高杉 晋作。 高杉晋作(たかすぎ しんさく)とは

高杉晋作の奇兵隊伝説!エピソードや辞世の句が最高にイカしてる!

高杉 晋作

高杉晋作の誕生 高杉は天保10年 1839年 8月20日、長州藩の上級武士である父、小忠太と母ミチの長男として生まれました。 屋敷は萩城下の菊屋横丁と呼ばれる一角にありましたが、一部現存する屋敷は現在でも見ることができます。 ちなみに高杉家のすぐ近くに桂小五郎 木戸孝允 の屋敷もあり、長州藩の人材の豊かさが垣間見えます。 高杉は幼い頃から負けん気が強く、次のようなエピソードが語り継がれています。 ある年の正月、遊んでいた自分の凧を、通りがかりの武士が踏んで壊してしまいました。 そのまま行こうとする武士に高杉は立ち向かい、大の大人に土下座までさせたそうです。 また、近所の円政寺に飾ってある大きな赤い天狗のお面を他の子供たちが怖がる中、晋作は好んで見に行ったというエピソードも残されています。 松下村塾での出会い 14歳になった高杉は、藩校である明倫館に入りました。 しかし明倫館での決まりきった授業に魅力を感じなかった高杉は、落第を繰り返します。 そして19歳の時、高杉に転機が訪れます。 吉田松陰の私塾、 「松下村塾」へ入ったのです。 松陰は若くして長州きっての秀才といわれた思想家で、黒船来航の際には密航を企て、獄に入れられています。 思想だけでなく、実行を重んじる松陰に、晋作は惹かれていきました。 CHECK 松下村塾は、身分を問わず本人の意思さえあれば誰でも入ることができました。 松陰は一人ひとりが持つ才能を伸ばす方針を取り、只教えるのではなく積極的な議論を促します。 このような教育から、地元の小さな私塾であったにも関わらず、明治維新の後に初代総理大臣となる伊藤博文や、山県有朋、木戸孝允等を始め様々な優秀な人材が育ちました。 晋作の性格を見抜いた松陰は、一つ年上である久坂玄瑞と競わせることで、能力を引き出していきます。 やがて高杉と久坂は塾生の「竜虎」や「双璧」と称されるようになるほどに成長していきました。 20歳の時、晋作は江戸へ遊学に行きます。 松陰とは手紙でやり取りしており、ある時晋作は 「男の死に場所というのはどこか」と質問を投げかけます。 すると松陰は 「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。 生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」と返しました。 この松陰の死生観は、後年まで晋作に大きな影響を与えました。 安政の大獄で捕らえられていた松陰が処刑されたのは、1年程の遊学を終え、晋作が江戸を離れた10日後でした。 上海への渡航 萩に戻った晋作は、両親の勧めもあり「萩城下一の美人」と称されていたマサと結婚します。 しかしその後すぐに、江戸への航海実習、剣術修行の試撃行 北関東、信州、北陸への旅 に出てしまいます。 この旅の中で様々な人物に会った晋作は、更に勉学に力を入れます。 松陰が処刑され、晋作の胸にあったのは、 外国視察。 それは松陰が果たすことの出来なかったものでした。 東行庵の敷地内にある司馬遼太郎「街道をゆく」の文学碑 帰国した晋作は、幕府打倒の実現に力を入れていきました。 同士を募り幕府打倒の計画を練っていた高杉に、藩は大胆な行動を控えるよう注意を促します。 藩の弱腰な姿勢に憤った高杉は、10年の暇を願い出ました。 そして文久2年の12月、幕府が建設中だったイギリス公使館を、伊藤博文や井上馨ら仲間と共に焼き討ちしてしまいます。 しかし江戸庶民の焼き討ちへの賛同が強く、幕府は深く犯人の追求をしませんでした。 文久3年5月10日、開国反対だった長州藩は、沿岸を通る外国船に砲撃を行います。 一ヶ月後に報復に訪れた外国船は、近代的な兵器を備えていた為に、長州藩の武士達はまともに戦うこともできませんでした。 この力の差を目の当たりにした長州藩は、海外視察の経験もある高杉を呼び出しました。 意見を求められた高杉は、こう答えます。 聞いて恐ろし見ていやらしい 添うて嬉しい奇兵隊 西洋式の戦略と兵器を用いた奇兵隊は、下関の防御を命じられます。 また、奇兵隊に続いて藩内には次々に民衆の軍隊が結成されました。 相撲取りの力士隊、商人の朝市隊、神主の神威隊、漁師の遊撃隊など 諸隊の数は200、兵力は2000人に達しました。 ところが、民衆が武器を持つことを好まない武士達との間で対立が起き、奇兵隊士が武士を斬りつける事件が起こりました。 高杉は責任を取り、奇兵隊の総督を解任。 その後軍事行動の方針で藩士と対立した高杉は脱藩し、その罪によって牢に入れられます。 この間、京都で長州藩士が幕府の命を受けた新選組に殺される事件が起こります。 池田屋事件です。 これを受け、長州軍は京都に進攻するも、幕府方についたの薩摩軍と会津軍に破れてしまいます。 晋作の盟友、久坂玄瑞もこの時戦死。 その知らせを聞いた晋作は悔しさに打ちひしがれました。 幕府に立ち向かったとして、長州藩を武力で制圧する命令が出されます。 いわゆる第一次長州征伐で、全国の大名に動員が命令されました。 それだけでなく、長州藩を更に危機が襲います。 欧米列強の艦隊が来襲し、下関の砲台が占領されたのです。 この危機的状況に、藩が望みを託したのが高杉でした。 藩主の命により4ヶ月に及ぶ幽閉を解かれ、外国艦隊との停戦交渉を任されたのです。 交渉の相手は、イギリス提督。 直垂 ひたたれ に烏帽子 えぼし といった格好で現れた高杉は、終始相手を圧倒します。 相手が提示した停戦条件は、300万ドルもの賠償金の支払い。 当時の日本円で900億円もの大金でした。 高杉はこれを拒否します。 この争いの責任はそもそも幕府にあるのだから、請求は幕府にしろと言い放ちます。 これに対しイギリス提督は攻撃の再開をほのめかしますが、 「まだ長州には命を惜しまぬ人間がたくさんいる」 と屈しません。 結局、賠償金の請求は幕府に行われ、停戦となり、外国艦隊の脅威を免れました。 この時通訳をしていたイギリス人は後に、「高杉は魔王のように傲然としていた」と振り返っています。 しかしその頃、長州征伐の進軍が始まっていました。 長州軍は4000人に対し、幕府軍は15万。 普通に戦っても勝ち目はなく、この頃多数を占めていた藩内の保守派は、争いを避ける為に高杉らの追放を図ります。 命を狙われた高杉は、九州の福岡に身を隠しました。 幕府軍に囲まれた長州藩は、幕府の要求を受け入れ、家老3人の切腹を行います。 更に軍の参謀4人も処刑されてしまいました。

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高杉晋作 − 気まぐれ人物伝/幕末トラベラーズ

高杉 晋作

歴史ものの漫画やゲームで天才キャラとして描かれる高杉晋作。 「名前は知っているけど、どんな事をした人なのかいまいちわからない」という人も多いのではないでしょうか。 実態は、漫画に出てくるヒーロー以上といっても過言ではない程、短くも濃い人生なんです。 裕福な家庭に生まれて秀才 父親の高杉小忠太(こちゅうた)の収入は年間200石だったようです。 長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)・みちの長男として生まれる。 そして、晋作自身は吉田松陰(しょういん)が開いた『松下村塾』の中でも 四天王と呼ばれる程評価されていました。 お金持ちで秀才、人生の勝ち組です。 そのまま平穏に暮らしていれば、順風満帆だったかもしれない人生を自らぶち壊していきます。 尊王攘夷に没頭し、イギリス公使館を焼き討ち ヨーロッパやアメリカが技術力を背景にアフリカやアジアを植民地化していき、お隣の清(中国)はイギリスに『アヘン戦争』で負けて香港が奪われる有様。 「このままではいずれ日本も植民地になる」という事で、外国人(夷)を撃退する(攘う(はらう))べきという思想が出てきました。 これが『攘夷』で天皇を尊ぶ『尊王』が合わさって『尊王攘夷』。 この『尊王攘夷』という思想が志士達の中で盛り上がりをみせる中、ペリーが黒船でやってきて日本に強硬に開国をせまります。 結果的に日本は開国、その後、国内に各国の公使館が建設され始めます。 晋作は留学先の上海で植民地化されていく中国を目の当たりにし、このままでは日本も同じようになってしまうと危機感を抱き、帰国後から『尊王攘夷』運動に没頭。 まずは、手始めに子分を引き連れて品川御殿山にある イギリス公使館焼き討ちを計画。 部下には、後に大臣となった井上馨(かおる)や品川弥二郎、初代内閣総理大臣の伊藤俊輔(後の伊藤博文)がいました。 計画実行の日、各々は井上がこしらえた焼玉を一つずつ持ってアジトの妓楼に向かいます。 ここで計画露呈の危機が訪れます。 メンバーの一人が立小便していたところ、 「立小便したらダメだろ!」と番所に引っ立てられます。 取調べ中、 「焼玉が見つかって計画が露呈してはマズい」と、役人の目を盗んで 少しずつ焼玉の紙を剥いて食べ、最終的に食べきってなんとか証拠隠滅に成功します。 メンバーは無事にアジトに集結しイギリス公使館へ出発。 まずは、伊藤がのこぎりで柵を切断、焼玉を使って公使館を全焼させる事に成功。 妓楼に戻って、燃え盛る公使館を見ながらどんちゃん騒ぎしていたそうです。 しかし、こんな大事件を起こした晋作を藩は野放しにするわけにはいきません。 晋作は江戸から長州へ召喚されます。 すると、晋作は自ら頭を剃って『東行』と名乗り、 「10年間暇をいただきます 」と藩に休暇届けを出してなんと お坊さんになってしまいました。 奇兵隊の創設 『尊王攘夷』をスローガンにあげていた長州藩は、攘夷運動の一環として関門海峡を通過する外国船を砲撃します。 もちろん報復され、アメリカ、フランスの軍艦から凄まじい砲撃を浴びます。 当時の日本と欧米諸国の技術力の差は歴然、あっという間にご覧のとおり占領されてしまいました。 さて、圧倒的な武力の差を見せ付けられた藩主の毛利敬親(たかちか)は、お坊さんになっている晋作を呼びつけます。 晋作は初代『奇兵隊』の総督となりましたが、わずか3ヵ月後に、ある事件の責任を問われて罷免されました。 無断で京都に行ってしまい投獄される 晋作が『奇兵隊』総督を罷免された頃、京都で『八月十八日の政変』というクーデターが起こり、長州藩は京都から締め出されてしまいました。 会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件である。 出典: 長州藩内では武力で勢力を回復する案と、武力ではなく慎重に対応しようという案が対立していました。 晋作は慎重派のグループに属し、武力派のトップの来島又兵衛への説得を試みるも逆に臆病者呼ばわりされます。 晋作は 「 臆病者ではない証拠を見せましょう」という事で藩に無断で京都に行きます。 これが脱藩となり、投獄されます。 ちなみに晋作は重罪である(死罪もある)脱藩をなんと5~6回もしているのですが、 晋作の事がかわいい藩主は 「晋作のことだ、許してやれ」と、言っては投獄、謹慎レベルで済ませていました。 晋作が投獄中にフルボッコされる長州藩 晋作が脱藩の罪で投獄されている間に、長州藩は最大の危機を迎えます。 どれだけ フルボッコにされたのか時系列で辿っていきましょう。 1863年(文久3年)8月18日 『八月十八日の政変』で長州藩は京都を追放される。 1864年(元治元年)7月8日 『池田屋事件』で『松下村塾』四天王の吉田稔麿死去。 旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。 出典: 1864年(元治元年)7月19日 『禁門の変』で『松下村塾』四天王の久坂玄瑞、入江久一が死去。 前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。 出典: 1864年(元治元年)7月23日 『禁門の変』の責任を問うために、『第一次長州征討』の勅命が発せられる。 幕府は毛利敬親と定広の親子 以下、藩主親子と記す に禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張越前および西国諸藩より征長軍を編成した。 出典: 1864年(元治元年)8月5日 幕府が攻めてくるのは時間の問題という状況の中、昨年(1863年)長州藩が実行した外国船への砲撃に対して、 「懲罰攻撃すべきだ」ということで、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4ヶ国連合艦隊に攻められ、長州藩はこのままでは惨敗するという状況に。 特に1864年7月から8月にかけての状況が 悲惨過ぎます。 このような状況のなか、長州藩はあの男に運命を託します。 魔王の如く 長州藩は、獄舎から出て自宅謹慎中だった晋作を呼びつけ、連合国との講和の全権を任せます。 晋作の身分では講和使節の使者としては不相応、ということで家老の養子『宍戸刑部』という 架空の人物を名乗ります。 そして、通訳として晋作の 永遠の子分でイギリス留学経験のある伊藤を引き連れます。 中央:高杉晋作 右:伊藤俊輔(伊藤博文) 相手側司令官との談判にのぞんだ晋作の態度に連合国は唖然とします。 その場にいたイギリスの外交官アーネスト・サトウは晋作の事を 「 負けたくせに悪魔(ルシフェル)のように傲然としていた」といった内容を著書に書いています。 連合国側が要求した条件のうち、晋作は以下2点をきっぱりと拒否します。 賠償金300万ドル 晋作は、攘夷行動(外国人の撃退)は 「朝廷からの攘夷願いを受けた幕府の指示なんだから幕府に請求してね 」と長州藩への賠償金請求を退けます。 結局幕府は半分の150万ドルを支払い、残額は後年、明治新政権が支払いました。 彦島の租借 長州藩領の彦島を香港のように貸してくれ、と要求された晋作は、なんと『古事記』の講釈を始めます。 日本がどのように創られたのか、という話を延々とするのです。 連合国側はもちろん、通訳の伊藤も 「高杉晋作は気が狂った」と思うわけですが、これは晋作なりの作戦。 交渉をうやむやにし、結果的に彦島の租借を諦めさせました。 もちろん、その他の諸条件(外国船の通航の自由など)は受け入れて連合国側と折り合いをつけました。 潜伏、そして功山寺挙兵 さて、『第一次長州征討』が迫る中、この年の7月~8月にかけてフルボッコされた長州藩に戦力はありません。 長州藩は、晋作などが属する改革派が政権を退き、幕府寄りの俗論派が政権を握ります。 俗論派が政権を握ったことで、晋作は命を狙われ福岡まで逃げて潜伏、しばらく長州藩の情勢を観察します。 そして、俗論派政権は『禁門の変』の責任者を処罰して幕府に謝罪します。 これにより、『第一次長州征討』は武力衝突がないまま収束しました。 この状況をみていた晋作は下関まで戻り、 「挙兵して俗論派と戦おう 」と長州藩の各諸隊に説きますが、応じたのは『遊撃隊』と伊藤率いる『力士隊』の計80名程だけでした。 しかし、晋作はなんと たった80名程の兵で長府の『功山寺』にて挙兵し、長州藩正規軍に戦いを挑みました。 「いずれ他の諸隊も同調してくれるだろう」と賭けに出たのです。 晋作の賭けは的中し、奇兵隊をはじめとした諸隊が次々に同調、最終的に2000人程の兵を集めて、正規軍を破って政権を取り返し、藩論を倒幕へとまとめました。 この時の事を伊藤は後年以下のように語っています。 「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。 出典: 第二次長州征討 長州藩は外国と戦った経験から現実的に攘夷はムリだ、と感じたように、薩摩藩もイギリスと戦って同じく攘夷はムリだ、と感じていました。 生麦事件の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と鹿児島藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘である。 出典: 『禁門の変』では敵味方にわかれた両藩は、1866年(慶応2年)1月21日に坂本龍馬などの仲介で『薩長同盟』をむすびます。 この同盟によって、長州藩は薩摩藩や龍馬の『海援隊』経由で外国製の最新武器を購入しますが、その動きを察知した幕府は1866年(慶応2年)6月8日に周防大島に兵を上陸させます。 ここに『第二次長州征討』の幕が切って落とされました。 周防大島では幕府兵によって多くの無抵抗な島民が犠牲になったことを知り、長州軍は島を奪還すべく作戦を練ります。 まずは周防大島へ上陸する前に敵を混乱させる、ということで、海軍総督となった晋作が『丙寅丸(へいいんまる)』という軍艦で 前代未聞の作戦を実行します。 周防大島には『丙寅丸』の2倍の大きさの幕府の軍艦が4隻。 まともにやりあうと勝てません。 晋作は皆が眠りについた夜間に、カンテラの光だけで幕府の軍艦の間を縦横無尽に走りながら大砲を撃ちまくります。 攻撃に気づいた幕府側は反撃しようとしますが、当時は蒸気船。 蒸気を立ち上げるのに手間取っている隙に『丙寅丸』はさっさと引き上げました。 この奇襲攻撃に動揺した幕府側は、翌日の地上戦で島民の反撃もあってすんなり負けてしまいます。 ちなみに『丙寅丸』は『第二次長州征討』が始まる直前に、晋作が藩に無断で3万6千両で購入した船。 1両を4万円換算したとすると、14億4千万円の請求が後日長州藩宛てに。 晋作は、 10億円レベルの買い物を藩に相談せずに独断で実行したのです。 そして、長州藩領各地は合計16万5千人という幕府軍に攻め込まれますが、戦国時代の装備の幕府軍は最新兵器を装備しゲリラ戦術を駆使した長州軍(4千人)に惨敗します。 死去 かねてから肺結核に侵されていた晋作は、『第二次長州征討』中に藩から療養に専念するように命令されます。 命令に従い下関で療養生活に入るも時すでに遅し。 病状が悪化し、1867年(慶応3年)4月14日 「 おもしろきこともなき世をおもしろく」という辞世の句を残し死去。 享年27。

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高杉晋作の生涯:1839年 誕生〜幼少時代

高杉 晋作

高杉晋作の誕生 高杉は天保10年 1839年 8月20日、長州藩の上級武士である父、小忠太と母ミチの長男として生まれました。 屋敷は萩城下の菊屋横丁と呼ばれる一角にありましたが、一部現存する屋敷は現在でも見ることができます。 ちなみに高杉家のすぐ近くに桂小五郎 木戸孝允 の屋敷もあり、長州藩の人材の豊かさが垣間見えます。 高杉は幼い頃から負けん気が強く、次のようなエピソードが語り継がれています。 ある年の正月、遊んでいた自分の凧を、通りがかりの武士が踏んで壊してしまいました。 そのまま行こうとする武士に高杉は立ち向かい、大の大人に土下座までさせたそうです。 また、近所の円政寺に飾ってある大きな赤い天狗のお面を他の子供たちが怖がる中、晋作は好んで見に行ったというエピソードも残されています。 松下村塾での出会い 14歳になった高杉は、藩校である明倫館に入りました。 しかし明倫館での決まりきった授業に魅力を感じなかった高杉は、落第を繰り返します。 そして19歳の時、高杉に転機が訪れます。 吉田松陰の私塾、 「松下村塾」へ入ったのです。 松陰は若くして長州きっての秀才といわれた思想家で、黒船来航の際には密航を企て、獄に入れられています。 思想だけでなく、実行を重んじる松陰に、晋作は惹かれていきました。 CHECK 松下村塾は、身分を問わず本人の意思さえあれば誰でも入ることができました。 松陰は一人ひとりが持つ才能を伸ばす方針を取り、只教えるのではなく積極的な議論を促します。 このような教育から、地元の小さな私塾であったにも関わらず、明治維新の後に初代総理大臣となる伊藤博文や、山県有朋、木戸孝允等を始め様々な優秀な人材が育ちました。 晋作の性格を見抜いた松陰は、一つ年上である久坂玄瑞と競わせることで、能力を引き出していきます。 やがて高杉と久坂は塾生の「竜虎」や「双璧」と称されるようになるほどに成長していきました。 20歳の時、晋作は江戸へ遊学に行きます。 松陰とは手紙でやり取りしており、ある時晋作は 「男の死に場所というのはどこか」と質問を投げかけます。 すると松陰は 「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。 生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」と返しました。 この松陰の死生観は、後年まで晋作に大きな影響を与えました。 安政の大獄で捕らえられていた松陰が処刑されたのは、1年程の遊学を終え、晋作が江戸を離れた10日後でした。 上海への渡航 萩に戻った晋作は、両親の勧めもあり「萩城下一の美人」と称されていたマサと結婚します。 しかしその後すぐに、江戸への航海実習、剣術修行の試撃行 北関東、信州、北陸への旅 に出てしまいます。 この旅の中で様々な人物に会った晋作は、更に勉学に力を入れます。 松陰が処刑され、晋作の胸にあったのは、 外国視察。 それは松陰が果たすことの出来なかったものでした。 東行庵の敷地内にある司馬遼太郎「街道をゆく」の文学碑 帰国した晋作は、幕府打倒の実現に力を入れていきました。 同士を募り幕府打倒の計画を練っていた高杉に、藩は大胆な行動を控えるよう注意を促します。 藩の弱腰な姿勢に憤った高杉は、10年の暇を願い出ました。 そして文久2年の12月、幕府が建設中だったイギリス公使館を、伊藤博文や井上馨ら仲間と共に焼き討ちしてしまいます。 しかし江戸庶民の焼き討ちへの賛同が強く、幕府は深く犯人の追求をしませんでした。 文久3年5月10日、開国反対だった長州藩は、沿岸を通る外国船に砲撃を行います。 一ヶ月後に報復に訪れた外国船は、近代的な兵器を備えていた為に、長州藩の武士達はまともに戦うこともできませんでした。 この力の差を目の当たりにした長州藩は、海外視察の経験もある高杉を呼び出しました。 意見を求められた高杉は、こう答えます。 聞いて恐ろし見ていやらしい 添うて嬉しい奇兵隊 西洋式の戦略と兵器を用いた奇兵隊は、下関の防御を命じられます。 また、奇兵隊に続いて藩内には次々に民衆の軍隊が結成されました。 相撲取りの力士隊、商人の朝市隊、神主の神威隊、漁師の遊撃隊など 諸隊の数は200、兵力は2000人に達しました。 ところが、民衆が武器を持つことを好まない武士達との間で対立が起き、奇兵隊士が武士を斬りつける事件が起こりました。 高杉は責任を取り、奇兵隊の総督を解任。 その後軍事行動の方針で藩士と対立した高杉は脱藩し、その罪によって牢に入れられます。 この間、京都で長州藩士が幕府の命を受けた新選組に殺される事件が起こります。 池田屋事件です。 これを受け、長州軍は京都に進攻するも、幕府方についたの薩摩軍と会津軍に破れてしまいます。 晋作の盟友、久坂玄瑞もこの時戦死。 その知らせを聞いた晋作は悔しさに打ちひしがれました。 幕府に立ち向かったとして、長州藩を武力で制圧する命令が出されます。 いわゆる第一次長州征伐で、全国の大名に動員が命令されました。 それだけでなく、長州藩を更に危機が襲います。 欧米列強の艦隊が来襲し、下関の砲台が占領されたのです。 この危機的状況に、藩が望みを託したのが高杉でした。 藩主の命により4ヶ月に及ぶ幽閉を解かれ、外国艦隊との停戦交渉を任されたのです。 交渉の相手は、イギリス提督。 直垂 ひたたれ に烏帽子 えぼし といった格好で現れた高杉は、終始相手を圧倒します。 相手が提示した停戦条件は、300万ドルもの賠償金の支払い。 当時の日本円で900億円もの大金でした。 高杉はこれを拒否します。 この争いの責任はそもそも幕府にあるのだから、請求は幕府にしろと言い放ちます。 これに対しイギリス提督は攻撃の再開をほのめかしますが、 「まだ長州には命を惜しまぬ人間がたくさんいる」 と屈しません。 結局、賠償金の請求は幕府に行われ、停戦となり、外国艦隊の脅威を免れました。 この時通訳をしていたイギリス人は後に、「高杉は魔王のように傲然としていた」と振り返っています。 しかしその頃、長州征伐の進軍が始まっていました。 長州軍は4000人に対し、幕府軍は15万。 普通に戦っても勝ち目はなく、この頃多数を占めていた藩内の保守派は、争いを避ける為に高杉らの追放を図ります。 命を狙われた高杉は、九州の福岡に身を隠しました。 幕府軍に囲まれた長州藩は、幕府の要求を受け入れ、家老3人の切腹を行います。 更に軍の参謀4人も処刑されてしまいました。

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