美智子 さま 意地悪。 美智子さまが意地悪された人意地悪した人?美しすぎる若い頃の画像!

美智子様の性格は意地悪できつい?バッシングの噂!髪型の作り方(やり方)|cdn.snowboardermag.com

美智子 さま 意地悪

現在の40代以上の人は、かろうじて香淳皇后を覚えているでしょうか。 昭和天皇の奥様で、62年も長期間、皇后をしていた久邇宮 くにのみや 家出身のお姫様です。 あんまりテレビでは見かけなかったですが、たまに見るとでっぷりしたおばあちゃんだなーと思ってました。 子供の頃は、国民にたいへん人気だった美智子さまの嫁イビリをしたお姑さんとしての方が有名でしたっけ 笑。 でも、いま思い返すと、おっとりとした優しそうな方だなあと思います。 【参考】 香淳皇后のプロフィール 昭和を生きた方は、本当にエピソードが多くてまとめるのが大変ですが、簡潔に。 名 前:香淳皇后(こうじゅんこうごう) 生年月日:1903年(明治36年)3月6日 ~ 2000年(平成12年)6月16日 在 位:1926年(大正15年・昭和元年)12月25日 ~ 1989年(昭和64年〉1月7日 本 名:良子(ながこ) お 印:桃 第124代、昭和天皇の皇后さまで、第125代の平成の上皇のお母様。 今上 令和 、秋篠宮文仁親王、黒田清子さんの祖母で、愛子さまと悠仁さまのひいおばあちゃんにあたる方です。 生粋のお嬢様育ちで、写真を見てもお雛様のように可愛らしく、人を疑うことを知らない方だとよく言われています。 この時代の公家や宮家、旧華族の方々は、みな優雅でした。 香淳皇后のカラー写真はないけれど、即位礼のときの装束を後にお召になったと言われているもの。 大正のものとそっくり。 雲の上の方々は、自分たちの息がかかった女性を天皇の妃として日本最高の権威を手に入れたいため、我先にと自分の息がかかった女性を推薦したいので、派閥が発生します。 香淳皇后(当時は良子)が皇太子妃に内定した後、他の女性を推薦したい思惑を持っている勢力が、香淳皇后の家系に色覚異常の遺伝があることをリーク。 子孫にも遺伝していく可能性が指摘されたため、皇統に色覚異常の遺伝子を入れていいものか、と、軍部と政界に強い影響力を持っていた元老の山縣有朋 やまがたありとも らが、香淳皇后に婚約辞退を迫ったのです。 宮中はもちろん、政界や世の中を巻き込んだ大騒動に発展し、「宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)」という名前がつけられるくらいの事件になりました。 しかし、香淳皇后を推薦した貞明皇后を筆頭に、旧宮家や旧家族の方々が結束して婚約の破棄に反対を表明。 最後は昭和天皇の「良子(ながこ) がよい」という意向で、婚約破棄の話はお流れに。 山縣有朋の影響力はすっかり弱まってしまい、まもなく死去してしまいました。 昭和帝と香淳皇后は、非常に仲の良いご夫婦でした。 おふたりの間には結婚後10年以上男の子が生まれず、見かねた側近から側室を勧められましたが、昭和天皇が「良子 でよい」と断ったバージョンもあります。 神話の時代から昭和の今の今まで、天皇家の直系にずーーっと民間の血は入っていなかったし、香淳皇后自身がバリバリの正統派皇族でした。 伝統を覆すのは、やはり相当の抵抗があったのでしょう。 しかし上皇の強い意志と、昭和帝は美智子さまの母親の富美子さんが苦手だったものの、最終的には「皇太子が選んだ女性ならいいじゃないか」という暖かい寛容な賛成により、美智子さまの入内が叶います。 昭和帝は生物学を学んでおり、あまり血を濃くしないほうが優生学上いいと考えていらしたのでしょう。 美智子さまティアラ事件 そして実際に美智子さまが入内したあと、皇室の複雑なしきたりを教えるのは香淳皇后の役割です。 旧皇族や旧華族ご出身の方でもマスターするのは大変なのに、民間出身ではなおさらのこと。 いろいろとお教えしようとしたのですが、美智子さまは予想以上にたいへん我が強かった。 香淳皇后とはウマが合わず、「ティアラのつけ方が違う」と何度注意しても、これを聞き入れない。 相談を受けた高松宮妃喜久子 きくこ さまが、やんわりと注意して位置を直したそうですが、その数分後に美智子さまは、 ご自分で元のオリジナルの位置に戻してしまったそうです。 「もうお教えしません」と言われてしまいました(皇室でこういう態度は良くないです^^;)。 美智子さま夕食をボイコット事件 皇居の夕食は、天皇皇后両陛下と皇太子ご夫妻がいっしょにとられておりましたが、やはり香淳皇后と美智子さまはぎくしゃくしていていた様子です。 美智子さまがぎこちない雰囲気に耐えられなくなり、何回か続けて夕食を欠席されたことがあるそうな。 これが何回も続くと「美智子は来るに及ばず」と、さすがの昭和帝もご不快をあらわにされました。 数人の侍従になだめられて数日後、美智子さまはどうにか夕食の席に戻られたというエピソードもあります。 時代が移り変わったせいもありましたが、美智子さまは姑のご自分以上に衣裳はどんどんつくるし、静養は 軽井沢のホテルを豪華に一ヶ月借り切っていましたし、海外公務にもたくさん行ってました。 昭和帝もちょっと甘やかしすぎじゃね?と思いますし、香淳皇后もたいへん寛容だったと、私は思います。 スポンサーリンク 香淳皇后が美智子さまを無視事件 それでも香淳皇后だって人の子、そういうことが重なり、立場的にはるかに格上の自分より、嫁の美智子さまの方に国民やマスコミの注目度が断然高い。 おもしろくないわと思ったって仕方がありません。 動画は見つからないのですが、昭和50(1975)年9月30日、昭和帝と香淳皇后がアメリカ訪問にご出発になる日のこと。 昭和帝は美智子さま、続いて皇太子 現在の上皇 に丁寧に頭を下げられました。 その後に続いた香淳皇后は、常陸宮さまに挨拶なさったあと、美智子さまの前をすっと通り過ぎ、皇太子さまに深くお辞儀をされたのです。 モニターの画面に映る映像は後ろ姿でしたが、美智子さまの前を素通りされたのははっきりわかりました。 このシーンの一部始終は、テレビで日本中に放送されていたというのに、日本国民に皇室内の不仲が知れ渡ってしまったのです。 これには、当時の侍従として有名な浜尾実氏もたいへん驚いたとのことです。 晩年は美智子さまに仕返しされた? 美智子さまには、おもしろくない部分が残っていたのでしょう。 ご実家は日清製粉ですし、弟妹が婚姻により財閥と閨閥を持ったので、マスコミを利用できるようになった美智子さまは、 ・痴呆が入った香淳皇后の姿をマスメディアにさらしたり ・外部と連絡を取るための電話を取り上げたり ・香淳皇后の馴染みの侍女を退け、自分の息のかかった女性たちに取り替えて孤立させたり という、「昔の仕返し」としか思えない、たいへん冷酷な仕打ちをなさっています。 美智子さまには、このようにあまり良くない噂もあります。 香淳皇后は昭和帝崩御後、皇太后となってからは、吹上御所で6人の少数の侍女たちとともに、静かに暮らしていました。 昭和帝が先に崩御されてしまい、本当にさみしかったと思います。 お姫様って家の中で守られてなよなよしてるものかと思っていたのですが、あの時代にあれだけ気丈に生きて、子供もきちんとと育て上げたのですからすごい方です。 昔の女性らしく慎ましやかで、あまり表に出てらっしゃらない方でしたが、このように動画でみると、大変穏やかで優しそうなおばあちゃんです。 とにかく激動の時代を統治した昭和天皇の横に、自然におられる存在感。 特に国民の歓声に応える「お手ふり」が、現在のアイドルちっくに手のひらをばーんと見せて横に振る方法と違い、どちらかというと手の甲を見せつつ振り振りされるやりかたが、貫禄があって好きです。 昭和帝も 香淳皇后 も、次の御代ことには口出しせず、静かに見守ってわきまえておられましたよね。 1年半も皇居に居続ける上皇ご夫婦と、この点はどうしても比べてしまいます。 【参考】 スポンサーリンク スポンサーリンク 美智子様は、唯我独尊ともいえるソーサーハット(皿帽子)の被り方や立ち振る舞いなどに見られるように自己主張が強く、それまでの皇室の伝統と違った行動から香淳皇后と軋轢はあったでしょう。 どちらが善でどちらが悪と決めつけることは庶民にはできません。 香淳皇后の方が立場は上だったのだから、対抗するためにマスコミを使い世論を味方につけようとした事も理解できます。 しかし、美智子様の罪は昭和天皇崩御の後、香淳皇后に対する報復に世論を巻き込んだことです。 そして、この手法はエスカレートしていき雅子妃殿下(当時)に対する虐め、嫌がらせにまでマスコミを使った世論操作を行ったことです。 そのやり方は韓国の告げ口外交とそっくりです。 (いや、こちらが元祖か) 残念なことに、今も自己アピールに同じ手法を使っています。

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皇太后さま(香淳皇后)は、美智子さまに対して「嫁イビリ」をしてい...

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美智子様の体調不良の原因は? 今、 で の番組を見ていますが、「天皇は日本の象徴」の意味が初めて分かった気がします。 正しく解釈できているでしょうか。 今まで、大変に、お疲れ様でした。 9月には乳がんの手術を受けられていて、心臓の不調も発見されたと言われていますよね。 美智子様の体重も減少したまま戻っていないということで、心配です。 宮内庁の発表では美智子様の体調不良は精神的なストレスが原因との見方を示していて、週刊誌などのバッシングで名誉を傷つけられるものがあったと指摘しています。 美智子様は、1993年出身大学が学習院大学ではなかったことで週刊誌などからバッシング報道を受けました。 当時の皇室の方々は皆さん学習院に通われたし、キリスト教と親和性の高い聖心女子大学だったことでバッシングを受けたわけです。 しかし、もともと美智子様は一般人だったわけですし、皇室に嫁ぐ前のことを持ち出されても美智子様自身納得いかないのではと思いますね。 美智子様は1993年10月20日に赤坂御所で倒れてしまい、声が出なくなる失声症となってしまいます。 このバッシングは宮内庁が反論を発表したことで落ち着いたのですが、このことがマスコミへの圧力だとも言われているようです。 それ以来、美智子様へのバッシングは雅子様へと移り、雅子様は長い間体調不良が続いたわけです。 雅子様が適応障害であることで、即位前には公務がこなせるのかとずいぶん心配の声が上がっていました。 しかし、雅子様が皇后になられた後にはしっかり公務をこなし、活き活きとされている雅子様のお姿から、意地悪されてきた美智子様が退かれたからなのではないかと言われているようです。 美智子様の体調不良で引越しも延期となっているのですが、そもそも体調不良も仮病なのではないかとか、引越しをしたくないからなのではないかとの声もあるようなんです。 スポンサーリンク 美智子様のバッシングは雅子様への意地悪が原因との声! 何年前だろう、、 銀座で偶然御料車でお出掛けされる美智子さまをお見掛けしたのことを思い出す。 美しく気品に溢れ優しいお顔で手を振っておられました。 あの時の美智子様の温かい雰囲気は遠くから拝見した私にも伝わってきました。 美智子様としては、優秀なキャリアウーマンだった雅子様が自分よりも脚光を浴びるのが許せないという嫉妬があったのではないかと思います。 意地悪の内容としては、美智子様が雅子様の靴を隠しただとか、お茶会の時間を遅めに伝えただとかその他にも色々ありましたが、国民の象徴である皇室でそんな意地悪があるなんてあまり気分の良いものではないですね。 実際に目の前で見たわけではないので、本当なのかどうかはわかりませんが、雅子様の海外への公務が許されていなかったことなどのことを考えると、そうだったのだろうと推測されますよね。 外務省に勤めていた雅子様にとっては海外の公務は得意分野なわけですから、それを禁止するということは雅子様の活躍の場を奪うことに等しいことです。 それほど美智子様は雅子様の実力を恐れていたということなのでしょうね。

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美智子様に意地悪した人は誰?性格きつい・雅子様に冷たい説を検証!

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美智子さまのご実家は? 美智子様のご実家は、大企業日清製粉です。 同時に、正田醤油という企業名を耳にすることがあります。 美智子様の祖先は、群馬県の舘林市にお住まいでした。 美智子様の旧姓が正田姓であるとおり、正田家の当主は正田文右衛門という名前を受け継いで、江戸時代から米問屋を営んでいたそうです。 米を扱っていたということもあり、明治に入ってから、地元群馬で醤油製造もおこなうようになりました。 この醤油業が正田醤油です。 正田醤油は正田家の本家筋の人間が経営していました。 智子様の祖父がは分家の出身で、日清製粉を創業した方です。 つまり、正田醤油というのは正田家の本家筋、日清製粉は美智子様の祖父が創業した会社ということです。 正田醤油と美智子様にはこうした関係がありました。 本家筋の正田醤油も、地元舘林では有名で、筆者が仕事で館林市に出張した際、美智子さまのお名前が今も住んでいる方々の話題になっています。 ご成婚当時は、皇室に嫁ぐにはやはり皇族か華族出身の人ではないとという時代。 一般人だった美智子様が皇室に嫁ぐことは異例でした。 美智子さま「テニスコートの恋」って? 今でもご年配のご婦人にお話を伺うと、少女のような表情で話してくださいます。 「テニスコートの恋」。 上皇ご夫妻のご成婚のキーワードです。 上皇さまと美智子さまが初めて出会われたのは、1957年8月です。 軽井沢に家や別荘をお持ちの方々の「軽井沢会」主催のテニス大会でした。 「テニスコートの恋」の始まりの、世紀の試合。 大会2日目。 上皇さまと早大の男子学生のペアが、美智子さまとカナダ人の13歳のボビー・ドイルさんペアと対戦しました。 結果、美智子さまのペアが2対1で勝たれました。 試合中、美智子さまのショットは正確で、ドイルさんにも的確なアドバイスをされていたそうです。 美智子さまは、関東学生新進テニス選手権大会で優勝されたこともあり、テニスのお腕前は相当なものだったようです。 試合後、上皇さまは「あんなに粘り強く正確に返球されたらかなわないね」とおっしゃいました。 その後、上皇さまと美智子さまはテニスを通じて親交を深められました。 ご成婚後のお写真です。 pinterest. jp 翌58年、5月の宮内庁の会議で美智子さまが皇太子妃候補に決まり、マークされるようになりました。 正田家にとって皇室は想像もできない嫁ぎ先です、 一度は結婚をお断りになられたとの話もありました。 9月初め、美智子さまは、聖心女子大学卒業生の国際会議の日本代表として海外へ旅立たれた。 10月26日のご帰国後から、上皇陛下は美智子さまに電話でアプローチをなさったそうです。 とは言っても、陛下が東宮仮御所から正田邸へ直接電話を入れると、どなたがお電話に出るかもわかりません。 ご迷惑をかけてはいけないというご配慮から、まず、上皇さまは知人(織田和雄さんとおっしゃるそうです。 )の電話を介して、美智子さまからお電話をくださるようお願いしていたそうです。 ほとんど毎日、20日間くらいお電話なさったそうです。 現在ならスマホがありますが、当時は黒電話 ダイヤル通信)の時代です。 上皇さまのお立場では、簡単にお電話なさることもできなかったのですね。 11月8日の夜、上皇さまはその知人の方に「あまり、うまくいっていない」打ち明けられだそうです。 その方は「世間では、柳行李(やなぎこうり)一つで来て下さい、というプロポーズの言葉があるんですよ」とお話しなさったとか。 昔の素敵なプロポーズの言葉だったのでしょう。 上皇さまはしばらくお考えになると、1時間くらいの長い電話を。 お電話のあと、上皇さまは顔を紅潮させておられたそうです。 いいお返事をいただけたのでしょうね。 正式に婚約発表されたのは11月27日。 半年後の59年4月10日にご成婚の運びとなりました。 上皇さまは子供の頃、両親とは別のところに住み、週末だけお会いになるという生活を送っておられました。 美智子さまは将来を見据え、浩宮さまや秋篠宮さまがお父さまから帝王学を学ぶのが一番いいと考えられ、家族が一緒に住むようにされました ご夫妻がご自分たちでお育てになったわけです。 これは、それまでの皇室の歴史を変えたことになり、そのために美智子さまへの圧力もあったそうです。 また、「テニスコートの恋」は嘘だ、本当は準備されてのことだった、という雑誌記事もあったそうです。 なぜかというと、上皇さまご成婚の頃は、恋愛結婚よりもお見合いの方が上等で、家柄の良い方はお見合い結婚するのが当然だと考えられていたからだそうです。 60年ほど前の日本の常識は、ずいぶん違っていたのですね。 ismedia. jp スポンサーリンク 美智子さま 美しすぎる若い頃 美智子さまのお若い頃のご容貌は、美しすぎです! お年を召すに従って、当然ご容貌は変わられましたが、筆者の祖母は「ご苦労なさったからだ」とよく話してくれました。 聖心女子大学を主席でご卒業なさった美智子さま。 学生時代、制服の上着のウエストを、こっそり細くしてお召しになっていたとの、乙女エピソードがあるそうです。 com ご成婚なさって、ますます美しさが輝くようでいらっしゃいます。 出典:Twitter 調べていて、筆者が素敵だなあ!と感激してしまったお写真です。 お子様を持たれてからは、お優しさがにじみ出るようですね。 multilingirl. com 美智子さまが意地悪された? 何もかもが慣例どおりではなかった、上皇さまご夫妻のご結婚や子育て。 当然、周囲からの抵抗があったのでしょうね。 調べてみると、いくつかエピソードがありました。 皇太子妃決定の記者会見でのこと。 美智子さまはVネックに七分袖の象牙色のドレス、白い鳥羽根の輪の帽子、ミンクのストールと、初々しさにあふれる装いでした。 com ところがドレスに合わせた手袋が、手首とひじの中間までの長さでした。 「正装であるべきこの日、手袋はひじの上まで届くものでなければならない」 早速、宮中からクレームが入りました。 けれども、この手袋は美智子さまが用意したものではありません。 東宮御所から届けられたものでした。 何らかの意図が働いていた、と思うしかありません。 これが有名な「手袋事件」です。 皇室に入られた美智子さまのお側に仕える女官長は、秩父宮勢津子さまの母・松平信子さんが推挙した、牧野純子さん。 信子さんは、女子学習院のOG会である常磐会(ときわかい)の会長でした。 常磐会は、明治以来、皇族妃・元皇族を中心にした組織で、皇室内における力は絶大なものがあったそうです。 この常磐会を中心に、平民からプリンセスになった美智子さまに対して反対運動が起きていたそうなんです。 信子さんの懐刀である牧野女官長と美智子さまは、早々からなじめませんでした。 ただひとり宮中に嫁いだ美智子さまは、東宮御所にいても、肩の力を抜く暇もなかったといいます。 あるとき、美智子さまが礼儀作法について、彼女に尋ねると、こうはねつけられたとか。 「それくらいは、ご自分でお考えになってください。 妃殿下になられて、もう何か月にもおなりになったのですから」 牧野女官長の冷ややかな態度は日々増していき、美智子さまは孤独にお悩みになりました。 「美智子妃いじめ」は静かにエスカレート。 1960年2月23日、待望のお世継ぎ・浩宮徳仁親王(今上陛下)を出産された美智子さま。 退院の際、車に乗られ、浩宮さまを抱かれた美智子さまは、待ち構える報道カメラマンへの気配りで、窓を半分開けられました。 例によって宮中からクレームが。 「皇室には伝統があって、妃殿下が人前で赤ちゃんを抱かれることはない。 その上、生まれたばかりの赤ちゃんをストロボにさらすとは…。 第一、窓を開けて風邪をひいたらどうするのか。 」 この約半年後に行われた会見で、美智子さまは次のようにお話になりました。 「難しいと思うこともあるし、つらいこともあります。 いつになったら慣れるのか、見当がつきません。 ときには、八方ふさがりのような気持になることもあります」 常磐会の反対運動をきっかけに始まった、「美智子妃いじめ」は続きます。 しかし、美智子さまはプリンセスとしての自覚と気品を失うことはありませんでした。 数え切れない誹謗、中傷に対しても、一切反論されることはなかったそうです。 上皇さまとお子さまがたへのひたむきな愛情。 お立場をわきまえた、ひかえめなお姿に、古き良き時代の高貴な奥方さまのイメージを持たれた方も少なくなかったようです。 一般の方々は、美智子さまのお味方。 そして、上皇陛下の深い愛情が美智子さまをお守りになったのでしょうね。 スポンサーリンク 美智子さまが意地悪だという中傷! ヤフコメ 「絶対出てくると思った」 「弔問に行くのに窓を開けてニッコリ」 「弔問するのになんか嬉しそう(略)」 — カノン kanon83939 退位後、上皇夫妻が… いや、美智子様が… こんなに口出ししてくるとは思わなかった。 そして、やはり平成天皇は美智子様だったのだなと思う。 明仁上皇は女房の尻に敷かれて喜んでた。 すでに、女性天皇は存在した。 しかも、民間人だ。 — 青い鳥 ZB3Ako4ovMieg7x こういうツイートが、いまだに多く寄せられています。 なんと、ゲームキャラに「美智子さま」、武器が「血まみれの扇」。 関係ない、といわれればそれまでなんですが。 代替わりの際も、雅子さまはこれまで美智子さまにいじめられ続けてきた、というツイートが多数上がりました。 美智子さまは以前からインターネットを利用なさっています。 美智子さまがネット上の心ない誹謗中傷の数々をご覧になっていることが心苦しいです。 雅子さまにとって、美智子さまと比べられることも大きなプレッシャーになっていたのでしょう。 しかし、美智子さまも、苦悩を抱える雅子さまに寄り添えないことに、お心をいためていらっしゃったはずです。 適応障害にかかられた雅子さまに、当時美智子さまは「東宮妃の回復を願い、助けになりたい」と会見でお話になりました。 しかし、実際には一時期、雅子さまと美智子さまは疎遠になってしまったそうです。 上皇陛下が「愛子と会う機会も限られ、残念。 」と会見で語られるほど。 当時、美智子さまは知人に「今は、ただ待つしか無いのよ」と苦しさを語られていたそうです。 誹謗の矛先が美智子さまに向いてしまった背景には、皇后となられた雅子さまの「著しい復活」があると皇室担当記者がのべているそうです。。 天皇陛下が即位して以降、雅子さまは数々のご公務をパーフェクトにこなされています。 これほど急激なご快復は、雅子さまをいじめてきた美智子さまが表舞台から身を引かれたからに違いない、という憶測があるというので、驚きです。 でも、考えてみてください。 美智子さまは皇太子妃になられて以来、皇室のしきたりの中で大変な思いをされてきました。 先述のように、「いじめ」に近い体験もなさったはず。 ご自分がやられておつらかったことを、雅子さまになさるはずがないと思いませんか? 祝賀パレード延期も美智子さまのご意向? 「週刊新潮」2019年10月31日号に、次のような内容が掲載されました。 祝賀パレードの延期について、政府は「国民感情に配慮して内閣が決めたと発表しています。 しかし、パレードの当事者であられる両陛下、さらには美智子さまのご意向が強く反映されていたというのです。 10月15日、天皇皇后両陛下は、依然として多くの方の安否が不明であること、数多くの方々が被災されていることに大変心を痛めていらっしゃいました。 また、20日にお誕生日を迎えられる美智子さまが、ご自身に関する祝賀行事などすべてを中止するとも発表なさいました。 今上陛下は、台風の被害のご心配をなさっていました。 その前後で陛下から「どのような形で(パレードが)進められるか検討してみてください」というご意向が侍従に伝えられ、宮内庁と官邸とが協議することになりました。 ただ、ここで大きな力となったのが、上皇后さまの強い「お気持ち」だったというのです。 かつて上皇さまとお二人であらゆる被災地を訪れ、被災者に寄り添ってこられた上皇后さまからすれば、祝いごとの中止は当然です。 ご自身の代であれば、直ちに被災地へ駆けつけられても不思議ではありません。 そんな「平成流」を知る宮内庁職員は、パレードをこのまま行えば、今上陛下が上皇さまと比較されてしまわれないか、と危惧したということです。 祝賀パレードもまた、国事行為である「即位の礼」の一部です。 行為の主体は陛下ですが、憲法には「内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」とあるそうです。 それでも、今回は両陛下、ひいては美智子さまの強いご意思のその通りに進めるしかない、という安倍政権の判断だということです。 ここには、別の懸念が生じかねないといいます。 今回は、天皇皇后両陛下のご心配よりも、お誕生日の祝賀中止とあわせて美智子さまの強いご心痛がクローズアップされてしまいました。 結果的に今なお、上皇ご夫妻、特に美智子さまのご意思が強い影響力を持っていることが露わになってしまった、ということです。 何事を行うにも「平成流」と比べられかねない今上陛下ご夫妻。 こうした状態が続けば、雅子さまのご体調に影響が出かねない、と記事にはあります。 療養中には、実父の小和田恆元外務事務次官からも、 「今を耐えれば、ゆくゆくは皇后になる時代、あなたの時代が来るのですから」 といった趣旨の励ましを受けられていたという雅子さま。 万が一にも「二重権威」になれば、雅子さまに影響が出る、という文脈でした。 ただ、こうした状況は、上皇さまが生前退位なさるときから当然予想されていたことです。 歴史上には、天皇以上に権威を振るった上皇もたくさんいらっしゃいました。 内閣や宮内庁が「生前退位」に慣れていないだけではないでしょうか。 国民は、そんなことを考えてはいないと思います。 次項もそうですが、何かと言えば美智子さま対雅子さま、という構図にしたがるマスコミにも責任があるのでは? スポンサーリンク 美智子さまが雅子さまのお手伝いを拒否? こんな報道もありました。 吹上仙洞御所にある品々の多くは、歴史的文化的にも貴重な逸品です。 一般の宮内庁職員には荷物の整理が出来ません。 そんな状況を見かねて、雅子さまがお引っ越しのお手伝いを申し出られたそうです。 けれども、 美智子さまは「こんなことに皇后陛下の手を煩わせるわけにはいかない」と大変強い語調で仰って、雅子さまの申し出を断られてしまったということです。 美智子さまは、全ての仕分け作業をご自身の手で行おうとお考えのようで、退院直後には連日、長時間作業に取り組まれていらっしゃいました。 しかし、あまりにもお荷物が多く、 年内のお引越し作業の完了は絶望的だろうとご心配する 宮内庁職員も多いそうです。 二重権威が不可思議な噂を生まないためにも、早急なお引っ越しが必要だと言うことです。 ただ、記事には誇張があるようにも感じます。 強い口調でおっしゃった、というのは、雅子さまのご体調をご案じになってのことですよね。 それでなくとも、ご療養から皇后の激務に就かれ、ご体調が心配される雅子さま。 上皇ご夫妻のご家庭のことにお手を煩わせるわけにはいかない、というご高配ではないでしょうか。 出典はこちらです。 美智子さま 美しすぎる若い頃と意地悪の噂 まとめ• お若い頃の美智子さまは美しすぎ、上皇さまとの恋愛結婚が素敵だった。 美智子さまは、初の民間からの皇太子妃で、様々な苦労をなさってきた。 同じ立場の雅子さまに意地悪をされるはずがない。 代替わりに際してまで、二重権威を心配するのはいきすぎだ。 宮中といえば、私たちにはわからないことだらけです。 おそらく想像もつかないご苦労をされてきたであろう美智子さま。 なるべく早くゆっくりなされる環境をお整えして差し上げたいものですね。 皇室に関して、いくつか記事をまとめさせていただいております。 よろしければお立寄りください。 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました! スポンサーリンク.

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