水木 しげる アシスタント。 池上遼一

水木しげるとは (ミズキシゲルとは) [単語記事]

水木 しげる アシスタント

松田哲夫氏は1947年生まれ。 編集者(元筑摩書房専務取締役)。 書評家。 浅田彰『逃走論』、赤瀬川源平『老人力』などの話題作を編集。 1996年に TBS系テレビ『王様のブランチ』本コーナーのコメンテーターになり12年半務めた松田氏が、つげ義春について語る。 * * * 漫画雑誌「ガロ」からは多くの個性豊かな作家が生まれた。 なかでも、つげ義春さんの作品群の放つ光は、半世紀近い時間を経ても薄れることなく輝き続けている。 一時期、水木プロダクションでアシスタント的な仕事をしていたつげさんについて、水木しげるさんは、よくこう慨嘆していた。 自分流の生き方で充実した人生を送ってきた水木さんにしては珍しいことだった。 「つげは怠け者ですよ。 いっこうに仕事をしない。 それなのに、同じ作品が何度も何度も使われてお金が入ってくる。 自分は、あくせく新しい作品を描かなければやっていけないのに。 けしからんですよ」 つげさんは、一九五四年、十七歳のとき、雑誌に作品が掲載され、翌年、プロデビュー。 それから五八年ごろまでは、少女物、時代劇、ミステリーなど貸本漫画を描く。 五八年末あたりから六四年ぐらいまで、雑誌形式の貸本漫画に暗いミステリー短編を発表。 また六〇年から六五年初めまで、白土三平作品の人気にのった忍者漫画も描いていた(貸本時代)。 六五年夏、「ガロ」にデビュー。 数作の助走的作品の後、六六年二月「沼」から六八年八月「もっきり屋の少女」まで、「李さん一家」、「紅い花」、「海辺の叙景」、「ねじ式」など、奇跡のような傑作十七作を「ガロ」に続けて発表(「ガロ」時代)。 七二年ごろから、「夜行」、「カスタムコミック」、「COMICばく」や青年コミック誌に作品を単発的に発表。 そして、八七年九月「別離」後編を最後に、漫画作品は約二十五年間描いていない(青年誌時代)。 水木さんの言うように、いろんな出版社で、いろんな判型で、繰り返し本になり売れ続けるのがつげ作品の特徴だ。 現在入手可能な本は二十数点にのぼり、全作品の八割ぐらいが含まれている。 とりわけ「ガロ」時代の奇跡の傑作群のリピート率は高い。 現在、五種類の版が生きている。 同じ作品なのに、新しい本が出ると必ず買うファンもいるし、新しい読者も生まれているようだ。 作品数も少なく、四半世紀も新作を発表していない作家としては、この衰えない人気は奇跡に近い。

次の

ゲゲゲの女房:アシスタント3人組のモデルは、それぞれ誰ですか?

水木 しげる アシスタント

来歴 [ ] (旧・)出身。 小学生の頃から貸本漫画に慣れ親しむ。 中学卒業後、大阪に移り屋の仕事をしながら漫画を描き始める。 1962年、漫画短編誌『魔像』()に掲載された「魔剣小太刀」で貸本漫画家デビュー。 らのアシスタントをしながら漫画を描くが生活苦で断念、看板屋の仕事に戻る。 1966年、投稿した読切作品「罪の意識」が『』に掲載され、これを読んだがのにスカウトを依頼。 水木のになるべく上京する。 一年半ほど水木のアシスタントとして働いた後メジャーデビューし、以降、劇画漫画の第一線で活躍中。 代表作に『』など。 貸本時代や『ガロ』に寄稿していた頃はオリジナル作品を描いていたが、メジャーデビュー後は作品のほとんどが付きである。 『』で度、第47回受賞。 人物 [ ]• 水木しげるのアシスタントになるまで水木の漫画を読んだことはなかった。 劇画風な絵を描くやのアシスタントになりたかったが人手は足りているとのことで断わられた。 のファンで、水木のアシスタントに入った時、その場につげもいて驚愕したという。 また、水木も「私よりつげさんの方を「先生」と仰いで尊敬していた」と述べ、若いアシスタントがつげを揶揄するような発言をした際には「おどりゃ、つげ先生に何をぬかすかあ」と食ってかかったりしていたという。 若い頃はに所属していた。 水木の職場で共産主義をバカにした同僚アシスタントと口論になったこともあったという。 民青では同盟員に漫画を馬鹿にされて民青を辞めた [ ]。 劇画以外の作品にも関心があり、特にを高く評価している。 高橋自身も『ガロ』に掲載された池上の漫画に衝撃を受けたことを後に明かしている。 1990年代に入ってからは、『』のレギュラー漫画家として定着し、眉目秀麗な主人公、の世界、裏切りと同盟を繰り返す複雑な人物関係の劇画を確立している。 、『』の執筆に際しての復元図を剽窃し、復元図の作者である工業デザイナーに抗議された。 『信長』のからの単行本は最終巻が出版されないまま絶版となったが、引用箇所を描き替えた上でにから復刊されている。 漫画家のが『』や『』など池上の絵柄をパロディ化していると知人やスタッフから聞かされた時は、「自分の亜流が出てくるということは、それだけ自分の作品が認知されて有名になったということなので嬉しかった」と雑誌のインタビューで語るなど、池上からは公認されており、池上は『魁!! クロマティ高校』に登場するメカ沢新一と北斗武士を自ら描いたパネルを野中に贈っている。 また、野中ファンが池上を同一人物と思って「野中さんって、マトモな漫画も描けるんですね」と勘違いされた事があったという。 2010年の連続テレビ小説『』の倉田圭一(演:)は、池上をモデルとしている。 には自身が戦車好きである事を明かし、「年甲斐もなく『』にハマってしまいました」と語っており、弟子と同人誌も発行している。 3』の帯には推薦コメントと池上自身が描いたでの応援イラストが掲載されている。 多くの美形キャラクターがアジア人の顔であり、香港や台湾を中心にアジアにファンが多い。 娘の夫は『』と『』の編集長の池上昌平である。 妹は越前市でで有名な洋食屋を営んでおり、店内には原画が多数飾られている。 またボルガライスの販促ポスターも描いており、ボルガライスが日本全国に知られる一因となった。 作品リスト [ ]• (1968 - 1969年連載、、全7話、小学館)• (1970 - 1971年連載、、全8巻、。 初期はが参加している、第7話(1970年9月号)からは、が原作としてクレジットされている)• おえんの恋(1972年連載、、全1巻、)• (1972 - 1973年連載、、全4巻、講談社、原作:)• I・餓男(アイウエオボーイ)(1973 — 1977年連載、劇画 KING SERIES、全8巻、出版、原作:)• (1974 - 1979年連載、、全25巻、、原作:)• (1980 - 1982年連載、週刊少年サンデー、全15巻、小学館、原作:雁屋哲)• (1982 - 1986年連載、、全11巻、小学館、原作:小池一夫)• (1982 - 1984年連載、週刊少年サンデー、全6巻、小学館、・・が制作に参加、池上は製作総指揮も兼任)• 青拳狼(せいけんウルフ)(1984年連載、週刊少年サンデー、全3巻、小学館、原作:)• 殺愛(1984年7月20日発売、上下巻、出版、原作:小池一夫)• (1985 - 1986年連載、週刊少年サンデー、全6巻、小学館、原作:)• (1986 - 1988年連載、ビッグコミックスピリッツ、全9巻、小学館、原作:小池一夫)• 人面蝶 幻想ロマン作品集(1987年8月発売、KCスペシャル、)• (1988 - 1989年連載、ビッグコミックスピリッツ、全6巻、小学館、原作:小池一夫)• OFFERED(1989 - 1990年連載、ビッグコミックスピリッツ、全4巻、小学館、原作:小池一夫)• (1990 - 1995年連載、、全12巻、小学館、原作:)• (1991年連載、、全1巻、小学館、原作:)• 王立院雲丸の生涯(1991 - 1992年連載、週刊少年サンデー、全3巻、小学館、原作:)• (1993 - 1995年連載、、全2巻、小学館、原作:)• (1995 - 1996年連載、、全3巻、小学館、原作:史村翔)• strain(1996 - 1998年連載、ビッグコミックスペリオール、全5巻、小学館、原作:)• 池上遼一近代日本文学名作選 1997年10月発売、、小学館• (1998 - 2004年連載、ビッグコミックスペリオール、全17巻、小学館、原作:武論尊)• 池上遼一幻のコミック傑作選「ジム」 小学館、ビッグコミックススペシャル、2000年10月• (ビッグコミックスペリオール、2004年 - 2011年連載、全22巻、小学館、原作:武論尊)• SOUL 覇 第2章(2011年 - 2013年連載、ビッグコミックスペリオール、全3巻、小学館、原作:武論尊)• (作画担当。 2009年1月28日発売、連載、出版、原案:、原作:小池一夫• 池上遼一自選集「YUKO」 2010年9月30日発売、ビッグコミックススペシャル、小学館)• 池上遼一自選集「OEN」 2010年10月29日発売、ビッグコミックススペシャル、小学館)• 六文銭ロック(2013年 - 2015年、ビッグコミックスペリオール、全4巻、小学館、原作:武論尊)• アダムとイブ(2015年 - 2016年、ビッグコミックスペリオール、全2巻、小学館、原作:)• (2016年 - 2020年、ビッグコミックスペリオール、全9巻、小学館、原作:)• 陰獣トリステサ(原作:)• ウニデス潮流の彼方に• 罪の意識• 天使は舞いおりた くノ一異聞• 肌の記憶• ベスティア• モッブ〜死神〜(原作:)• 阿羅紫〜ARASHI〜 池上遼一画集(2012年)• 脚注 [ ].

次の

水木しげるとは (ミズキシゲルとは) [単語記事]

水木 しげる アシスタント

妖怪漫画の第一人者であり、日本に「妖怪文化」を根付かせた漫画家、 水木しげる。 1954年に紙芝居として発表された代表作『ゲゲゲの鬼太郎』は、半世紀以上にわたって漫画化、アニメ化、映画化とさまざまな形でファンを楽しませています。 アニメ化50周年を迎えた2018年には、第6期となる新シリーズのアニメが放送されるなど、今なお人気は衰えることを知りません。 水木しげるは作品だけでなく、独創的で型破りな生き方も注目されてきました。 2016年に93歳で亡くなるまで、水木しげるはどのような生き方をモットーとしていたのでしょうか。 今回は自伝をもとに、その自由な生き方を紹介します。 自分の好きなことだけにとことん熱中し、気ままで自分本位だった水木少年。 自然豊かな境港は驚きの連続で、海や山、動物や虫と目に映るものすべてが新鮮だったといいます。 そんな頃、水木は武良家にお手伝いとしてやってきた景山ふさという老婆と出会います。 実家から2キロばかり離れた場所にある正福寺によく連れていってもらった。 本堂に地獄極楽図が飾ってある。 この絵は今も飾ってある。 地獄の様子と極楽の風景を類型的に描いた小さな五枚の連作である。 今見てもなかなかのものだが、子ども心にはすごい迫力で迫ってきて、夢でうなされたほどだ。 のんのんばあのあの 朴訥 ぼくとつとした説明を聞きながら、こわごわと見入ったこの宗教画は、ベビイだった私にあの世の存在と霊魂の実在を教えてくれた。 紙と鉛筆さえあれば飽きずに絵を描いていた水木は、13歳のときに図工教師からのすすめで個展を開いたこともあるほどの絵心の持ち主。 すでに絵の才能を開花させていたものの、他の成績が散々だったことから進学ができなかった水木は高等小学校卒業後、親戚のツテで大阪に行き、働くこととなります。 「画家になる」夢と、現実の狭間。 大阪で水木を待っていたのは、過酷な日々でした。 印刷会社に住み込みで働き始めるも、失敗ばかりで解雇を言い渡されるなど、周りから「問題児」、「厄介者」といったレッテルを貼られることも珍しくなかったとか。 ですが、本人は特に気にすることもありませんでした。 やがて水木は両親から紹介された無試験の絵の学校に通い始めるも、授業内容に満足できなかったことからあえて独学で作品を創作していました。 ぼくはますます「自習」に熱中した。 図書室へ行って人体解剖学の本の図を写し(これは、正確な人体デッサンに必要だと思ったから)、その行き帰りには、あちらこちらをスケッチするという猛勉強ぶり。 絵本の方もどんどんこりだして、アンデルセンやグリムの童話を絵物語にしてみようと、何日も何日も部屋にとじこもった。 『ほんまにオレはアホやろか』より この頃、水木は東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学して、画家になる夢を抱きますが、高等小学校しか出ていない彼は、受験資格すらも得られません。 親を説得し、夜間中学に通いながら絵を描き、夢を実現しようと動き始めた時には、日本に戦争の影が迫っていました。 そして水木は21歳のときに届いた召集令状により、ついに戦場へ行くこととなります。 爆撃で左手を失いながらも、現地民と交流を深める。 敵の攻撃から逃げ回るのが精一杯で、食糧さえも枯渇しがちだった日々はまさに死と隣り合わせでした。 遅刻を繰り返すなど、失敗続きだった水木は上官から日常的に暴力を振るわれることも珍しくなかったといいます。 ある日、敵国から銃撃を受けた水木は、死にものぐるいで海へ飛び込みます。 銃弾が体をかすめるほどの集中砲火を回避し、なんとか泳いで陸へ辿り着いた水木は銃を紛失したことに気がつきます。 丸腰で、いつ敵に遭遇するかもわからない状況に陥った水木は、人が立ち入らないような山道を通って基地へ帰ろうとします。 その道中も野生の動物や攻撃的な現地の民族に襲われかけるたび、水木は何度も死を覚悟するのでした。 海軍に助けられ、所属する隊の本部に戻った水木を迎えたのは、厳しい表情の上官たちでした。 奇跡の生還を果たした水木でしたが、上官にとっては敵前逃亡したばかりか、貴重な武器を紛失した落ちこぼれでしかありません。 国のために命を投げ出すことが当たり前だった日本軍では、命からがら逃げてきたことは恥ずべき行為でした。 生還を喜ばれるものだとばかり思っていた水木は、上官から「なぜ、死なずに逃げたのか」と責められ、愕然とします。 それからますます戦況は悪化します。 命からがらの逃避行を終えた後、温かい言葉をかけられなかったことで虚無的になっていた水木は、マラリアを発症。 何日もの間高熱に苦しんだ水木は、空襲で左腕を負傷します。 すぐ近くに衛生兵がいたから、かけ寄って止血してくれた。 それでも、血はバケツ二杯も出たような気がした。 もっとも、実際にそんなに出たら、とっくに死んでいることになるのだが、印象としては、そう感じるほどひどかった。 いずれにしても、衛生兵の機敏な手当てがなかったら、死んでいたことはまちがいない。 『ねぼけ人生』より 空襲の翌日、軍医は治療のためにナイフで水木の左腕を切り落とすことを決めます。 左腕を失い、傷病兵として後方に送られた水木の心の支えとなったのは、島の原住民であるトライ族でした。 初対面にも拘わらず、たくさんの食べ物でもてなしてくれたことに感激した水木は、配給のタバコと果物を交換するうちに意気投合。 すっかり気に入られた水木は、たびたび兵舎を抜け出しては、彼らに会いに行くようになります。 トライ族の人たちとはますます仲良くなり、もはや友人を通り越して「同胞」のような存在に昇格していた。 私の体内に居座る、のんきでゆったりとした「水木サンのリズム」と彼らのリズムが調和して、波長がぴったりと合ったのだろう。 そうとしか考えられないほどの気の合い方だった。 『水木サンの幸福論』より 戦争を気にせず、自由に生きているトライ族と、威張って部下に暴力を振るうような上官。 言うまでもなく、水木はトライ族と過ごす時間を大切にしていました。 やがて戦争が終わり、「畑を分け与えるから、このまま一緒に暮らそう」とトライ族に提案された水木は、自らの意思でラバウルへ残ることも検討します。 しかし上官に説得された水木は、「7年後にまた来る」とトライ族の人々に約束し、日本へと戻るのでした。 夢を叶えるも、食うための生活に向け悪戦苦闘。 帰国した水木は、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入学するも、経済的な問題から数年で中退。 戦後の傷が癒えない日本において、負傷兵である水木が安定した生活を送ることはまだまだ容易ではありませんでした。 その後も魚売りや自転車でのタクシー業など、食いつなぐために職を転々とするなか、成り行きでアパート経営を始めることになった水木。 大家となったアパート「水木荘」には、紙芝居作家のアシスタントとして働く青年が引っ越してきます。 水木は青年の紹介を受け、紙芝居作家として採用されますが、これは「絵を仕事にする」という幼い頃からの夢を叶えた瞬間でもありました。 水木は絵が得意ではありましたが、ストーリー構成を苦手としていたことから苦戦を強いられます。 子どもたちを相手にする紙芝居では、見せ場はもちろん、次回への期待をもたせたまま終わらせるストーリー展開にすることが必須です。 売れ線の作品を目指して苦手だったSFにまで手を広げても、売れる気配は全くありません。 偶然、作品が売れたとしても、貸元が夜逃げし、給与が払われないことも珍しくなかったため、生活はいつも困窮していました。 それでも一心不乱に紙芝居を書き続けた水木には、少しずつ紙芝居作りのノウハウが蓄積され始めていました。 そんな矢先、テレビの出現により紙芝居の人気は急落します。 「このまま必死に描き続けていたとしても、紙芝居に未来はない」と思った水木は紙芝居に見切りをつけ、漫画家に転身。 たったひとりで上京し、活動拠点を東京に移します。 長い下積み時代を終え、取り戻した「水木サンのルール」 漫画家に転身した水木でしたが、すぐに仕事が次々に舞い込んでくるわけではありません。 暗く陰鬱とした作風が敬遠されて、出版社側から原稿料を安くするよう持ちかけられたり、作者名を無断で変更した旨を出版後に知らされることさえありました。 十日ばかりして、曙出版に金をもらいに行った。 ぼくの力作が本になっている。 手にとると、 武取 たけとりいさむ作となっているではないか。 「どうしたんですか、これは」 「水木しげるじゃあ全然売れなくてねえ。 わるいけど、名前を変えさせてもらったよ」 『ほんまにオレはアホやろか』より 得意とする怪奇ものを描くことを希望したとしても、前評判の悪さから出版ができず、疫病神扱い。 家賃の滞納が続き、質屋でなんとか金を作って暮らすギリギリの生活からなかなか抜け出せません。 すでに40歳を迎えようとしていた水木は、親のすすめで同じ鳥取県出身の飯塚布絵と見合い結婚をします。 その翌年には娘が誕生し、育児のためにますます安定した収入が求められると、水木は、一時漫画家を辞めようとも考えます。 そんな頃、「怪奇ものを描かせてくれ」と出版社を説得した水木は、『墓場の鬼太郎』を執筆。 しかし鬼太郎は当初全く売れず、掲載されていた雑誌も廃刊してしまいます。 ところが、一部の読者から 「すごく面白かったから、なんとしても続きを出してくれ」と再開を望む手紙が届いたことをきっかけに、鬼太郎の単行本が出版され始めます。 熱心なファンからの手紙がなければ、今のように鬼太郎が多くの人に読まれることはなかったのかもしれません。 さらに東京オリンピック開催直前の1964年、水木は知り合いの編集者から雑誌「ガロ」への執筆を提案されます。 一世を風靡した白土三平の忍者漫画『カムイ外伝』と水木の『鬼太郎夜話』の2作が看板作品だった「ガロ」は、それまで「子どもが読むもの」とされていた漫画のイメージを一新します。 散々な前評判を受けていたことが嘘だったかのように、鬼太郎はますます多くの人に読まれる機会を得るのでした。 「ガロ」で名が売れ始めた水木はその翌年、「少年マガジン」から執筆依頼を受けます。 その頃、「少年マガジン」の編集者がやってきて、宇宙ものを描いてくれという。 しかし、僕は、宇宙ものは得意ではない。 貸本マンガの連中で、雑誌から注文が来たのはいいが、不得手な分野なのに引き受けて、後で苦労した人が何人もいた。 貸本マンガに引き返そうにも引き返せず、不得手な分野は当たらない、というわけだ。 そういう例を知っていたから、僕は、この話は断った。 『ねぼけ人生』より 水木は人気雑誌からの依頼に喜びますが、少年雑誌への転身はそれまでの作風や絵柄を大きく変えることでもありました。 それに加え「宇宙もの」という苦手なテーマを執筆できるのか悩んだ結果、水木は依頼を辞退。 「どうして断ってしまったんだ」と後悔しますが、半年後に「テーマはお任せします」と再度依頼を受け、怪奇ものを描くチャンスを勝ち取るのでした。 水木はこのとき執筆した作品『テレビくん』で第6回講談社児童まんが賞を受賞したことから、多くの出版社から依頼が舞い込むようになります。 水木は40歳を過ぎて初めて、売れっ子漫画家となります。 その人気ぶりは、当時の連載11本、テレビやイベント出演の依頼も相次いでいたことからもわかるでしょう。 妖怪やお化け関連のイベントが多く開かれる夏は特に忙しく、10年間にわたって子どもを海水浴に連れて行くことさえできなかったと言います。 寝る時間はどんどん少なくなり、ときには寝ないことさえある。 これも、二十代、三十代ならともかく、四十代も後半に入ってからでは体にこたえる。 五十代になれば更にこたえる。 『ねぼけ人生』より この頃、偶然にも水木はラバウルにいた頃の軍曹と再会し、二人で戦地を旅行することになります。 再訪を約束していたトライ族の集落を訪れ、忘れかけていた 「あくせく働かず、自由に生きることの大切さ」を思い出す水木。 帰国後、締め切りに追われる生活から解放されることを望み、自ら仕事を減らすようになります。 やがて自らを「幸福観察学会の会長」として、それまでの人生で出会った人を観察して気づいた「幸せの七ヵ条」を広めようとします。 では、その「幸せの七ヵ条」を見てみましょう。 第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。 第二条 しないではいられないことをし続けなさい。 第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。 第四条 好きの力を信じる。 第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。 第六条 怠け者になりなさい。 第七条 目に見えない世界を信じる。 中でも異彩を放つ第六条の「怠け者になりなさい」は、文字通りの意味ではないのも実にユニークです。 自分の好きなことを自分のペースで進めていても、努力しなくちゃ食えん、というキビシイ現実があります。 それに、努力しても結果はなかなか思い通りにはならない。 だから、たまには怠けないとやっていけないのが人間です。 ただし、若いときは怠けてはだめなのです! 何度も言いますが、好きな道なのですから。 でも、中年を過ぎたら愉快に怠けるクセをつけるべきです。 『水木サンの幸福論』より 「怠け者になりなさい」と聞くと、ついつい目の前のことを投げ出してもいいようにも思えるもの。 しかし、若いときは怠けずに一生懸命やるべきことをやるように、という水木からの強いメッセージが込められています。 これは、ラバウルで出会ったトライ族の生き方に由来します。 働くべきときはしっかりと働き、その後は自由に時を過ごす。 そんな生き方は水木に「本当の幸せとは、あくせく働くことばかりではない」という大切なことを思い出させてくれたのでしょう。 幸せの七ヵ条において一貫しているのは、「自分が好きなことを続けること」。 それが見つからない人へ、水木はインタビューでこう述べます。 水木 「私は漫画家に向いているでしょうか?」と私に聞く人がいます。 そういう人は、その時点でだめ。 本当に好きなら、他人の意見なんてどうでもいい。 へただと言われても、向いていないと言われても、描かなくてはいられないものでしょう。 『ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気』より どれほど好きなことであっても、他人の意見で気持ちが揺れてしまうこともあるかもしれません。 それでも「しなくてはいられないもの」であれば、自分の意志は揺らがないはず。 その確かな「好きなもの」を信じていた水木の言葉だからこそ、私たちに強く響くのでしょう。 迷いがある時こそ、水木しげるの生き方を学ぼう。 水木サンが幸福だと言われるのは、長生きして、勲章もらって、エラクなったからなのか? 違います。 好きな道で六十年以上も奮闘して、ついに食いきったからです。 ノーベル賞をもらうより、そのことのほうが幸せと言えましょう。 『ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気』より 今の仕事を続けることに悩んでいたり、一度は夢を諦めてしまった経験がある人にとって、一生をかけて好きなことを続けた水木の生き方は大きな励みになるでしょう。 【参考文献】 水木しげる『ねぼけ人生』 水木しげる『ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気』 水木しげる『水木サンの幸福論』 水木しげる『ほんまにオレはアホやろか』.

次の