三島 由紀夫 事件。 三島事件/三島由紀夫はなぜ切腹自殺をしたのか?

三島事件

三島 由紀夫 事件

すでに自衛隊への体験入隊は13度に及び、東部方面総監陸将・益田兼利(当時57歳)とも旧知の仲だった。 三島は益田との面会を求め、総監室にすんなり通されると、すきを見て益田に襲いかかり、背後から首を絞め、羽交い絞めにしてロープで両手両足を縛り、手ぬぐいでサルぐつわをし、短刀をつきつけ、日本刀を振りかざし、机、椅子等を重ねて、室内の出入口を封鎖した。 楯の会・・・1968年(昭和43年)10月、東京都中央区銀座8丁目の小鍛冶ビル内に設けた(1)反共、(2)天皇制支持などを主張する団体で、防衛庁の特別許可で自衛隊に集団で体験入隊するなど自衛隊を訓練の場としていた。 会員は三島が面接して決めていたが、東大、京大、一橋大、東京外語大、早大、慶大、日大、国学院大、神奈川大などの学生でメンバーが95人おり、それらの経費のほとんどは三島の膨大な印税で賄われた。 制服はド・ゴールの軍服をデザインした唯一の日本人デザイナー・五十嵐九十九のデザインによるものでおもちゃの兵隊風だった。 警察は「反共的民族派文化サークル」と規定、防衛庁の方でも「自衛隊の良き理解者」程度のグループと考えていた。 事件後に解散した。 益田総監らに「自衛隊を集合させ、三島の演説を静聴させろ、応じなければ三島は総監を殺し、自決する」と脅迫し、1000人近い市谷駐屯地の自衛官を前に、三島は「楯の会」の制服、<七生報國>と書かれた日の丸の鉢巻きに白手袋、愛刀の「関の孫六」をひっさげてバルコニーへ出て、憲法改正や自衛隊員の精神的決起を訴える演説をし、「檄」文を配布した。 七生報國(しちしょうほうこく)・・・この世に生まれ変わることができるかぎり、国に対して忠誠をつくす、という意味。 その「檄」文冒頭の一説。 <われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態に落ち込んでゆくのをみた。 政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善のみに捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰していくのを、歯噛みしながら見ていかなければならなかった・・・・・・> 自衛隊員たちはそっぽを向いたり、「頭を冷やせ、三島」「バカ野郎!」などのヤジを飛ばしたりしている。 それでも、三島は語り続けた。 「自分と一緒に立つ者はいないか」「日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。 生命尊重のみで、魂は死んでよいのか、生命以上の価値なくして何の軍隊だ。 今こそわれわれは生命尊重の価値の所在を諸君の目に見せてやる。 それは自由でも民主主義でもない。 日本だ。 われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。 これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか・・・・・・」三島は最後に自衛隊員を睨みつけ「貴様らそれでも武士か!」と二度絶叫した後、「天皇陛下万歳」を唱えてから総監室へ消えた。 その後、総監室で三島は捕縛した益田に対し「こうするよりほかに仕方なかったのです。 お許しください」と言い、やがて上着を脱ぎ、正座して短刀を両手に持つとそのまま、「エイッ」と気合を込めて左わき腹を突き刺して割腹した。 楯の会会員で元早大生・森田必勝(25歳)の介錯を受けて三島の首はじゅうたんの上に転がり死亡した。 さらに森田も割腹、元神奈川大生・古賀浩靖(当時23歳)が介錯し死亡した。 このほか、神奈川大生・小賀正義(当時22歳)、明治学院大生・小川正洋(当時22歳)が事件に参加した。 三島の割腹自殺は世に大きな衝撃を与えた。 中でも言論界、マスコミ界への衝撃は甚大であった。 三島の死について夥しい批評、見解が表明されたが、その一般的評価は(1)ナンセンスとみるもの、(2)日本精神とその美学に殉じたとみるもの、(3)自己顕示または演技とみるもの、と3つに大別された。 1971年(昭和46年)3月23日、東京地裁(櫛淵理裁判長)で初公判が開かれた。 古賀浩靖、小賀正義、小川正洋の3人は監禁致傷、嘱託殺人、職務強要罪、傷害罪、暴力行為等処罰に関する法律の5つの罪名で起訴されていた。 嘱託殺人については三島と森田の遺体解剖の結果、2人の直接の死因は介錯による頸部切断であり、しかも事前の打ち合わせで森田か古賀が三島を、小川か小賀が森田を介錯することにしていた事実が明らかとなっていたため、共同正犯とした。 1972年(昭和47年)3月23日、東京地裁で弁護側が最終弁論を行い、審理は1年で結審した。 古賀、小賀、小川の3人は最終陳述で「どんな刑を受けても本望です」と述べた上で「自分らが否定する憲法の下で裁判を受けることに矛盾を感じる。 裁判長に日本人として判決を書いていただきたい」と述べた。 4月27日、東京地裁は古賀浩靖、小賀正義、小川正洋の3人に対し、検察側の起訴事実をほぼ全面的に認めてそれぞれ懲役4年の判決を言い渡した。 1972年(昭和47年)4月16日、三島の葬儀委員長を勤めたノーベル賞作家の川端康成がガス自殺した。 72歳だった。 遺書はなかった。 自殺の動機については1968年(昭和43年)に日本人初のノーベル文学賞を受賞したことで多忙になり、小説よりも雑事に追われていったこと、日頃から強い睡眠薬を飲んでいたこと、愛弟子の三島由紀夫が自殺したこと、1972年(昭和47年)の秋に開かれる国際ペンクラブ総会の資金集めなどで精神的にも肉体的にも疲労していたことが取り沙汰された。 この小説では川端康成をモデルとして書かれており、5年前の川端の自殺は川端が自家のお手伝いさんの女性に異常なまでの執着を持ち、その関係が破綻したことからきた孤独な絶望感に真因があったと書かれている。 このショッキングな内容はたちまち話題になり、4月に刊行した『展望』はすぐに売り切れて異例の増刷まで行われ、翌5月に出版した単行本は3週間で17万部を売るベストセラーになった。 この事態に対し、川端家では小説の内容は「事実無根」「故人を傷つけるもの」として作者と出版元の筑摩書房を相手に『事故のてんまつ』の出版、販売の中止を求める民事訴訟を東京地裁に起こした。 のちに臼井側も謝意を表明した上で『事故のてんまつ』の増刷も中止したことにより、8月、川端家側もこれを認め、和解が成立した。

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三島事件

三島 由紀夫 事件

三島由紀夫事件とは何のなのか?場所などを分かりやすく説明! 三島由紀夫事件とは一体 どういった事件なのだろうか? また、この事件はどの場所で 起きた事件なのだろうか? この三島由紀夫事件から47年の 日が経つ今でも、その衝撃の 度合いから今なお認知されている 一大事件である。 では、この三島由紀夫事件とは 何なのか分かりやすく説明を していこう。 三島由紀夫事件とは何か?分かりやすく説明 三島由紀夫事件とは一言で 分かりやすく言うならば、 三島由紀夫が自身の命を以って 日本国憲法の改正を訴えた デモである。 分かりやすく言えば、 三島由紀夫はゴリゴリの保守派で、 日本国憲法が国を守る存在の 自衛隊をまるで存在していない物 として扱っている事に憤りを 感じていたのだ。 国や自衛隊を本当に思っている からこそ、自衛隊を法定している 憲法を改正するために三島由紀夫は デモを起こす事を決意したのである。 では、具体的に三島由紀夫事件とは どの様な事件なのか、その全貌を 分かりやすく説明をしよう。 スポンサード・リンク 三島由紀夫と場所えらびの理由 三島由紀夫は自身の思想に感化を されている楯の会メンバーの 4名と共に抗議のデモを行う事を 決めた。 そのデモをする場所として選んだ のが陸上自衛隊市ヶ谷駐屯所 と言う場所である。 なぜ、三島由紀夫はこの場所を デモを行う場所として決めたか と言うと、今回のデモは自衛隊員の 決起を目的としたデモだったからだ。 三島由紀夫達は、益田総監の元を 訪れて楯の会のメンバーの表彰する事 を目的として、この陸上自衛隊 市ヶ谷駐屯所に来たと伝えた。 それを信じた総監に、三島由紀夫が 持参した日本刀を鑑賞させている時に、 総監を拘束。 異変を感じ、総監の部屋にやって 来た幕僚と乱闘を始めたのだ。 この乱闘では自衛隊8名が負傷 する結果となった。 そして、通報を受けて総監の いる部屋にやって来た警察に 三島由紀夫は総監の身柄と演説を 行う事の権利を交渉し、 結果三島由紀夫はこの場所で 演説する事になった。 三島由紀夫は自衛隊の大声の 野次を受けながらも、 現状の憲法が自衛隊という存在を 否定し、相反する物だとして 憲法改正を訴えた。 この演説の締めくくりとして、 三島由紀夫は衝撃の切腹を したのである。 こうして、三島由紀夫は この世を去り一連の事件が 終結をした。 以上が三島由紀夫事件とは 何だったのかを分かりやすく 説明したで事件の流れである。 スポンサード・リンク 三島由紀夫が切腹した理由! 三島由紀夫が愛国心に溢れ、 保守思想を持っていたという 事は十分理解出来た。 では、三島由紀夫はなぜ切腹という 強硬手段に出たのだろうか? 三島由紀夫の切腹の理由について 迫って行きたい。 三島由紀夫が切腹をした理由 三島由紀夫が残した檄文によれば、 その切腹の理由として挙げられるのが 大義のための犠牲という理由である。 今後の日本を考えた際に、国防軍として あるべき自衛隊が憲法で否定を されていては元も子もない。 このままでは、日本という国は ダメになってしまう憂國の念が あったのである。 この現状を変えるための大義名分 として自らの切腹を以って 自身を英雄として、改革の 礎としようとしたという理由だ。 また、三島由紀夫は絶頂期に こそこの世をさるべきだという 価値観もあった様だ。 三島由紀夫は事件当時の タイミングが自身の絶頂期と して考え、切腹を選んだのでは ないか?という理由も挙げられる。 更に、三島由紀夫は自身の 性同一性障害に悩んでいて、 男性性の究極の形である切腹を 喜んで選んだという理由も挙げられる。 マトメ この様に三島由紀夫の切腹の理由は 様々な思いや価値観が合わさって 成し遂げられた物なのでは ないだろうか? この三島由紀夫の切腹から40年。 goo. wikipedia. naver.

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三島由紀夫と磯部浅一

三島 由紀夫 事件

作家の自殺事件。 1970年 11月 25日午前 11時 10分から同日午後0時 15分にかけては「の会」の会員4人を伴い,東京都新宿区市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面部総監室を訪問,総監のを縛り,不法するとともに総監室を。 これを排除しようとしたに日本刀などで切りつけ8人にを負わせた。 三島は自衛隊員にを呼びかけるアジ演説を行なったのち,早稲田大学学生森田必勝とともに割腹自殺した。 警視庁は小賀正義,小川正洋を,,不法監禁,公務執行妨害の容疑で現行犯逮捕した。 三島のは平和な戦後社会に強い衝撃を与えた。 さらにだけでなく極左陣営の青年にも刺激を与え,左右の青年7人があと追い自殺をはかった。 この事件は,三島の動機についてさまざまな推測を生んだが,同時に彼の死によって特異な才能をもった作家が,この世界から失われたことが惜しまれている。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 1970年(昭和45)11月25日、作家三島由紀夫が東京・市谷 いちがや の陸上自衛隊東部方面総監部で割腹した事件。 三島は1968年10月、「反共」「天皇制支持」「暴力是認」を三本柱とした主義の下に自らが主宰者となって学生組織「楯 たて の会」を結成していた。 同会は、左翼と対決する民間武装兵力として自衛隊に体験入隊し、軍事的知識・技術の修得を行ってきた。 この日午前11時前、三島は会員4名とともに会の制服を着用して同総監部を訪れ、益田兼利総監を人質とした。 バルコニー前に自衛隊員約1000人を集合させ、檄文 げきぶん をまく一方、憲法を改正して自衛隊を国軍とするためのクーデターを呼びかけた。 だが、隊員からやじが激しく飛び演説はほとんど聞こえなかったという。 午後0時15分ごろ三島は会員森田必勝とともに総監室内で割腹自殺した。 ノーベル文学賞候補とも目されていた三島の行動は、国の内外に衝撃を与え、民主主義を否定し軍国主義を復活させるものであるとの警戒心を呼び起こした。 [荒 敬] 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について.

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