧の六寮を派遣しました。 この六寮は、かつて称念寺の住職を務めていたことがあったようで、明智光秀は、称念寺の近くに長く住んでいた事を懐かしんで、旧情をあたためたいと、六寮を坂本城に引き留めたとの記述があります。 寺子屋を開いていた明智光秀は、もちろん、地元で朝倉家に仕える武士に知られることになります。 恐らくは、称念寺から500mほどのところにある、舟寄館主・黒坂景久 黒坂備中守景久 が知るところとなっていたのでしょう。 このあたり、よくわかっていませんが、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、朝倉家の家臣・宇野市兵と言う武将に見いだされるも、朝倉家には仕えなかったと言うニュアンスにして描かれています。 ただし、宇野市兵が上司に推挙したところ、直接、 に面会してもらい、許可が必要だと言う趣旨になっていましたので、その上司と言うのが、舟寄館主・黒坂景久である可能性は残るでしょう。 このように、黒坂備中守景久に一時期、仕えた可能性? 仕えなかった可能性も? もあるかと存じますが、当面は、越前にて浪人のような生活を送った模様です。 しかし、やがて、転機が訪れました。 が1566年9月に朝倉義景を頼って を訪問します。 すると、 の推挙などもあり、明智光秀は、越前に滞在する足利義昭に仕える形になったものと推測致します。 そして、 城にも通える場所に屋敷を与えられたのか移り住み、現在、その跡地には がある訳です。 その過程にて、明智光秀が連歌会を主催することになり、酒宴の費用負担に苦労したため、妻の煕子は、自分の黒髪を売って、費用を捻出したと言う伝承があることになります。 また、3女の も、称念寺もしくは明智神社の場所で生まれた可能性があると言う事です。 江戸時代になり、 下を訪問した松尾芭蕉は、明智煕子の髪を売った逸話を聞き「月さびよ、明智が妻の、咄(はなし)せむ」と句を詠みました。 なお、福井の称念寺ですが、歴史あるお寺さんです。 その昔、この地には「池」があり、その湖畔が と言う地名だったようです。 白山信仰のためか、721年に、元正天皇の勅願を受け阿弥陀堂を創建されました。 時代には一遍上人が「長崎道場」として開いたとされますが、兵庫川などを使った船運も寺が行っていたようです。 を滅ぼした は、 勢として戦いましたが、1338年、灯明寺畷の戦いにて討死しました。 新田義貞は、称念寺の住職とかねてより親交があったため、僧侶8人が新田義貞の遺骸を回収して、称念寺で手厚く葬ったともります。 そのため、称念寺には新田義貞の墓所もあります。 室町幕府も新田義貞の武勇をたたえ、1458年には称念寺に寺領を寄進し、足利将軍家の祈祷所となりました。 そのため、のち、越前にやってきた足利義昭にとっても、称念寺とは縁があったと言えます。 また、越前でも一向一揆が活発になると、七里三河守が称念寺に陣を置いたりもしました。 江戸時代になると、新田義貞は、 の先祖と言う事になっていたので、越前・称念寺は、江戸幕府から大切にされ、建物も30あったと言います。 1737年には新田義貞の400回忌、1787年には450回忌、1837年には500回忌と、徳川家の支援にて法要も行わ、新田義貞の菩提所とされました。 昭和23年の福井大地震では、建物倒壊などの被害が多数出たため、再建された本堂も、鉄筋コンクリート製になっています。 福井の称念寺への交通アクセス・行き方ですが、JR丸岡駅から歩くと約3. 2km、徒歩40分といったところです。 称念寺の駐車場が無料でありますので、利用できますので、にてポイントしておきます。 なお、北陸新幹線の高架がちょうど寺の東側を通過するため、道路も改変されてしまっており、訪問時には、西側からのアプローチとなりました。 丸岡城とセットでどうぞ。

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明智 光秀 越前

《明史》海外諸國傳是距今300多年前交通不發達的年代依據沿海人民的道聼塗説寫成的。 事實上如明智光秀這樣出人意外的改變了局勢最可能的走向,並因之道德色彩兩極端,而容易引發後世無限想像的人物,也實屬罕見。 明智光秀作為一個知名人物活躍在有影響力者視野中(這是古人能留名史籍的主要原因)的時間實際上只有十幾年,在歴史長河中這只是短暫的一段。 後世所知的詳細內容主要來源自成書於江戸前期(從開幕到寛永年間,即西元17世紀上半葉,前三代江戸將軍期間)的《美濃国諸旧記》、《明智軍記》和《細川家記》中難以證實卻也難以證偽的部分。 但就是這樣殘片般的信息,還是有指向某些共同之處,透露給後世一些大概的事實:在織田信長的政治與征戰生涯中,這是一個對信長起過很大幫助,很有能力的奇特人物。 一般認為,明智氏出自建武新政至室町時代的美濃国守護土岐家的旁支,是西元1330年代的武將土岐伯耆守頼貞的後裔。 土岐頼貞身為鎌倉幕府的御家人和執権北條家的親戚,卻積極支持後醍醐天皇和室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏而有事蹟見於《太平記》。 然而美濃源氏再古老,具體到光秀時,這種最早見自江戸前期至中期之間官修史書或者軍記物語的說法,一直存在許多疑問。 首先,明智家從土岐頼貞以後家系就已經說法不一。 一些學者相信之所以出入很大是因為光秀的出身其實並不顯赫,就如織田信長集團的其他知名人物一樣,至多是前田利家那樣在土豪家族中都屬於庶流,生來只能為主家或家族嫡流從基層用命做起的低級武士家庭。 所以,明智光秀早年的信息幾乎是空白的。 然而,如果考慮到另外一個能夠確信的事實,在這人民普遍貧窮、文教不普及的封建社會亂世之中,光秀的見識和教養又能遠在前田利家、豐臣秀吉這些人之上,堪稱文武雙全,那麼他的身世不可能是太過低微的。 光秀的生年也沒有可靠的當世記錄留下來,但應該不會晚於天文初年(1530年代初),也就是跟信長、秀吉是同齡人,甚至還略年長一些。 《明智軍記》說是享祿元年,即1528年。 及光秀成年時,1550年代的日本,依然處於戦国時代最混亂,甚至堪稱最黑暗的階段。 起初在15世紀期間,還是室町幕府架構內将軍、管領、守護這些高層之間的武力衝突。 原本在室町時代,一国一守護(京都所在的山城国和邊遠的陸奥国、出羽国除外),一個家族的兄弟幾人分任兩三国守護,甚至一個人兼任多国守護都是普遍現象。 初時頼武得勝。 但六年後的大永五年(1525年)頼藝又成功推翻頼武,將頼武和其子頼純放逐至頼武生母朝倉氏的出身地越前国。 然後頼純又在外祖父家越前守護朝倉家的支持下,為了奪回叔父佔據的家督位和守護職而活動,雖然沒有一舉得勝,畢竟以跟叔父表面上的和解,得歸美濃。 道三,是他隱退入道之後的號,曾用名長井規秀、斎藤利政,後改名秀龍。 一說是他在父親一代就已經是土岐家臣,即永正年間頼藝一派的家臣長井新左衛門尉之子。 他先是借土岐家的內鬥,積極支持土岐頼藝一派,當頼藝坐上守護之座後,又明裏暗裏剷除多位国中有力人物(包括他最終的苗字來源,守護代斎藤家)而逐步提昇地位,名字也隨之一改再改。 頼藝父子逃往南邊的尾張国,得到該州權臣織田信秀的收容,還說得信秀出兵美濃。 原本就一心打倒叔叔頼藝的土岐頼純也乘機以越前朝倉家(家督時為孝景)之兵打回來。 道三為了與朝倉家停戰,同意扶持土岐頼純為守護,還嫁女兒給頼純。 但年青的頼純坐上守護座未久又暴死。 於是道三成為實際的美濃国主。 確實的是,道三掌權後屢屢用莫須有的嚴重罪名加酷刑處死數位国中門閥和老臣。 對此學界傾向於否定,一是說明義龍出生的具體日月的材料時隔已久(江戸時代的)不可盡信,二是因為一份道三和近江大名六角義賢(承禎)的通信記錄顯示,道三究竟承認義龍是他親兒子的。 但道三確有打算改立繼室小見之方(明智氏)所生的孫四郎,最終在家臣們普遍堅決反對廢長立幼的壓力下還是傳家督之位給了28歲的義龍。 某種程度上也是美濃国人對道三的暴政和苛酷人事的反彈。 美濃由此重新陷入了動盪。 而明智家因為是道三妻子小見之方的娘家,站在斎藤家新一代的對立面,也成為鬥爭的失敗者。 光秀的叔叔明智城主明智光安敗死,而光秀帶領一族逃離了美濃,來到相鄰的越前国。 這之後,幾乎十年的時間,光秀的經歷,從史學方法論而言成了一片空白,因為有提及的都不是可以輕易採信的材料。 即使是這些稗官野史之間也存在著相當大的出入。 而《明智軍記》等各路軍記物語裏的說法給今人的感覺,毫不誇張地講,可以想見20世紀末以後誕生的各種養成RPG電子遊戲虛擬的戦国世界,簡直就是以此類故事建造的: 光秀以浪人之身,遊歷諸国,遍訪強者名人,學習各種技藝以提昇能力,求聞達於諸侯。 明智光秀之所以投奔越前,一是朝倉氏跟美濃土岐氏、原守護代斎藤氏都有親戚關係,也曾經參與到美濃国內的爭鬥中,但這層關係對光秀幫助應該很有限,更關鍵的估計還是因為這裏剛剛發生朝倉家跟加賀国一向宗信眾武裝的戰爭。 對於浪士,有仗可打的地方才有機會出頭。 據說就是那些與鉄砲相關的技能和主張,光秀得到了朝倉氏家督朝倉義景的任用。 越前東邊的加賀国,在戦国時代的歴史尤為特殊。 以寺院為領導單位的核心和象徵,由信仰該宗的土豪和各級下層武士們為實際執行者,甚至運作著勝利之後的各種政府功能和社會管理。 並且相信,他們獲得了某種程度的成功:驕奢淫逸又巧取豪奪的統治者被移除,意味著苛雜減免,有利於占社會中大多數的農村居民的境遇改善。 從某個角度計算這應該是真實的,但其中也存在另一面。 大聖寺也好,金澤御坊也罷,甚至大坂的総本山本願寺也如是,日本的寺社、門跡作為貴族後裔主持的,自古以來得到京都朝廷乃至幕府都承認其權利的土地所有者,他們的僧兵及其信眾武裝,都是維護其產權和相關利益的工具。 更何況,因為對佛法的理解有不同,浄土真宗偏偏又是以認為僧侶也能成家生子而著稱的,蛙之子是蛙,和尚的兒子還是和尚,然後僧職也根據血緣關係來傳承了。 某種意義上這成了一種特殊的封建政治集團。 於是也不怪乎,越前和加賀的這場戰爭以大坂総本山本願寺和朝倉家的聯姻和睦,朝倉義景之女與本願寺法主顕如(光佐)的長子教如(光寿)定親,暫告一段落。 光秀的軍事才能開始顯現,就是在越前與加賀一向宗的戰爭中。 然而,以上《明智軍記》裏的這些看似能夠解釋光秀的軍事素養和經驗從何而來的傳說,最大的問題在於,朝倉家與加賀一向宗宣告和解,斎藤父子之間的生死決戰(也就是光秀逃離美濃的起因),都發生在弘治二年(1556年)四月。 但是討論這些一向宗一揆或寺社武裝是什麼性質,並不是一番無關光秀的贅言。 首先,光秀以後還要在別的地方跟他們打交道。 朝倉家和北陸道的一向一揆也沒有實現從此和睦相處。 而作為親歷者、見證者的光秀,一定有他的思考和結論。 事實上,他的想法成為了後世或許無法知道但最想知道的東西。 因為他最終的命運,乃至圍繞著他的爭議,也都跟這些社會中的衝突有著直接的關係。 弘治之際(1555—8年)的光秀應該沒有什麼太大的戰功得到朝倉義景賞識,也難說對朝倉義景懷有多少的崇敬和感恩。 於是才更能解釋後來的事情,因為他離開了越前。 至於是什麼時候離開的,則也成了難解之謎。 此外,伊達氏的主城遷往大崎地區是天正十八年(1591年),也就是30年後。 而毛利家建築広島城也是始於天正十七年,再過了兩三年之後才遷入。 然而,大概正是跌宕的經歷,使得光秀越發善感,或許還多愁。 《太平記》中土岐氏在鎌倉末期的祖先土岐頼貞,正是一位射箭神準,又能作歌的武士。 事實上光秀成為這個時期裏文采最好的武士之一,不僅見於當世文化名人的認可,他的作品的原件也留傳至今。 從中我們可以一覽光秀的書法。 明智光秀和歌短冊《見花》:盛開的花啊,朵朵開在樹梢上;勁風吹呀吹,吹向雪山——光秀。 旧侯爵蜂須賀家藏。 或許正因為光秀擁有的這種文人氣質,當另一個在傳統文藝方面頗有造詣的武士與他結緣時,他的命運走向了另一次轉折。 細川藤孝來自京都,是足利将軍家的直屬家臣。 不過,也正是這些紛亂讓他們連帶整個幕府走向衰弱。 自天文年間(1530年代)的細川晴元以後,這個家族被其家臣三好氏架空,将軍家也因此更無實權。 而光秀和藤孝相遇的時間和地點,也是說法不一。 兩人相識後一見如故。 光秀還經藤孝介紹加入了将軍足利義輝的家臣団。 此說如今已經得不到相信了。 但說光秀曾經侍奉不止一個将軍,卻也是有古說的。 在有的版本裏,甚至說光秀還一度只是藤孝的部下。 如此論資排輩的幕府中,若光秀以明智家甚至說土岐家出身來投靠将軍,卻只到這個級別,甚至還在細川藤孝之下,也委實可憐了。 《細川家記》的說法則是永禄八年後,藤孝來到越前,向朝倉義景求援,同時認識了負責接待他的光秀。 藤孝此來之所為,則是他的主家、此時也在顛沛流離中的足利義秋。 足利義秋是永禄八年(1565年)遇害的幕府将軍足利義輝的胞弟,謀求接任将軍職。 然而回歸京都後繼續試圖重振幕府權威的義輝,卻在實際統治著畿内諸国的三好家的家督三好義継及其家中實權人物三好長逸、三好宗渭、岩成友通、松永久秀發動的政変中敗死。 朝倉義景雖然表面上歡迎義秋的到來,好吃好喝招待著,但談到出兵京都時,卻又顧左右而言他。 崇尚京都文化而聞名的朝倉家,似乎只是把義秋這些從畿内來的人當作秘辛趣聞的提供者或者風花雪月的玩伴。 從政治上而言,這時候朝倉家也再次面臨著越前領內和加賀国的一向一揆的壓力。 至於光秀,據說他很不滿義景對義秋的消極態度。 而藤孝的積極奔走,與之恰好形成鮮明對比。 太多的細節難以盡信,但除去各種與重大事件的時間明顯不對的成分,光秀一定在這段時間裏努力提高自己作為一個武士的能力,否則他也不可能先後成為兩位(或者該說三位)大人物都是幾乎一次面試就決定錄用的人才。 就是在這段光秀事蹟不詳的將近十年的時間裡,即將扭轉格局的因素在本州中南部一個當時還不甚起眼的地方悄然發生,那裡就是光秀的故鄉美濃南邊的尾張国。 尾張會成為影響整個格局的策源地,在歷史上是空前的,令時人意外,後世看來也有些偶然。 四百年前源義朝,即鎌倉幕府初代将軍源頼朝之父,在這裏敗死,但總算不得一處出將相的地方。 尾張的織田家和越前的朝倉家一樣,也發源於越前国,本都是斯波氏在越前的臣下,因為応永年間(15世紀初)主家斯波義重兼任了尾張国守護,才遷入尾張為守護代。 織田家也隨之分成兩大系、(至少)三大派相互敵對了30多載。 甚至如愛知郡那古野城主織田信秀這樣,最終影響力遍及尾張南部和東部,較為得勢一時的人物,卻也先後敗給斎藤道三(天文十三,1543年)和今川義元(天文十七,1548年)的,看起來似乎尾張的武士和軍隊都談不上是當世的強兵智將。 直到一個人出現完全刷掉這些舊印象,那就是織田信秀的嫡子織田信長。 他的崛起宛如一聲驚雷然後刮起的一場風暴,席捲日本中部乃至可以說全國。 而這個信長,永禄之前的光秀就應該不陌生。 完整内容见blog.

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明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト

明智 光秀 越前

明智光綱 あけち-みつつな の兄弟には、 がおり、斎藤道三の正室になっています。 この明智光綱の別名が明智光国、明智光隆ともされますが、1535年に討死したともされます。 この時、明智光秀はまだ子供だったと言われており、隠居していた祖父・ の命にて、 あけち-みつやす が明智城に入って後見したともされます。 その明智光安 は、斎藤道三の子・ と対立し、1556年に明智城が陥落し討死しました。 このとき、明智光安の子とされる は、明智光秀と共に城から脱出したと言われていますが、不明瞭な点が多いです。 お牧の方 は、通説では明智光秀の母親であり、若狭・武田氏の娘、 の娘とも伝わります。 明智光秀が老母を人質として敵に出と言う話が江戸時代の軍記などで記載されていますが、事実だったかどうかは不明と言ったところです。 なお、お牧の方は、母親ではなく、明智光秀の最初の正室であるとする説もあります。 千草 明智光綱の弟である山岸光信(進士光信)の娘・千草がいます。 明智光秀は、この千草に庶子を産ませたとする説があります。 なお、千草とは結婚しておらず、側室にもしていませんので、未婚のまま子を産んだと言う説もあります。 ただし、1546年、明智光秀 明智十兵衛光秀 が18歳のときに、千草 山岸光信の娘、16歳 と結婚して最初の妻にしましたが、のち死別したとする場合もあります。 子の山岸光重は、母方の山岸家の養子となり、のち明智家の家臣に加わり、明智光重と称したともされます。 もちろん、諸説ある話ですので、どれが間違えで、どれが正しいとも言えません。 妻木煕子 つまき-ひろこ と、明智煕子 あけち-ひろこ とも言いますが、美濃・妻木城主とされる妻木範煕 妻木勘解由左衛門範煕 の娘と考えられます。 一説によると1530年頃に生まれており、 の娘とする説もあります。 有名な話としては、妻木煕子が明智光秀に嫁ぐ直前「疱瘡」 ほうそう=天然痘 にかかり、左の頬 ほほ に、ぶつぶつの跡が残ってしまったと言います。 そのため、妻木煕子は、嫁ぐのを辞退したとも、父が別の娘をと申し出たともされます。 一説では、煕子に姿が似ていた妹・芳子 よしこ を代わりに嫁がせようとしたとも・・。 しかし、明智光秀は、煕子が芳子に知らない間に変わっていたのを見抜いたとも、そんな容姿の事は気にしなかったともされます。 容姿は年を取ったり病気をすれば変わるが、不変なのは心の美しさであるとして、いずれにせよ妻木煕子と結婚しました。 1556年に、明智城が斎藤義龍によって攻められた際には、身籠っていた明智煕子を背負って、明智光秀は越前の のもとまで逃れたとされます。 越前で 主の に仕えたとも客将になったともされますが、明智の屋敷は少し離れた西側にあります。 要するに、優遇されていたとは言えず、生活は苦しかったと言います。 ある日、朝倉家にて連歌会の催しを明智光秀が行う事になり、酒宴の出費に苦労している明智光秀を見て、明智煕子は、自分の黒髪を売ってお金を用意したと伝わります。 当時の女性にとって、長い髪の毛は、身分の高い女性としての証でもあり「髪は女の命」ともされましたが、そのようなプライドにこだわらず、夫を支えた良妻でした。 そのため、二人の夫婦仲はとても良かったと言われています。 1563年には、3女 4娘 ・ のちの が越前にて生まれました。 1571年、 のあと、明智光秀は宇佐山城主となり、近江・ が築城されると、明智煕子も転居したことでしょう。 1575年、明智光秀は、惟任の姓と日向守の官位を から賜わります。 しかし、 との の戦いで、おもいっきり大敗した際に、明智光秀はそれまでの疲れが出て発病します。 このとき、明智光秀は京の医師・曲直瀬道三正盛 まなせどうさんまさもり の屋敷にて療養しました。 死の境を彷徨ったとも言われていますが、明智煕子の献身的な看病にて救われたとされます。 その疲れのせいか、明智煕子は病気になったようで、明智光秀が平癒祈祷を にお願いしています。 また、吉田兼見が明智煕子の病気のお見舞いで、 の宿所も訪問した記録が残っています。 しかし、1576年11月7日に、明智煕子は死去しました。 享年46 享年36、享年42 ともされます。 戒名は福月真祐大姉。 墓所は、 からほど近い明智家の菩提寺「 」にあります。 それら妻木煕子に関して詳しくは下記でも解説させて頂いております。 本当に申し訳ないのですが、色々な説があります。 伏屋姫は、服部鳥羽守の長女で、美人のほまれ高く16歳で明智光秀に嫁ぎました。 服部鳥羽守は、鳥羽城主・服部保益と考えられます。 しかし、伏屋姫は疱瘡にかかって亡くなったため、妻木煕子が後妻 継室 として入ったする場合もあります。 別の話では、伏屋姫が嫁ぐ直前に疱瘡にかかり、服部鳥羽守は次女を代わりに嫁がせようとしたが、明智光秀は疱瘡にかかって容姿が醜くなった伏屋姫と結婚したともあります。 この疱瘡の話は、明智光秀の正室とされる上記の妻木煕子 明智煕子 の話でも同じく出てきますので、話が伝承されるうちに、混同したようですので、今となっては、どっちが最初の話なのか、確認は困難です。 また、伏屋姫は明智煕子が亡くなったあとに迎えた後妻 継室 だとする説もあり、1582年1月に坂本城にて内治麻呂を出生したともあります。 そして、 のあと、 が伊賀越えをした際には、服部鳥羽守が命を狙ったとも言います。 色々な話がありすぎて、もはや解明は不明といったところです。 ただ、継室にする場合には、そのとき、すでに明智光秀は織田家の中でも相当の地位ですので、伏屋姫を迎えたとした場合には、妻木煕子の前と考えるのが妥当なような気がいたします。 側室・喜多村保光の娘 明智光秀は側室を持たなかったとするのが一般的ですが、逆に側室は2人いたとする説もあります。 その一人が、喜多村保光の娘ですが、この女性は、上記でご紹介した伏屋姫であるともされます。 喜多村保光の娘は、1582年に明智光秀の3男を産んだともされます。 その子が、上記でもご紹介した内治麻呂です。 この幼子は坂本城から脱出して、母の実家である喜多村家に逃れたともあります。 そして、成長すると喜多村保之と称しました。 1635年に妙心寺の住職・玄琳が「明智系図」を喜多村保之に送り、その系図が現代に伝わると言う事になります。 この喜多村家は、服部一族とする説もありますので、そのように考えますと、伏屋姫の服部家=喜多村家と言う可能性もあります。 側室・原仙仁の娘 原仙仁の娘ですが、肥後・細川家 の嫁ぎ先 にゆかりある安国寺の「土岐系図」に掲載されています。 父・原仙仁は公家とされますが、そもそも、公家に原氏は存在していませんので、違った名前があった可能性もあり、どのような人物なのか全く不明です。 また、原仙仁の6男は浅野内蔵助、すなわち で有名な大石良雄 の祖父というので、信憑性の問題はありそうです。 なお、原仙仁の娘は1女を儲けたようで、その娘は、川勝丹波守の妻になっています。 この川勝丹波守ですが、室町幕府の奉公衆で、織田家に従っていた川勝秀氏の子・川勝広綱の可能性があります。 ただし、川勝広綱の正室は織田家の末流にあたる藤掛永勝の娘ですのです。 よって、川勝丹波守の妻になった明智光秀の娘に関しても資料不足でよくわかりません。 この原仙仁の娘の姉が、美濃・佐藤一族の恩田氏に嫁いでおり、その子が「 」として明智光秀の与力を務めていますが、 の変にて討死しました。 御ツマキ 御ツマキ おつまき は、この女性も諸説ありますが、下記の通りです。 明智光秀の実の妹 妻木煕子の妹 いずれにせよ、織田信長の近くにいるようになった女性 女中?側室? です。 1577年11月には、惟任妹御ツマ木が、明智光秀と共に東大寺と織田家の調停を行いました。 1580年5月、上洛した織田信長に、山科言経が進物を献上した際、その近所女房衆の「ツマキ」らにも帯を献上したとあります。 ここで女房衆と記載されていることから、ご婦人、すなわち側室であった可能性が指摘されています。 また、1580年9月、吉田兼見の日記「兼見卿記」には、在京していた「惟任姉妻木」に酒と食物を持参したとあります。 この「姉」と言うのは恐らくは、妹の勘違い・誤記と考えられますが「妻木」と明記されていることから、御ツマキは「 」、すなわち妻木煕子の妹である可能性があります。 この御ツマキを通じて、明智光秀は、織田信長の言動を入手したり、時には織田信長を説得するようなことも、依頼していたとも考えられます。 しかし、1581年8月、奈良・興福寺の多聞院日記に「去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也」とあります。 惟任ノ妹ノ御ツマキ死了は、御ツマキが亡くなったことを示しています。 その翌年、本能寺の変となりました。 御ツマキの死が、織田信長と明智光秀の関係に影響を与えた可能性も無きにしも非ずです。 なお、明智光秀自身は、土岐明智氏ではなく土岐妻木氏が出自で、明智氏の家督を継ぐことになったとする説もあります。 そのように考えますと、御ツマキは、明智光秀の実の妹とも考えられるのです。 明智光秀の子供 明智軍記 3男4女 長女:明智光春の妻 の正室から、明智秀満の正室 次女: の妻 三女: の妻(細川ガラシャ) 四女: の妻 長男:明智光慶 次男:明智光泰 明智十次郎 三男:明智乙寿丸 鈴木叢書 そうしょ の中にある明智系図 側室の子も含めると6男7女 長女 養女 :菅沼定盈の妻 三宅長閑の娘) 次女 養女 :桜井家次の妻 三宅長閑の娘) 三女: の妻 四女:細川忠興の妻(細川ガラシャ) 五女: の妻 六女:川勝丹波守の妻 長男:玄琳 妙心寺の僧侶 次男:安古丸 で討死 三男:不立 天龍寺の僧侶 七女:井戸三十郎の妻 四男:十内 坂本城落城のときに自刃 五男:自然 坂本城落城のときに自刃 六男:喜多村保之 江戸町年寄 不明:定頼 上記の2つの史料にて一致する子供は下記の通りです。 織田信澄の妻 細川忠興の妻 織田信澄の妻 明智光秀の娘 の名前は不詳ですが、嫁いだのは間違いありません。 なお、細川忠興の妻は皆様もよくご存じの細川ガラシャ 明智玉 と言う事になります。 細川ガラシャに関しては下記にて詳しく記載させて頂いております。 明智光慶 明智光慶(あけち みつよし)は明智十五郎 明智十兵衛 とも言い、妻木煕子が産んだ長男とされます。 が築城された頃から、史書に名前が見られますが、初陣した形跡はないため、年齢は低かったものと推測されます。 本能寺の変の直前に、愛宕山で開催された威徳院連歌で結句を詠んでいますので、13歳前後であったとは考えられます。 この明智光慶もたくさんの説があります。 本能寺の変のときには、丹波・ にいたとも、坂本城にいたともされます。 明智光秀が に味方するように書いた手紙には「近畿を平定した後は十五郎に天下を譲り、自分は隠居する」と記されてもいます。 明智光秀が襲われて命を落とすと、明智光慶は自刃したとも、坂本城から脱出したあと自害したとも、生き延びて妙心寺 京都市右京区花園 の住職・玄琳になったとも色々な話があります。 千葉県市原市不入斗 いりやまず には「明智光秀側室の墓」と伝わる墓石があります。 この側室と言うのは「ふさの方」と言う名前で、明智十五郎と共に、不入斗まで逃れて生涯を送ったとも推測されています。 齋藤利満・ の親子が同行したともあり、墓には土岐重五郎と言う名が刻まれているそうです。 なお、成人した明智十五郎は、つね子と言う女性を妻に迎えたようです。 桔梗の家紋とともに、側室・重五郎・つね子 ツ子 の3名の名がひとつの墓石に刻まれているそうです。 千葉と言えば、万喜城主・土岐為頼 万喜頼春 がいますので、同じ土岐氏と言う事で、頼ったのかと思いました。 しかし、南北朝で戦功があった土岐頼貞の子・土岐頼重 明智頼重 のときの所領のひとつに武蔵国荏原郡大井郷不入斗村があります。 そのため、明智一族の親戚が不入斗 いりやまず にいたと考えるのが自然でしょうか? 明智自然 明智光慶と共に存在が確実視されている明智自然 あけち-じねん は、2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場しました。 明智軍記では明智光秀の次男・明智十次郎光泰の幼名が自然だと記されているようです。 鈴木叢書や明智系図では、坂本城落城の際に自刃したとあります。 また、別の説では、明智光泰 あけち-みつやす は、一時は、大和・ 主である の養子・筒井定頼 自然丸 になったともあります。 ただし、その説の場合には、筒井定次が織田信長の娘を正室に迎えて、本家の跡目となったため、明智自然は明智家に戻っていたようです。

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