ヴィラン歌詞解釈。 ヴィランを解釈してみた(後編)|シノア|note

『ジョーカー』感想と考察。アメコミ映画史を塗り替え続ける名ヴィランの魅力

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出典:jump-sokuhou. hatenadiary. com 火傷のことには触れられていませんが、個性を使い続けることのリスクが記載されています。 もしかすると、炎を長時間断続的に使い続けたことによるものかもしれません。 また、個性は身体機能の一つのため「限度」があり、轟の個性にも限度があると爆豪は語っています。 さらに個性の限度に関してデクはより具体的に話しています。 つまり轟の場合は冷気に耐えられる限度があるということです。 しかしこの耐えられる限度は左側の熱で溶かせば解決できると。 このことから、轟は過去に炎を長時間断続的に使い、自身の耐えられる限度を超えてしまった。 当時は右側の氷の個性を使いこなせていなかったなど、何らかの理由で炎を消すことができなかった。 または間に合わなかったのではと予想します。 そして荼毘にも大きな傷があります。 轟家の血 轟焦凍とヴィラン連合の荼毘が兄弟だとしたら、二人の関係というより、轟家と荼毘の関係の方が重要になりそうです。 おそらく轟家の血が深く関わっているのではないでしょうか。 轟の回想シーンで子供の轟焦凍が母親に、お母さんをいじめるお父さんのようになりたくないと話しています。 その言葉に対して母親は強く想う「将来(ビジョン)」があるなら 血に囚われる必要はないと伝えています。 そしてなりたい自分になっていいと。 しかし、その後母親は限界を迎えます。 そして育ててはいけないと。 これは轟焦凍の回想シーンです。 子供の轟焦凍は自分のことを言われていると思ったのでしょうが、この母親のセリフは本当に轟のことなのでしょうか? さらに母親のセリフで登場する「あの人に似てくる」の「あの人」とは、本当にエンデヴァーのことなのでしょうか。 個人的にはエンデヴァーがそんなに悪い人間に思えないんですよね。 つまり、母親が話した「あの人」とは、エンデヴァーではなく、祖父や先祖など轟家代々の血のことで、「育てちゃダメ」は轟焦凍ではなく兄達のことではないでしょうか。 代々轟家に生まれたものは、炎の力を使った運命が決められていて、「将来(ビジョン)」を持つことは許されない。 もしくは持つこともない。 だけど轟焦凍はオールマイトを見てヒーローに憧れ、強く想う「将来(ビジョン)」を持ったから、血に囚われることなく、なりたい自分になっていいと伝えられた。 そしてエンデヴァーはこの「轟家の血」を壊したい、血を断ちたくて最高傑作の轟焦凍を作った。 それがエンデヴァーの野望だったらカッコいいなとw エンデヴァーはオールマイトを超えることを目標とし、轟焦凍にもオールマイトを超える義務があると話しています。 これは轟家の血を絶やすためには、ヒーローとしてNo. 1になることが条件なのか、オールマイト以上の力を手に入れる必要があるのか。 轟焦凍の回想シーンで登場したこの描写。 「お前とは違う世界」とは、轟焦凍に兄達と同じ道、轟家の血に囚われた生き方をして欲しくない、との願いからだったのではと。 一番右のコマにいる祖母らしき人物が黒幕では・・・。 ステインの思想 荼毘はステインの思想に心酔しています。 出典:sokkoheroaca. blog. fc2. com また、組織に大義があるのかも気にしていました。 もし荼毘が轟家の人間なら、思想も大義もなく「轟家の血」というだけで、運命が決まっていることへの反発だったら、荼毘がステインの思想に心酔する気持ちが納得できます。 そして現在の通り名「荼毘」 意味は火葬。 もしかすると荼毘も轟家の血を火葬するのが目的で、この通り名を使っているのかもしれません。 轟焦凍と対面した時のセリフ 「哀しいなあ」 轟家の血を絶えさせる氷の個性がありながら、それを活かせていない轟焦凍への気持ちを伝えたのではと予想します。 悪のカリスマ「ステイン」に関してはこちらの記事でまとめています。

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BLUE ENCOUNT 『ポラリス』歌詞の意味を考察・解釈

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カテゴリ• 歌詞考察の前に 人気ロックバンド BLUE ENCOUNTより 『ポラリス』のMVが2019年11月15日にネット上で公開されました。 同年11月20日にシングルリリースされました。 動画再生回数は 公開から2週間で70万を超える人気振りを見せています。 同曲はアニメ 『僕のヒーローアカデミア』第4期オープニングテーマとなっています。 上記の点を指し示すフレーズがたくさん散りばめられていました。 動画コメント欄でもワンフレーズごとに「ここはあのシーンなのでは?」「これはあの人の台詞」という予想で盛り上がっていましたね。 しかしネタバレ騒動があったのも事実でありファンの間では残念な空気が流れました。 よって今回はとてつもなくやんわりと考察しネタバレ回避を心がけたいと思います(あえてアニメ要素薄めますのでご承知ください) 今作への思い入れをボーカル&ギターの 田邊駿一さんが次のように語っていました。 【田邊駿一(Vo・G) コメント】 たとえ自分の命がすり減ろうとも大切な人の笑顔を守りたい。 この気持ちが芽生えた瞬間に人は誰かのヒーローになるんだと思います。 そんなヒーローたちに向けた応援歌が作れました。 バンド史上最も儚く、血の通った曲になったと思います。 アニメの新たなストーリーが始まるにあたり、あなたと共に心を燃やせることを願って。 rockinonより 上記コメントから誰でも自己犠牲の精神を抱いた時にヒーローになれることを伝える歌となっているんですね。 バンド史上最も儚く、血の通ったという力強い表現にも期待が高まります。 今作MVの ロケ地は北海道の室蘭で撮影されました。 断崖絶壁や吹き荒れる強風がダイナミックな印象を視聴者に与えます。 メンバーの赤で統一された衣装はヒーローに滾る闘志や熱意を描写しているように筆者は感じました(別の意味については後でお話しします) 曲調はハイテンポでテクニカルなロックチューンとなっています。 イントロでは大人しく奏でられたギターリフは、僅か数十秒後に暴れ出します。 何かを叩き割るようなアグレッシブなメロディーがとても痺れました。 それではさっそく気になる歌詞の考察を始めていくことにしましょう。 タイトル『ポラリス』とは タイトル 『ポラリス』とは、ラテン語で「極の」を意味する言葉で、近世になってこの星が天の北極に最も近くなったことから名付けられました。 現在では 「北極星」として広く認知されています。 美しい光を放つ星であり観察者の多くを魅了してきた星の1つでしょう。 メンバーの赤で統一された衣装は北極星もイメージしているのかもしれません。 サッポロビールのロゴになっている赤い星も北極星を示しています。 ロケ地である北海道と北極星は切っても切れない関係になっており、 指標や店など色々なところで関係しています。 北極星は旅人を導く目印にもなってきました。 上記の点を踏まえてBLUE ENCOUNTメンバーのインタビューを見て見ましょう。 田邊:「もっと光を」という曲を書いたときは、その光が何なのかよく分からなかったんですけど、僕の中で「もっと光を」を越える曲ができたからこそ、あの光は「ポラリス」という星だったんだよって、今回言えたかなと思います。 高村:「ポラリス」は、掘り下げようと思えばどれだけでも掘り下げられる曲だと思うんですよ。 セットリストの大事な部分に置いて、めちゃくちゃ刺さる曲にもなるだろうし、自分たちの演奏しだいで全然響き方が違う曲になる。 わりとストレートな楽曲ではあるけど、かなりやり込まないと、本当の意味では伝わらない気がします。 EMTG MUSICより 上記コメントでもポラリスを 「光」と 「指標」に関連付けていることがわかりました。 たくさんの意味合いがあるようですが今回の考察では上記の2つを念頭に置きながら執筆していきたいと思います。 『ポラリス』歌詞の意味 約束という指標 田邊:そうですね。 原動力はやっぱり、生きがいを感じるかどうかだと思うので。 今でも寝る間を惜しんでセットリストを考えたり、本当にしんどいんですけど、それでもステージに立って歌うと、気持ちいいー! 今日来て良かったあー! という瞬間があるから、俺たちはやり続けられるのかなって思います。 その生きがいを誰かが受け取ったときに、愛だの正義だの言って欲しいんですよね。 EMTG MUSICより ステージに立ってファンに良いものすべてを捧げるために自身のすべてを犠牲にする彼らの姿勢そのものをフレーズに込めたのだとも解釈できました。 作品と向き合う前に、彼らが全力でみんなのヒーローになろうとしていたのを知ると、感動しますね。 すべてを良いものに 傷跡はかくさないで 絶望も武器にして 生きると決めたんだよ この部分はたいへん前向きな考え方が示されています。 主人公の男性が負った 「傷跡」これには 心の傷跡も含まれるのでしょう。 続く部分に 「絶望」と続いているからです。 普通であれば隠しておきたいそのような感情も 「武器」にしていくと彼は決めていました。 もっと具体的に言えば積極的な見方をするということです。 「これ以上、酷い状況はない。 なら今後はこれ以上の酷いことは起こらない」 というような考え方なのでしょう。 アニメの主人公たちも「絶望的」な状況に陥ります。 それはMVの崖っぷちに立たされているような感覚だったのでしょう。 それでも約束を思い出し、ヒーローとして生きることを貫いていきました。 悲嘆、乗り越えて届く思い 精一杯この涙かきわけて 君に全てをあげるから お願いどうか消えないでくれ 前述から主人公が前向きな考え方ができるとお話ししていました。 それでも彼は 悲しみ落胆し時に涙を流すようです。 「精一杯」という言葉が 悲しみを乗り越える大変さを伝えています。 しかし彼は悲しみを乗り越えた先に大切な人が待っており、笑顔にできる力を自分が持っていることを確信しています。 アニメ主人公たちも「守る」と決めた人たちのため、涙を飲んで戦い続けます。 守られる側も辛抱が求められ、苦境に耐え続けなければなりません。 ですから自分たちが来るまで 「消えないでくれ」つまり 心折れないで欲しいと願っています。 希望という光 消えそうな希望 ヒカリ だとしても行け ラストでは主人公の心情について述べられています。 彼は 「大切な人を守れる」という希望を抱いています。 しかし 「消えそうな」という言葉が付随しており 不安定さを暗示しています。 主人公を含め私たちは いつでも順風満帆な人生ではないことを知っています。 それでも彼は 「行け」と自身を急き立て前進しています。 北極星が輝きを決して失わないように、彼もまた自身に抱いた 希望の光を失いません。 周囲の諦めさせようとする行動や言動は彼には届かないでしょう。 彼には尊く気高い覚悟と約束があるからです。 大切な人を守る。 それは夜空に輝く北極星のように彼の 人生を照らす指標となっているのです。。 まとめ いかがだったでしょうか。 今作の歌詞が非常にストレート&スマートであると感じました。 歌詞冒頭で主人公の目的「大切な人を守る」という点がはっきり明記されていました。 しかし どうやって守るのか、その守る過程での困難や苦悩について具体的に細々と綴られたりはしていません。 この点から筆者は ヒーローは細かいことを言わないし気にしない確固とした存在なのだと実感しました。 そういう存在になりたいと素直に思ってしまったこと、そして誰でもなれる可能性があることを示唆している歌詞だと感じました。 非情にホットであり血の通った作品に仕上がっていると感じました。 MVを見ながらどこの「岬」なのかを探すのも楽しそうですね。 BLUE ENCOUNTの今後の活動と次回作に期待し注目していきたいと思います。 熱意ある素敵な作品をありがとうございました。

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BLUE ENCOUNT 『ポラリス』歌詞の意味を考察・解釈

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もう『ダークナイト』は超えられない。 アメコミ映画は、ジャンルとして完成した。 バットマンが好きだからこそ、ジョーカー単独映画は正直不安…。 こう思っていた。 が、映画『ジョーカー』は、 このハードルをあっさり、思いっきり、大胆に超えていった。 奇しくも、同じバットマン作品、しかも同じキャラクターを描く作品がアメコミ映画の歴史を再び塗り替えてしまった。 この感想・考察記事を一言でまとめるなら、 『ジョーカー』は、リアリティ 限りなく現実に近い虚構 を超え、リアル 現実 の域に達した。 こう断言する。 ジョーカーをまったく知らない人に、例えば「この映画、1974年にアメリカで起こった実話だよ。 」って言ったら、信じる人はそこそこいると思う。 題材によっては、もはや アメコミ映画は現実を描けると証明した作品。 この、フィクションとノンフィクションの境が曖昧になる感覚、たまらなくゾクゾクさせられる。 生粋のバットマン好き・ノーラン好きが、公開初日の朝一番に鑑賞してド肝を抜かれた映画『 ジョーカー』について、感想と考察をつらつら述べさせていただきます。 あらすじ ゴッサム・シティは、腐敗しきっていた。 街はゴミの山で埋め尽くされ、貧富の差は拡大し、生活困窮者は暴力に手を染めていた。 ゴッサムの善良な市民の一人、 アーサー・フレック ホアキン・フェニックス は、ピエロ派遣会社で道化師を演じながらコメディアンになることを夢見ていた。 彼は脳に障害があり、緊張すると笑いが起こる発作を持っていた。 病弱な母 ペニー フランセス・コンロイ を介護しながら二人で暮らすアーサーだったが、ソーシャルワーカーからカウンセリング終了を告げられ、仲間に裏切られ会社をクビになる。 その日、地下鉄の車内で富裕層たちから暴力を受けたアーサーは、持っていた銃で衝動的に彼らを射殺する。 公衆トイレに逃げ込んだアーサーが感じた感情は、自責の念ではなく、 ある種の解放感だった。 そんな彼に、一本の電話がかかってくる。 アーサーが憧れているコメディアン、 マレー・フランクリン ロバート・デ・ニーロ の番組への出演依頼だった。 アーサーは、この出演を引き受ける。 開演前の楽屋で、アーサーはマレーに対して一つお願いをする。 純粋だったアーサーが、なぜ「ジョーカー」になってしまうのか? この映画では、ジョーカーの物語ではなく、 ジョーカー誕生までの物語が描かれる。 マレー・フランクリン 演:ロバート・デ・ニーロ 人気バラエティ番組「マレー・フランクリン・ショー」の司会者。 アーサーが憧れている人物。 彼に対するアーサーの 憧れは、ジョーカーにとっての 憎悪に変わる。 ペニー・フレック 演:フランセス・コンロイ アーサーの母親。 …と思われていたが、• ペニーの言う「ウェインの隠し子」は、ただの妄想だった• 母親の交際相手から受けた虐待により、脳に障害が残った• ペニーとアーサーに血縁関係はなく、養子だった などなど事実が次々と発覚し、アーサーを苦しめてしまう。 トーマス・ウェイン 演:ブレット・カレン ゴッサム・シティで一番の富豪。 部下を殺した犯人 アーサー を「臆病者。 」と揶揄したことから、生活困窮者の抗議活動が活発化する。 なるほど!! と思える理由があります。 『ジョーカー』には、アメコミ映画特有の「型」が無いのです。 アメコミ映画の「型」、すなわち「勧善懲悪」。 厳密に言うとアメコミヒーロー映画ですが、これまでのアメコミ映画は 「勧善懲悪」という型は絶対に破られませんでした。 『ダークナイト』も、最後の最後にバットマンが闇の騎士となることで、結果的にヒーローの勝ち。 『インフィニティ・ウォー』はサノスの勝ちですが、続く『エンドゲーム』との2部構成と考えると、あれもやっぱり勧善懲悪の枠を超えていませんね。 では、『ジョーカー』はどうか? この映画、 善もいなければ、悪もいません。 絶対正義が絶対悪を倒してハッピー・エンドという、 あの『ダークナイト』でさえ破らなかったお約束を、1ミリたりとも守ってません。 まさに「ルール無し、なんでもあり」、トランプのジョーカーそのもの。 このアメコミ映画の絶対条件に関して、ホアキン・フェニックスはこう語ります。 ホアキン・フェニックスが語る、アメコミ映画の善と悪。 コミックス映画の「型」が、観客と作品を隔てていると思う。 僕が多くの アメコミ映画の 役を断ってきた理由の一つは、 現実を歪めて映画にしていると感じたから。 つまり、「 人生は 勧善懲悪に収められるほど 単純じゃない」ということ。 もちろん、フィクションだからこそヒーローの揺るぎない信念に憧れて、応援したくなる気持ちも分かります。 私も『エンドゲーム』ではめちゃくちゃ泣かされましたから。。 でも、『ジョーカー』は違う。 作品と観客を隔てる型 勧善懲悪 が無くて、• 自分のこと• 自分の身近なこと• 自分の世界のこと のように思えてしまう映画なんです。 リアリティ 現実に限りなく近い虚構 じゃなく、リアル 現実 を、アメコミ映画でやってのけた。 ここが、『ジョーカー』が「アメコミ映画の歴史を変えた。 」と言われる理由です。 そして観客である私は、 ジョーカーは、間違いなく善ではない。 でも、映画開始直後のアーサーは、確実に善だった。 じゃあ、ジョーカーになってから悪になった?アーサーがジョーカーになったタイミングって、どこだっけ?人殺しは、悪。 間違いなく悪。 コミックスだとヴィラン 悪役 だけど、この映画のジョーカーは、最後まで被害者で、絶対悪とは言えないような………。 でも、善ではない。 うん、善ではない。 こんな堂々巡りに陥ってしまう。。 感想考察2. 何がきっかけでジョーカーになったのか、厳密には描かれていない。 バットマンなら、両親を目の前で殺されて。 スパイダーマンなら、蜘蛛に噛まれて。 アイアンマンは、自分の兵器の恐ろしさに気づいて。 ヒーローになるきっかけって、作品ごとに崩せないエピソードがあって、はっきりと「きっかけ」がありますよね。 今作のジョーカーには、そういうきっかけが無い。 ここまでがアーサー• ここからがジョーカー と分かる明らかなシーンって、どこにも無いんです。 これが、 この映画をリアルだと錯覚させる部分です。 ホアキン・フェニックスは、 僕達は「人生に簡単な答えはない」ということをコミックス映画で描きたかった。 この映画にはそれ 答え がない。 人生にそういったものはないからです。 と語り、トッド・フィリップス監督も、 アーサーからジョーカーへの変身はゆっくりと進み、 「ここで変わった」と言える決定的な瞬間はありません。 と語ります。 人生を生きていると、道徳・倫理的に解決しなければいけない問題に、いくつも出くわしますよね。 道徳的に正しい判断ができ、 人生をうまく歩めるかもしれない。 正しく判断できなくて、 道を逸れてしまうかもしれない。 生きている以上、こういう選択は絶えず経験します。 ここをあえて描写しない、まして アメコミ映画内で描写されないなんて、前代未聞です。 原作コミックス『バットマン:キリングジョーク』に、 自分の過去を決めるなら、選択式がいい。 というジョーカーのセリフがあります。 どのカメラを使い、どのシーンをどう切り取り、どういう解釈をするのか?• 「もしかしたら自分は、どこかでジョーカーのようになっていたかも…。 」と思えてしまう部分が、どこかにあるんじゃないのか? この映画も、人生も、考察する余白がいっぱいあって面白いですね。 感想考察2. 5:ジョーカーになったきっかけを考えてみる。 逆に言うと、人によって、 「ここからジョーカー。 」 と考察できるところも、今作の面白い部分かもしれませんね。 母の嘘に気づいたとき?• 母を殺したとき?• マレーを殺したとき? 思いつく限り、候補のシーンはた~~くさんあります。 私が考える、アーサーからジョーカーに変わったきっかけ。 個人的には、 バラエティ番組出演直前の階段のシーン。 アーサーだった頃は、長い階段を一段ずつ踏みしめるように登り、 人生を良くしようと必死に努力しています。 でも、ジョーカーのメイクと衣装で同じ階段に立ったとき、 それはもう嬉々として階段を下りているんです。 階段を登るシーンは「 アーサーの努力・もがき」を象徴し、階段を降りるシーンは「 ジョーカーに染まってしまったこと」を象徴しているように見えます。 ジョーカーに染まり切ってしまった。 と感じました。 ジョーカーの片鱗を最初に見せたシーン 「まだアーサーではあるけれど、ジョーカーの片鱗を最初に見せたシーン」は、富裕層たちを射殺した後、 トイレで舞ったあのシーン。 このシーンを撮影する際、ホアキン・フェニックスも監督も、どう完成させようか行き詰まっていたそうです。 そこで、先に作曲できていた楽曲を流したところ、 「つかめるかもしれない」とトッド ・フィリップス監督 に言ったら、彼は「僕がいたら邪魔になるだろうから、あとは任せた」と。 その一言だけ。 それで打ち合わせはおしまい。 と、 アドリブが生んだ舞踊だったと語っています。 メイキングからの着想ですが、トイレで踊ったあの瞬間だけ、画面に映っていたのは完全にジョーカーでしたね。 ただ、どこからがジョーカーとも言えるけど、どこにも明らかな描写はない。 私たちの人生も、そういうもの。 だからこそ、ジョーカーはリアル。 アメコミ映画だし、フィクションだけど、どこか モキュメンタリー 疑似ドキュメンタリー 映画にも見えますよね。 感想考察3. 今の時代との共通点。 私たちの周りにある、• 貧富の差• 精神疾患に対する理解の無さ• 政治に対する不満• 生活に対する漠然とした不安 こういう負の問題は、映画『ジョーカー』と無関係ではありません。 むしろ、意識して描かれています。 これについて、ホアキン・フェニックスは、 この映画が大好きな理由はたくさんあって、 政治に関係するところもその一つです。 と語っています。 しかし『ジョーカー』では、これについても明らかな答えを描きません。 映画の見方を誘導して「これが原因だ」と言っていない。 映画の見方を決めたくないし、正しい見方なんてありません。 ホアキンがこう語るように、まったく説教臭くない。 ジョーカーというキャラクターを通して、起こる出来事を淡々と映し、私たちは自由な発想で現実と関連付ける。 ただ、それだけ。 映画を観終わった後、あれこれと考える余地があるところ• ジョーカーは何も考えていない分、私たちに考える余地が与えられるところ これが、映画『ジョーカー』あるいは、ジョーカーというキャラクターの面白いところですね。 どのアメコミ映画も、まず「勧善懲悪」が大前提で、余白が一切ありませんから。。 それが悪いんじゃなく、「それはそれ、これはこれ。 」ですが。 唯一、明らかに言えること 唯一、明らかに言えることは、 ジョーカーのやり方は、絶対に正当化できない。 ということ。 世間は自分をのけ者にする、だから戦争を起こす。 これが間違っていることだけは、明らかですよね。 考察4. ジョーカーは、ゴッサム・シティが生み出した存在。 『ジョーカー』の舞台である ゴッサム・シティも、主人公の一人です。 『ダークナイト』でも、市民の意思や選択という形で、ゴッサム・シティも主要キャラクターとして描かれていました。 原作コミックス• ゲーム などなど、 すべてのバットマン作品は、ゴッサム・シティ抜きでは語れません。 映画『ジョーカー』のゴッサム・シティ 今作のゴッサム・シティは、半ばスラム化し、ほとんどの市民にとって地獄のような街でした。 1981年のアメリカでは、ロナルド・レーガン大統領が富裕層に対する減税政策を実施し、翌年の1982年まで失業者が増大し続けた歴史があります。 ジョーカーが生まれた必然 こんなゴッサム・シティに暮らす市民の中でも、アーサーのような善良な人は、 言葉が悪いですが 最底辺です。 富裕層からも貧困層からも暴力を受ける• 憧れの人 マレー から笑い者にされる• 最も信頼していた母にさえ裏切られる これでは、アーサーがジョーカーになるのは必然ですよね。 胸が痛いです。。 ジョーカーは、ゴッサム・シティの腐敗そのものが作り出した、街の救世主にも近い存在になってしまったのかもしれません。 やり方こそ明らかに間違っています。 ですが、 殺人者が救世主になってしまうほどに、ゴッサム・シティは腐敗していたのです。 この映画が大反響、ということは…。 アーサーに共感できるほどに、私たちの世界にも希望がない。 この世界は、『ジョーカー』のようになりつつある。 ジョーカーのような人は、いつ現れてもおかしくない。 こういうことなのかもしれません。 ゴッサム・シティにはこの後、救世主「バットマン」が現れるでしょう。 しかし、私たちの世界は……? この映画、希望がありませんね。 笑 感想考察5. アーサーは、ただそこにいただけ。 と語る通り、この映画のテーマは、 「共感」とその「欠如」です。 この映画では、• 富裕層と貧困層• ゴッサム・シティという社会• 彼が関わる人々 あらゆるものすべてが、アーサーに対して一切共感していません。 アーサーは、ただの傍観者。 共感の対義語は「反発、反感」ですが、アーサー自身は何もせず、ただそこに存在しているだけ。 それなのに、あらゆるものが自分に対して敵意を向けてくる。 これは反発というより、 共感の「欠如」と表現するほうがしっくり来ますよね。 悲劇と喜劇 『ジョーカー』は、暴力だの殺人だの、ワンシーンごとの描写はメチャクチャ不快ですよね。 でも、映画を最後まで通して観ると、• アーサーの生き方に 共感できたり、• ジョーカーの躊躇ない行動に 憧れさえ感じたり、• 憧れる反面、こうならないための 正しい道徳観に気づかされたり。 たった122分の映画なのに、もう、相当のエネルギーに満ちてます。 喜劇王・チャップリンも、ジョーカー自身も口にする、 人生は悲劇だ。 クローズアップで撮れば。 でも、ロング・ショットで撮れば喜劇になる。 この名言を体現した映画が『ジョーカー』です。 例えるなら、 戦争の悲惨さを描き、逆説的に反戦をテーマにしている戦争映画のそれ。 そこからは、• 優しさ• 思いやり といった、ジョーカーから連想されるイメージと真逆のことに気づかされますよね。 まとめ. ジョーカーを愛すること。 皆さんには、彼の味方でいてもらえればと思います。 これ以上は無理だ、というところまで。 こう語るのは、トッド・フィリップス監督本人。 「彼」とは、厳密に言うと、ジョーカーではなくアーサーのほうですが。。 少なくとも、• ここまではアーサーだった。 ここまでは理解できる。 ここまでは共感できる。 というところまで、アーサーのことを愛してほしいと言うのです。 … …… ……… その通りですよね。 この映画には、ジョーカーへの明らかな変身シーンはありません。 そして上映開始直後のアーサーは、誰もが共感できる心優しい男性なんです。 全身をゆっくりと蝕んでいくガン細胞のように、 徐々に、本当に徐々に、ジョーカーになっていく。 人それぞれ、その共感できるギリギリまでは、アーサーのことを愛してあげたいですよね。 映画が始まる時点では、彼は有名な犯罪者ではなく、アスファルトに咲いた小さな花。 その花に、あなたは水をあげるのか、光を当ててあげるのか、それとも無視するのか。 どれくらいの間、その花を好きでいられるのか。 トッド・フィリップス監督のこの言葉が、未だに余韻として残っています。 ジョーカー、本当にいい映画だったなァ。

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