きめ つの や い ば 甘露 寺 み つり 画像。 COCOとちくわの「なんちゃって歳時記」

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アイロンビーズの図案はあくまで個人で楽しむファンアートで、子供達の集中力、興味、手先運動の為に趣味で作っています。 アイロンビーズの図案をベースにしているキャラクターの著作権はそれぞれのメーカー又は製作者のものとなります。 著作権元様の方から削除依頼のご連絡あった際には、すみやかに削除いたします。 図案の販売や他のブログやメディアの転載、コピーは禁止です。 Recent Posts• カテゴリーで検索• 895• 218• 105• 538• 318• 23 我が家のやんちゃな坊やたちにテレビやビデオゲームではなく家でおとなしく何かに打ち込めるものはないものか?と考え、なんとなくアイロンビーズを購入してみました。 それが思った以上に子供たちのツボにはまり、次々と作品を作りはじめました。 小さな作品はすぐに仕上がってしまうので集中力を鍛えると言う点ではいまいち?!そこからもう少し大きい作品の為に図案を作り始め、このブログが始まりました。 ブログに関して アイロンビーズの図案はあくまで個人で楽しむファンアートで、子供達の集中力、興味、手先運動の為に趣味で作っています。 アイロンビーズの図案をベースにしているキャラクターの著作権はそれぞれのメーカー又は製作者のものとなります。 著作権元様の方から削除依頼のご連絡あった際には、すみやかに削除いたします。 図案の販売や他のブログやメディアの転載、コピーは禁止です。 カテゴリー• 895• 218• 105• 538• 318•

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吉川英治 剣難女難

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いわば五月は革命月だった。 誌 ( しる )すべきことが余りに多い。 路次の日誌によれば。 さきに 伯耆 ( ほうき )の 船上山 ( せんじょうせん )を立たれた帝の 瑶輿 ( ようよ )(こし)は日をかさねて、二十七日、 播磨 ( はりま )の 書写山 ( しょしゃさん )まで 御着 ( ごちゃく )。 あくる二十八日は、法華山へ 行幸 ( みゆき )され、あとは一路いそいで月のすえ三十日、 兵庫 ( ひょうご )の 福厳寺 ( ふくごんじ )につき、ここで中一日は御休息あったとある。 しかし、それはただ単なるお泊りだけのものではない。 とりあえず、福厳寺に入り、庭上の二使から正式に新田の 羽書 ( うしょ )(軍の急便)の捧呈をうけた。 そして公卿はこれをすぐ、 叡覧 ( えいらん )にいれたのだった。 まもなく。 御座 ( ぎょざ )のあたりから、御喜悦と感動に 震 ( ふる )うお声がもれ、それはすぐ 供奉 ( ぐぶ )の全員にも狂喜の渦をよびおこした。 せつな福厳寺の内外は、わきかえるような歓声また歓声だった。 「鎌倉は陥ちた!」 「高時も自害とあれば」 「いまは六波羅もなし、東国の府もほろび、全北条は、地から消えた」 「しかも、還幸のご途上に、この吉報がとどくとは」 「去年の三月には、みかどの 隠岐遠流 ( おきおんる )を、人みな、ここでお見送りして悲しんだものだが」 口々の昂奮はやまず、どよめきはいつまで 醒 ( さ )めなかった。 こうも早く鎌倉が陥ちるとは、まだまだ予期されていなかったことである。 配所の一年余、隠岐脱出の苦難、思い出はつきあげて、おん瞼はふと熱かったに違いない。 ……すぐ三位ノ局 廉子 ( やすこ )もこれを聞くやいなおそばへ来ていた。 また、同日。 赤松円心 父子 ( おやこ )四人が、 勢 ( せい )五百騎で、奉迎のお供にと、福厳寺へ 参向 ( さんこう )してきた。 折しものことである。 龍顔わけてうるわしく、 「かかる日に会しえたのは、ひとえに汝らの忠戦の功による。 いずれ恩賞は望みにまかすぞよ」 と、朗々としたおことば。 将士へも、 賜酒 ( ししゅ )があった。 この晩、たれにもまして、もて 囃 ( はや )されたのは、新田の使者の二人だった。 野営の庭では供奉の将士から酒攻めの果て、胴上げされんばかりな騒ぎ。 これさえホホ笑ましくお聞きあるのか、 御簾 ( ぎょれん )のあたりのお叱りもない。 そして 鶏鳴 ( けいめい )早くも、いよいよ都入りのおしたくに忙しかった。 還幸の途々は、 伯耆 ( ほうき )いらい、ここまでも、たいへんな 列伍 ( れつご )だった。 頭 ( とう )ノ大夫行房と、 勘解由 ( かげゆ )ノ次官光守は、衣冠すがたで、馬上。 ほかの公卿官人はみな、騎馬 戎衣 ( じゅうい )(軍装)で供奉についた。 出雲の守護、 塩冶 ( えんや )判官高貞も、国元兵をつれて、前駆の役をつとめている。 朝山太郎は五百騎で後陣にしたがい、 金持 ( かなじ )大和守は、錦の旗を捧持し、また、伯耆守名和長年は、 帯剣の役 といって、主上のすぐそばに騎馬を打たせ、 「途上、万一でもあらば」 と、警固のまなこをくばって行く。 これは名誉第一の役目らしい。 雨師 ( ウシ )、道ヲ清メ 風伯 ( フウハク )、 塵 ( チリ )ヲ払フ と、古典の形容も過大ではなかった。 ゆらい沿道の行粧に、威儀や綺羅をたっとぶ風は、古い王朝ほどうすく、時代がさがり、乱に乱をかさね、世間の瞼が、権力のまばゆさを覚えてくるほど、それはものものしい 故実 ( こじつ )を積んで 人心収攬 ( じんしんしゅうらん )の演出を、諸民のなかに 凝 ( こ )らしてみせた。 まして、今日はだ。 つい一年前には、 囚人輿 ( めしゅうどごし )で隠岐ノ島へ送られた道を、この還幸となったこと。 大納言ノ局、三位ノ局 廉子 ( やすこ )など、隠岐このかたの、 妃 ( ひ )たちもお連れなのである。 廉子は、昨夜らい、 「こういう時にこそ、かえって一時のお疲れが、どっと出ぬでもありませぬ。 なるべく朝は 朝涼 ( あさすず )のまに、お道をすすめ、京もはやとて、おいそぎなく」 と、それのみでなく、こまかいご注意をすすめていた。 そのいそいそしさ、良人の晴れの日を見た 糟糠 ( そうこう )の 妻 ( つま )の風がある。 中一日の御逗留のまに、 「 御衣 ( おんぞ )もこれでは。 ……お 帝冠 ( かんむり )も、ま新しいのに」 と、お身まわりから、乗車のさしずまで、行房をつうじて、一切のきりもりしていた彼女は、当然、自身の 后車 ( きさきぐるま )やら身粧いにも、細心な装いを忘れなかった。 それだけを見れば、あたかも、彼女自身の凱旋を、彼女がときめいているようだった。 あるいは、こういう日の誇らしさに酔うことは、女人のほうが数倍かもしれなかった。 なにせい、今朝の阿野廉子が、軍兵環視の中を、 車御簾 ( くるまみす )のうちにかくれた姿には、もう 島窶 ( しまやつ )れの 翳 ( かげ )もなかった。 輿 ( こし )はすて、みかども、妃たちも、ここからは牛車となられたわけである。 前駆の 塩冶判官 ( えんやほうがん )が、駒を返して来て、 「 頭 ( とう )ノ 殿 ( との )、頭ノ殿」 と、行房へ告げていた。 「ただいま、行く手の先に、河内の楠木 多聞兵衛 ( たもんびょうえ )正成が、家の子郎党をつれ、お迎えにと、これへ 馳 ( は )せ参じてまいりました。 「なに。 河内の正成がこれまで来たとか。 ……車を止めい。 そして、まずは正成一人に、ここへと申せ」 正成は、西の宮へ、今朝ついたばかりであった。 「何は 措 ( お )いても……」と急遽、 参向 ( さんこう )したのであろう。 千早の籠城半年余の囲みが解け、死中に活をえたのも、つい二十日前のことでしかない。 錣 ( しころ )のボロを縫い、具足の破れをつくろい、ただ肌着を清めて来ただけの姿なのだ。 「お召ぞ」 との伝令で、彼は歩いて、一人、み車立ての方へみちびかれて行ったが、気がつく者があれば、正成自身もすこし 跛行 ( びっこ )をひき、その頬肉のソゲも、他の諸大将の比でない 窶 ( やつ )れ方と思われたにちがいない。 だが、衆目はそう取らず、かえってべつな思いをしたかもしれないのだ。 「……これが百七十余日、敵数万の包囲の中で、千早の 孤塁 ( こるい )をささえて来たあの大将か?」と、その風采や太刀粧いの見すぼらしさに、ふと軽侮に似た案外な 容子 ( ようす )を、露骨にただよわせた人々もなくはなかった。 「……おん前に」 正成は言って、み車の 轅 ( ながえ )の下に坐り、地へつけた 両肱 ( りょうひじ )と平行に、かしらを低く垂れていた。 「楠木か」 と、後醍醐は、み車のすだれを 掲 ( かか )げ、乗り出すように下を見て。 「……やれ 兵衛 ( ひょうえ )、よく見えたの。 思えばまた、よくも再会しえたものよな」 「はっ」 「 笠置 ( かさぎ )いらいか」 「は」 「そうだったな」 「 御意 ( ぎょい )にござりまする」 「 茫 ( ぼう )として、遠いむかしのようだし、つい昨日のようでもある」 「…………」 正成は、ご感激にこたえて、何か言上せねばと思い、また、およろこびを述べるべきだとも知っていたが、何も口に出なかった。 河内の片すみにある一土豪に過ぎぬ身が、伝奏も経ず、じきじきなお答えなどはどうだろうか。 そんなためらいも交じっているまに、後醍醐のほうは、溢れる感激のままに叡慮余すなく吐いて。 「 兵衛 ( ひょうえ )。 そのほうの終始変らない忠誠は忘れはおかぬぞ。 そのほうなくば、今日の還幸は見ることもできなかったろう。 回天の業も夢に終っていたかもしれぬ」 「…………」 正成の顔が、地を濡らしているふうだった。 その破れ烏帽子が、ふるえて見えた。 後醍醐は、凝視のまま、ここで彼へも他の武将なみに、よく仰っしゃることを、仰っしゃった。 「いずれ恩賞は望みにまかすぞ。 沙汰を待て」と。 供奉 ( ぐぶ )の公卿へむかって、 「兵衛の 勢 ( せい )は、列の先に立たせ、都入りの前陣を勤めさすがよい」 とも直命された。 正成は、面目をほどこした。 恩賞そのことよりも、彼には、その直命が、ありがたかった。 千早百日の苦闘も今一瞬にむくわれた思いがしていた。 西の宮から先、 鹵簿 ( ろぼ )は、正成以下の 畿内 ( きない )の兵数千が露ばらいして進み、六月五日の夕、 東寺 ( とうじ )に着いた。 ここでお待ちしていた洛内軍には、 千種 ( ちぐさ )ノ中将 忠顕 ( ただあき )があり、足利高氏、弟 直義 ( ただよし )も見えている。 中でも一トきわ目についたのは、佐々木道誉の 黄母衣 ( きほろ )組の美々しさだった。 彼も急遽、近江からこれに会して、 「足利と共に力を 協 ( あわ )せ、六波羅攻略の大功を仕遂げし者」 と 称 ( とな )え、また高氏もそれを称揚して、共々、 曠 ( は )れの 御車 ( みくるま )迎えに来ていたのだった。 「……あの、道誉か」 と、後醍醐のご記憶にも、彼の特有な人間臭が、忘れえぬものとしておありらしく、 謁見 ( えっけん )の庭、夜の 賜酒 ( ししゅ )にも、道誉は加えられていた。 よくいう、 蛇 ( ヘビ )、穴ヲ出ル の 趣 ( おもむき )にも似て。 まことに 御稜威 ( みいつ )というものか。 はた、あさましい人心というべきか。 とにかく、世態一変の観がある。 明くれば、六月六日。 東寺から二条 里内裏 ( さとだいり )までの行列は、荘厳をきわめていた。 また、この日の、 帯剣の役 は、名和長年に代わって、千種 忠顕 ( ただあき )が勤めた。 公卿にして実戦も経てきた忠顕にすれば、今日の 曠 ( は )れに、この名誉第一の役を、他の一武臣などに 委 ( ゆだ )ねてはおけない気概だったものだろう。 そして 鳳輦 ( ほうれん )(みくるま)のすぐあとにつづく 近衛 ( このえ )の 儀仗 ( ぎじょう )には、足利高氏、 直義 ( ただよし )の兄弟があたり、さらに赤松円心の千余騎、土居 得能 ( とくのう )の二千、 結城 ( ゆうき )、長沼、 塩冶勢 ( えんやぜい )などの数千騎が、果てなくお供にしたがって、沿道は、数万の見物が押しあいへし合い、その盛観と、洛中の人出は、古今 未曾有 ( みぞう )なものであったといわれた。 時まだ非常の中なればとて 路次の行粧 行列の儀式 前々の 臨幸 ( りんかう )と 事替 ( ことかは )つて 百司の 守衛 ( まもり ) すべて厳重を極めたり つまりは、朝儀にしてまた軍国的でもあったことか。 とにかく万歳の声 沸 ( わ )くばかりなうちに、還幸のほこりは、やがて二条御所の 内裏 ( だいり )深くにしずまった。 ところが、ここに。 「はて?」 と諸人をあやしませていたことがある。 当然、率先して、父君のこの還幸をお迎えに出ていなければならないはずの大塔ノ宮が、 信貴山 ( しぎさん )の 毘沙門堂 ( びしゃもんどう )から降りても来ないことだった。 平和は 回 ( かえ )った。 市 ( いち )はひらかれ、諸国の商人もどっと入って来て、 万戸 ( ばんこ )の賑わいに、 「やれやれ、やっと、陽の目が見られた……」 と、その日暮らしの貧者までが、心の底から涙していた。 無条件に、ただ平和だけが、彼らの待っていたものだったのだ。 それほどな今なのに。 なぜか。 この平和に、不服らしいお人がいる。 大塔ノ宮 護良 ( もりなが )親王のご態度である。 それはたれにも 解 ( げ )せないものに見えた。 「信貴山といえば、つい洛外においでなのに」 「どうして、宮だけは還幸の日にもお見えあらず、以後も山から降りて来られぬのか?」 人々の 揣摩臆測 ( しまおくそく )は、一日ましにたかまっていた。 と、父皇のもとへ 奔 ( はし )っては来られぬのか。 それが人の子のあたりまえな姿だろうに、何がそこまで宮をして 頑 ( かたく )なにしているものか。 これは、後醍醐にとっては、ご帰洛後まず第一の、お胸のつかえだったに相違ない。 というよりも、ご心中穏やかならぬものさえあろう。 「なにが不服?」 後醍醐にも、子の 拗 ( す )ね 心 ( ごころ )は、おわかりにならぬらしい。 それだけでなく、帝には、当面の政務も山ほどある。 いや理想の天皇親政が始めらるべき第一歩のいまなのだ。 すでに、勅命して。 先ノ朝ニテ仮称セシ「正慶」ノ年号ハ 停止 ( チヤウジ )スル などの 発布 ( はっぷ )はすましておられたが、なおさしあたって、楠木正成、名和長年、足利高氏、新田義貞、赤松円心、千種忠顕、北畠親房、等々、あまたな公卿武士らの殊勲者にたいしては、それの論功行賞も、目前の懸案として、さっそく公布のはこびをつけねばならない。 まさに、あれやこれの、 最中 ( さなか )なのである。 ご 焦慮 ( しょうりょ )もいちばいだった。 ついに、 右大弁 ( うだいべん )ノ 宰相 ( さいしょう )清忠を召されて、 「使いにゆけ」 と、命ぜられた。 信貴山の宮の陣へである。 おことばは、こうだった。 さように宮へ、すすめ申せ」 清忠は、勅をかしこんで、さっそく、信貴山へ登ってゆき、親しく、大塔ノ宮に 謁 ( えっ )して、お胸どおりを、つたえ上げた。 すると、宮は、 「はッははは。 は、は、は」 と、仰ぐがごとく、大きく笑った。 「なんと。 この 護良 ( もりなが )へ、頭をまろめて坊主になれとの仰せというか。 ……そしてまた、 乱 ( らん )となったら、またぞろ髪を伸ばせばよいとの、お沙汰であるか?」 もとから、らいらくで、豪放な宮ではあった。 だが、それに輪をかけたお変りように、 宰相 ( さいしょう )ノ清忠は、きもを 恟 ( すく )めた。 あくまでつつしんで。 「……これは、お 戯 ( たわむ )れを」 「戯れではない」 「では、ご得心あそばしましたと、ご奉答申しあげても、およろしゅうございますな」 「清忠っ」 「はっ」 「 和郎 ( わろ )は、どこに耳をもっているのだ。 たれが、ふたたび坊主に 還 ( かえ )るなどということを、承知したか」 「はい」 「よく聞け。 そのほうらにも、父の 皇 ( きみ )にも、いっこうわけの分らんところがある」 「と、仰せられますのは」 「なるほど、北条は亡んだ。 しかしもう次の北条ができかけている」 「 異 ( い )なおことばを」 「奇異にひびくのか。 こんな当然な言が。 …… 還幸 ( かんこう )、新政、そんな祭り騒ぎに万人酔うている 様 ( さま )こそ心もとない。 くれぐれ、護良が嘆いておりましたと、父の 帝 ( みかど )へ、聞え上げい」 「では、ふたたび 沙門 ( しゃもん )へ 還 ( かえ )るお心は」 「ない!」 大塔ノ宮は、二度いうなと、叱るような語尾を切って。 「老後は知らず、いまにおいては、せっかく蓄えたこの黒髪を、あたら再び 剃 ( そ )る気はない。 ……と、ばかりでは、叡慮に たてつくまろの 依怙地 ( えこじ )のように取られもせんが、世を思うためだ。 また、ここまで 剋 ( か )ちとってきたご理想の具現をふかく憂えるからだ。 もう次の高時が洛中に 驕 ( おご )っておる。 しかるに、みかどはその高氏を、さっそく 治部卿 ( じぶきょう )の官にあげられ、弟 直義 ( ただよし )をも、 左馬頭 ( さまのかみ )に任じておられる……。 まるでもう新しい宮門へ、先に 邪神 ( まがつび )を入れているようなものよ。 おろかさ、物騒さ、見てはいられようか」 「…………」 「清忠、まろの顔を見て、何をあきれ、何をかおののく? ……。 とまれ、まろは坊主にもならん、軍も解かん。 おこたえは、これだけぞ」 坊門ノ宰相清忠は、そうそう下山して行ったが、途中の 輿 ( こし )のうちでも、 瘧病 ( おこり )に 罹 ( かか )ったような 気 ( け )だるい熱ッぽさを持ちつづけて帰った。 さらには、こんなことを、いかに大塔ノ宮のご真意にせよ、そのまま奏上したものかどうか。 彼は大いに迷い悩んだが、嘘を作るわけにもゆかない。 やがて 簾下 ( れんか )にありのまま 伏奏 ( ふくそう )していた。 高氏を憎み、また高氏の越権をあげて、 「彼こそは、第二の高時だ」 と、いったという大塔ノ宮の 弾劾 ( だんがい )は、宮中をおどろかせた。 蔽 ( おお )いえないご困惑をみせたのは後醍醐だった。 復位早々の政治始めに、ゆゆしい難障害を見たわけだし、しかもその一投石は、わが子によってなされたのだ。 当然な親心というものもある。 「……他言すな、清忠。 ここに居あわす諸卿も、同様に」 と、清忠の復命は、一切、かたく口外を禁じられた。 内々のご評議やら、またこれを父のお立場から、 准后 ( じゅんごう )の 阿野廉子 ( あのやすこ )にもおはかりになった結果か。 「ならば」 と、宮もやっと、その条件の下に、 「これ以上、父の 皇 ( きみ )のお立場を、お困らせしても悪しかろうで」 と、洛内入りに同意をみせた。 ご気性、 爽 ( さわ )やかなところもある。 交渉が成り、それでお胸も 溶 ( と )けると、宮はからからと打笑うのであった。 猛獣使いではあっても、かつての御門跡の宮ではなかった。 そのうえ、天下の武士は、宮の 令旨 ( りょうじ )によってもうごいた。 新田義貞はもちろん、正成すらも、指揮下の一将校と見ておられた。 いわんや、足利ごとき者をやである。 「……なんの、寝返り者が」と、 蔑視 ( べっし )のお心すらなくはない。 宮直参の諸将もまた、口々に宮へおもねる。 自然、この宮将軍のお耳には、戦後の高氏の行動が、いちいち人もなげなものにみえた。 いまを利して、自分の上にも超え出ようとしている 覇者 ( はしゃ )と、彼を注視していたのだった。 たとえば、一事例だが。 ここの 殿 ( でん )ノ法印良忠(宮の 股肱 ( ここう )の臣)の部下が、焼けあとの市中の土蔵から財宝を持ち出そうとして、市中取締りの 篝 ( かが )り 屋 ( や )武士に捕まッたことがある。 使者が行き、良忠が行き、なんどとなくその釈放を、足利方へかけあったが、足利方では 頑 ( がん )として解いて帰さず、しかも六条河原でみな首斬ッてしまったのだった。 宮が、信貴山をくだって、いよいよ入洛されたのは、六月十三日。 その下山の日の行粧も宮らしかった。 赤橋 則祐 ( そくゆう )が千余騎でその前陣をうけたまわり、二番陣は 殿 ( でん )ノ法印、三番には、四条 隆資 ( たかすけ )の五百騎、四番には中院ノ定平が八百余騎をひきい、宮の親衛隊には特に 屈強 ( くっきょう )な精兵五百人が、すべて長やかな帯刀で、二列にそろって進んで行った。 思うにそれらは、かつての熊野山伏の徒だの、また十津川、吉野いらいの、木寺相模、矢田彦七、平賀三郎、野長七郎、岡本三河坊といったような 直参 ( じきさん )中の直参たちか。 そして、大塔ノ宮ご自身は。 いかにも、宮将軍らしいお好みだ。 沿道には「増鏡」の筆者のような目撃者もいたことだろう。 このいでたちの宮の姿は、よほど都人士の目をそばだてさせたことらしい。 その英姿を 称 ( たた )えるとも怪しむともつかない ( ささや )きが諸人の間に流れていた。 「えらいお変りようじゃな」 「まこと 眉目清秀 ( びもくせいしゅう )の好丈夫」 「まだお年も二十七。 天台 座主 ( ざす )であるよりは、やはり馬上青春のほうが、ご気性にかなっているのか」 「いや、お似合いでもある。 あの馬上 凛々 ( りんりん )なお勇ましさのどこやらは」 宮が過ぎると、後衛の軍には、 千種忠顕 ( ちぐさただあき )が、一千余騎で、炎日の下をつづいて行った。 かくてその日、父皇後醍醐とのご対面は、とげられた。 これで、巷の 揣摩臆測 ( しまおくそく )も、一掃されていいはずである。 一般の疑いも解けたはずだ。 ところが、じっさいには、かえって逆な反応をしめしだした。 民衆はもう感じとっているのである。 彼らは上層の機微など何も知らないし、論理的に事を考えるわけでもないが、本能的に、本源的な発生の法則を知る能力の持ちぬしだった。 「ここ六波羅の足利どのは、川の向うで、しいんとしてござらっしゃるが?」 「どうなろう? 宮将軍と」 「いや、むずかしいことになったぞ。 兵馬の権とやらは宮のお手に収められたが。 ……黙っていようか、一方で」 「それよ。 足利どのの勢力が増さぬうち、あの一 勢 ( ぜい )は、ぶち 潰 ( つぶ )すとか宮の武士はいっている。 ……ゆうべも、 殿 ( でん )ノ法印の家来衆が、辻の小酒屋で言っておった」 こんなあいだにも、二条の皇居は、日々入る吉報にのみ酔っていた。 九州からの早馬は、五月の末、九州探題の北条英時が、 少弐 ( しょうに )、大友の兵に攻められて滅亡をとげたと報じ、長門の探題北条時直も、おなじころ、宮方軍の殲滅するところとなり、そのほか、北陸北越、諸所の北条代表の武族も、降伏、あるいは火中で自刃し去るなど、一報一報の捷報がきこえるごとに、 「めでたい」 「万歳」 と、公卿ばらは、 有頂天 ( うちょうてん )になって、乾杯のどよめきをあげ、そして、足もとの不穏には、おおむねたかをくくっていた。 「また、犬神 憑 ( つ )きか」 「違う、違う。 喧嘩らしい」 「ならば、ほぼ似たようなものじゃないか」 「いや、武者の喧嘩は気狂い以上だ。 そばづえ食うな」 ぼつぼつ、小屋がけも見え出しているが、鎌倉はいぜん広い焦土の炎天だった。 良水に乏しい土地なので、清水のわき出る所には、戦後、水茶屋なるものができ、 天草 ( てんぐさ )で作った 心太 ( ところてん )や、 甘 ( かん ) ぞうを入れた甘露水などを売っていたが、それでは金がさにならないので、多くは、怪しげな女が地酒を冷やしてひさいでいた。 こわい物見たさの人だかりは、さっきから、そこの軒ばの 日除 ( ひよ )け棚をへだてて蠅のむらがりみたいに騒いでいたが、そのうちに、 「わっ、出て来た」 「抜くぞ」 「あぶないっ」 と、遠くへ逃げ退き、そのくせ、六月の陽の直射もわすれ、なお、事の成りゆきに、弥次馬心理をわかしていた。 どん! と屋の内の腰かけから突き飛ばされたものだろう。 ふいにいま、ひとりの軽武装した若侍が、軒先から泳ぎ出してきたと思うと、見事二つ三つ、地面をころがって、起ち上がった。 「やりおったな!」 と、踏み直って、内へどなると、つづいて胴巻いでたちの武者二人が、 「おおっ、やったがどうした。 いまのごとき広言を 吠 ( ほ )ざくなら、鶯谷(義貞の陣営所)へ来て吠ざくがいい」 「さあ、歩け歩け」 と、軒ばをはなれ、さらに若侍の肩を、も一つ強く突こうとした。 若いほうは、肩をひねって、 「くそっ」と、反抗を研ぎ「おれは足利殿の家来だ。 なんで新田の陣所へなど曳かれようか。 のみならず、よくもいまは、 辱 ( はずかし )めたな」 「あたりまえだ」 新田の武士は、年も身分も上なのだろう。 意識的な挑発かと見えるほど 傲岸 ( ごうがん )だった。 「この若造めが、たわ言もほどにしろ。 昼酒くらって、足利 若御料 ( わかごりょう )の 礼讃 ( らいさん )はまア 笑止 ( しょうし )ながら聞き捨ててもおこうが、鎌倉入りの大合戦は、ひとえに、若御料(千寿王)の参陣があったからこそ勝ったのだと 吐 ( ぬ )かした 雑言 ( ぞうごん )だけはききずてならん。 ただ新田だけの軍功ではないと話していたのだ。 いわば陣中のやッかい者だ。 それを粗略にもせず、足利御名代としておくのも、まったくわが殿義貞さまのお情けだわ」 「うぬ、もういちど申してみろ」 「何を」 「いまの 悪 ( あく ) たれを」 と、若いほうは、蒼白になった。 たしかに昼酒の 気 ( け )もみえる。 とかく民間の戦後人気といったようなものが、まだ子供の、足利若御料のほうへのみ傾いて、鎌倉入りの大戦が、いかに新田軍一手の功にあったかを、庶民もよく知ってないようなのだ。 その不服を聞いてやるから、鶯谷のご陣所まで来いというのが分らんか。 ……どうした、若造。 足がすくんで動けぬのか」 と、背を突いた。 そして、また小突き、また小突きに、若いほうの体が二十歩ほど前のめりに泳いだせつなのことだった。 奮然と、若いほうが、身をよじり返して何か一声吠えたと思うと、すでに一方は斬られていた。 わっと、弥次馬は、 埃 ( ほこ )りをあげる。 こんな喧嘩は毎日なのだ。 だが、今のは酒の上や女沙汰でなく、双方が主名を 称 ( うた )ってやった喧嘩だけに深刻だった。 たちまち 屯々 ( たむろたむろ )の武者が駈けつけ、二人を斬ッた若いほうを包囲した。 その日の夕である。 義貞は、柱にもたれて、独り 蜩 ( ひぐらし )の声に目を 塞 ( ふさ )いでいた……。 ここの鶯谷は日蔭が早い。 鶴ヶ岡の元神官屋敷そのままの営所で、まだ新田の 館 ( たち )というものを、他に新築しようとしてもいなかった。 「いずれは、ここに腰をすえてもいられまい」 彼の注意も、また志向も、たえず中央の 牽引力 ( けんいんりょく )といったようなものに、ひかれていた。 これは武士ほとんどの気もちでもある。 ここの焦土からは何の軍功の 褒賞 ( ほうしょう )も得られはしない。 恩賞として、土地の分けまえを貰うのも、官位や職にありつくのも、すべて中央から出るものだった。 高氏はその都にいる。 義貞は心やすらかでいられなかった。 ひたぶるな鎌倉攻めを戦って、そして勝って、いま、 甲冑 ( かっちゅう )を白い 衫衣 ( すずし )に脱ぎかえ、蚊やり香の糸に 閑 ( しずか )な身を巻かれてみると、あだかも血の酔いから醒めたような、むなしいものだけが心に 澱 ( おど )んでくるのだった。 「……?」 ふと、そのうちに、彼は柱から背を離した。 手の 唐団扇 ( からうちわ )で蚊うなりを一つ払って。 しずまらぬやつは、厳罰にする」 と、先へ走らせ、自身もすぐあとから、武者どもの 沸 ( わ )きたっている表門に近い中門ノ廊の端まで出て行った。 そして、弟の脇屋義助を呼びつけ、昼の喧嘩のいきさつを訊きとっていたが、それが判ると、彼はなおさら彼の神経質らしい半面をみせて、きびしく、門外の動揺へ、こういわせた。 「仕返しに行くなどは、もってのほかだ。 もっとも、こちらで捕えた殺人の下手人を、足利家の方から腕ずくで取り返しにでも来たのなら、応戦もまたぜひはない。 しかし噂ぐらいで、われから押し 襲 ( よ )せてはならん。 かまえて、ならんぞ」 これでやっと夕の一ト騒ぎもやみ、 篝 ( かが )りも暑い夏の宵になりかけていたが、下部の兵らは、いぜん警戒を 研 ( と )ぎすましているふうだった。 元々、新田と足利とは、 犬と猿だ と世間もいっているほどだが、鎌倉入りの目標だけには、それが完全な一つにうごいてきた。 けれどその目的をとげ終るやいな、勝者と勝者の仲は、また元の水と油の遊離をさっそく見せだしていた。 今日の家士同士の喧嘩などは、ほんの一例でしかなく、その 確執 ( かくしつ )は、もっと遠い日からの、根元的なところにあった。 たとえば、昨今、足利方の士気を極度に刺戟したこんな風説などもある。 すぐる日のこと。 義貞は、鶴ヶ岡若宮の拝殿のまえで、敵方の首実検をおこなった。 それのついでに、神殿を打ち破って、宝物庫を調べたところ、錦の袋に入った 一旒 ( ひとすじ )の旗が出てきた。 まぎれなく、それは源家の祖八幡殿が、願文とともに納めた旗らしく思われたが、あいにく紋は 二引両 ( にびきりょう )(足利の定紋)であって、新田家の 中黒 ( なかぐろ )ノ 紋 ( もん )でなかった。 で、彼は不きげんな色になって、 「かような古旗は、当家にとって用もなし、ここの宝物としておくにも、おかしなものだ」 と、首洗い池へ捨てさせたとか、足のさきで蹴ったとか、とにかくそんな風聞も一ト頃、足利方の士を、いきどおらせていたのであった。 そして翌朝のことだった。 「来たぞ」 大鳥居の前にいた哨戒の兵は、大声で営内の将へ知らせていた。 「 扇 ( おおぎ )ヶ 谷 ( やつ )の細川三兄弟が、三人打ちそろって、これへまいる様子です」 「さては、きのうの懸合いだな。 人数は」 「いや少々の郎党だけで、べつに隊はひきいておりません」 「なんのこッた。 それならさして騒ぐこともないわ。 立ち騒いで逆に笑われるな」 義貞は、奥でこれを聞き、座を設けて、努めて平静に、三人が通されて来るのを待っていた。 細川三兄弟のその朝の義貞訪問は、いったい何のためだったのか、 窺 ( うかが )い知ることもできなかった。 客院では、主客の歓談だけが聞かれて、終始、予想されていたようなけわしい空気はどこにもないのだ。 その上、 午 ( ひる )ともなると、 「まあ、よかろう」 と、義貞の方からひきとめ、 「これでしばらくお目にもかかれぬのだ。 袂 ( たもと )を分つと申しては 不吉 ( ふきつ )めくが当分はまずお別れ……。 陣中何もないが」 と、 酒飯 ( しゅはん )を出して、もてなすなどの有様だったし、 和氏 ( かずうじ )らが帰るさいには、脇屋義助をよんで、きのう新田方の武士が 拉 ( らっ )して来た喧嘩相手の若侍の身を、 「何も申さず、水に流して、お返し申せ。 ……処分は細川どのに 委 ( まか )すべきだ」 と 諭 ( さと )して、それすらも解き渡して帰したのだった。 しかし、あとは騒然となった。 それを不満とする下部の将士の声である。 わけて脇屋義助は、昨夕彼らをなだめていただけに、彼らの声に突きあげられる立場にもあったし、また、兄の 解 ( げ )せない態度には、いぶかり以上な むかつきをすら覚えて、 「兄者! なんで」 と、すぐそのあとで、義貞へつめよっていた。 「まるで 卑下 ( ひげ )ではありませぬか。 なぜ足利方へ、あのような」 「いや、ここは仕方がない。 がまんのしどころだ。 高氏 ( たかうじ )の 策 ( て )に乗ってはなるまい」 「高氏の? 高氏はこの鎌倉にはおりますまいが」 「さればこそだ。 そちには高氏の腹が読めぬとみえる。 ……高氏にすれば、この義貞をいつまでも鎌倉へおいて、自身中央にある位置を利とし、すべての功を、おのれひとりの手に 収 ( おさ )めようとしているものに相違ない」 「ですが、北条幕府にとどめを刺した新田家の大功は、世上隠れもありません。 いくら高氏が朝廷に策動しても、よもや当家の軍功を、足利以下とは、衆目がいたしますまい」 「いや、そうとばかりも楽観はしていられぬ。 都の近状やらまた大塔ノ宮のご消息などうかがっても」 「何か、宮の御状があったのですか」 「 殿 ( でん )ノ法印の一状がこれへとどいておる。 それによれば、宮すらも、高氏の都における権勢ぶりには、油断ならずと仰せあって、いまのうちに彼の頭を抑えておかねばなるまいと、深くご警戒なされておられるそうな」 「なるほど、それで俄に御上洛と、お考えが傾いたのでございましたか」 「まずはそうだ。 細川兄弟が見えたのをば幸いにな……。 相互がこのせまい土地にひしめき合うていては 紛糾沙汰 ( ふんきゅうざた )を増すばかりゆえ、義貞は上洛いたす……と。 そしてあとは 若御料 ( わかごりょう )がよしなにここを 治 ( おさ )め給えと、恩にきせて、申し告げてやったわけだ」 「でも、せっかくお手に入れた鎌倉をむざと捨てても?」 「いや、いまは鎌倉などにいる時ではない。 時局の機微も中央へ出てみなければ分らぬし、恩賞の分配、官職の等差なども、すべて中央できまるのだ。 中原 ( ちゅうげん )の 鹿 ( しか ) それを追う地は、もう東国ではなかったのである。 すでに、朝廷ではあまねく、こんどの革命に軍功のあった宮方将士に 報 ( むく )う「 論功行賞 ( ろんこうこうしょう )」の調査機関が開始されているとも彼は聞いている。 いずれにしても義貞は、 「安閑と、今を、鎌倉などにいて、うかうか過ごすべきではない」 と考え、好んで中央の渦中へ、身を投じて行った。 そのあとの鎌倉は急に兵馬も騒音も減っていた。 「はははは。 これはまた、うますぎる。 こちらの思う つぼすぎる」 細川和氏 ( ほそかわかずうじ )は、あとで笑って、 「どこまでも、わが大殿は御運がつよい。 この東国に気長な根を張られたら、すえ始終、目の上の 瘤 ( こぶ )ともなる新田殿だとおもっていたが、何と、われから根も土も捨てて上洛めされた。 さても、いくさのほかとなると、あれほどな勇将だが、先の見えないものではある」 と、義貞の 器 ( うつわ )を評した。 そしてただちに、事のつぶさを、都の主君高氏の方へ飛報していたが、ほどなく都の方からも、急ぎの一状が、和氏 宛 ( あ )てに、送られてきた。 意外な内容であった。 事情は、こうであった。 登子と侍女たちの四、五人は、あの鎌倉陥落の前夜、紀ノ小市丸の知らせで、北条守時の戦死を知り、 谷 ( やつ )の隠れ穴から山づたいに 六浦 ( むつら )の方へさまよい出て、武州金沢の称名寺へかくれていた。 三河足利党の留守居は、すぐこれを、高氏の方へ飛脚し、登子もまた、どうすべきか、身の処置を、良人のいいつけに待っていた。 高氏は、どう考えたか。 もちろん、彼も妻の無事は大いによろこんだところだろうが、さりとて、すぐ都へのぼれとは告げてやらなかった。 またここへの書状には、それの知らせと共に、「都のことは、一切心配におよばぬ、ひたすら千寿王の守護と、士卒の 統御 ( とうぎょ )に心せよ」という意味のことが、高氏の命として、つけ加えられていた。 雨もほどよく、土用の照り込みも充分だったせいだろう、近年になく、ことしは稲の伸びがいい。 しかしまた何十年ぶりの猛暑だともいわれており、新田義貞の 上洛 ( じょうらく )途上では、飲み水や 食中 ( しょくあ )たりで、将士のうちで腹をこわした者が多かった。 「やれ着いたか」 「京が見える」 「あれが、加茂川か」 麾下 ( きか )の越後新田党といい、 僻地 ( へきち )の東国武士などは、その大半以上が、都を見るのも初めてだった。 だから逢坂山を経、 山科 ( やましな )をこえ、やがて洛中の屋根が一ト目に見えだすと、ものめずらしげに、 うだるような汗もわすれて、どよめきあった。 すくなくも、義貞の連れてのぼった軍兵は四、五千騎をくだっていまい。 生品 ( いくしな )明神の社前で旗上げいらいの功臣は、すべて旗もとの左右にひきつれていたのである。 そして彼もまた、ほかの例にならって、 主上の御還幸 ならびに 御新政お祝い言上のために。 という触れで、この上京をあえてすすめてきたのであった。 また一面、これを新田軍の凱旋としている気負いでもあった。 「木蔭があるな」 義貞は、馬をとめ、 「旅の 埃 ( ほこ )りとこの汗まみれで、都の人中へ入るのもどうか。 全軍へ休めとつたえろ」 そして彼も、涼しげな所に床几をおかせ、脇屋義助、船田ノ入道、堀口貞満、篠塚伊賀守などと、入洛の手順について、なにかと 諜 ( しめ )しあわせていた。 「まず、手続きとして……」 と、船田ノ入道は、義貞の顔いろを見ながら言った。 「このところ諸国の武門も、ぞくぞく入洛中のよしですが、武家の着到は、すべて 一 ( いち )おう六波羅奉行へ届け出る 掟 ( おきて )とか。 ……宿所割りなどの都合もありますれば、ご当家としても、ひとまずは、六波羅の足利へ、お届けの使いを先に走らせておいてはいかがとぞんじますが」 すると、案のじょう、義貞は不快の色をみせて、 「なに、掟……?」 と、船田の顔を目で 弾 ( はじ )いた。 「この義貞、そんな法規は、ついぞ公文でも見たことはないぞ。 義貞は、とんと聞きおよんでもおらぬ」 「…… 御意 ( ぎょい )、ごもっともではござりまする。 なれど六波羅奉行の 御教書 ( みぎょうしょ )といえば、諸州に渡っておりますし、また入京の軍勢なども、足利の証判を貰わねば、宿所割りも得られぬそうでござりますで」 「他家は他家。 なんで義貞が入京するのに、高氏へあたまをさげて、証判などをもらわねばならぬのだ。 片腹痛いわ。 むしろ、高氏から来るがいい。 子の千寿王の礼をも申すべきではないか」 「理はまあ、さようでも」 「いや彼の証判などはいらん。 わしは大塔ノ宮 御直々 ( ごじきじき )に宿所をいただく。 そうだ、ひとまず 千種 ( ちぐさ )殿のおん許まで行こう。 二条の千種殿のとこまでまいれ」 ところが、同勢、 蹴上 ( けあげ )をくだって、粟田口の下まで来ると、そこに待っていた一群の武士がある。 直義は、平服だった。 すずやかな狩衣すがたで、 「おお絶えてお久しぶりな。 ……さだめし、おつかれで」 と、義貞の前へ来て、何かと出迎えの辞をのべた。 「や、わざわざ」 あわてて義貞も駒をおりた。 ついさっき、旗もとたちへ、豪語を吐いたてまえがある。 いささか、ぎごちない応答だった。 「兄高氏がまいるところでございましたが」と、直義のほうは、にこやかに。 「あいにく今日は、御用のため 禁裡 ( きんり )へ召されており、くれぐれ、よろしくと申しつかってまいりました。 鎌倉入りの目ざましいおはたらきには、一同驚嘆申しあげており、また陣中では千寿王をお引立て給わるなどお礼のことばもございませぬ」 どこまで、行きとどいたあいさつである。 「いやいや、すべてはただ同慶のいたりだ。 高氏どのにも、ずいぶんお忙しかろうが、おちついたらいちどゆるりとお物語りを 交 ( まじ )えたいの」 「兄もさように申しておりました。 とりあえず、今日はこれへ、ご宿所割りの証判だけを持参いたしましたが」 「お。 船田ノ入道、絵図割りをいただいて、こころえておけ」 「では、いずれまた」 直義は、六波羅へ。 義貞の人馬は、三条の仮橋を西へ渡って、二条へ折れた。 狭いとは見られたが、空地はひろく、いくらでも兵舎や 厩 ( うまや )の建て増しはきく。 それに 千種 ( ちぐさ )中将 忠顕 ( ただあき )のいる二条梨ノ木とも近いので、義貞は、 「まずよかろう」 と、旅装を解いた。 そして大塔ノ宮の御所へ、着京の使いを立て、また自身は、その夕、千種忠顕の二条梨ノ木の亭をたずねて行った。 そこは千種家代々のやしきだが、義貞はその宏大さにまず目をみはった。 ずいぶん戦争中に荒らされてもいたらしいが、わずかなまに、修理やら増築もして、庭の泉石には、加茂の水まで引き入れてあるほどだった。 そのうえ近くには、馬場、弓の 的場 ( まとば )、兵舎、 厩 ( うまや )なども 擁 ( よう )していて、常時、一軍隊の兵を私邸に養っているふうなのだ。 「やあ新田か。 よう 上洛 ( のぼ )ってみえたの」 その人は、風とおしのよい 一殿 ( いちでん )のすだれを 捲 ( ま )かせて、時めく公卿らしく、 大容 ( おおよう )に坐っていた。 川をへだてた東山一帯の 翠巒 ( すいらん )が 廂 ( ひさし )にせまるほどだった。 忠顕は一人の方へ訊ねた。 「新田とは、相識なのか」 「はい。 鎌倉では、いくたびとなく、よそながら」 「はははは。 よそながらの程度なら、今を初対面とするがよい。 これからはいずれも、 朝家 ( ちょうか )の臣義貞であり、朝家の臣、 道誉 ( どうよ )だからの」 と忠顕は、先客の佐々木道誉が返した杯を、すぐほして、義貞の手へ廻した。 「これは」 と、受けた杯も下に、 「今日入洛の新田義貞にござりまする。 朝廷むきの 御儀 ( おんぎ )にはいっこう不案内な武辺者。 よろしく諸事共におさしずを」 と、彼はまず忠顕を拝して着京のあいさつを先にした。 忠顕は、らいらくに。 「いや心得申した。 きのうも 筑紫 ( つくし )から少弐、大友、菊池、松浦などの党が上洛いたし、それらの武士の 参内 ( さんだい )に、あわただしく暮れたばかり……。 あすはお 辺 ( へん )をともなって、親しゅう 闕下 ( けっか )に拝謁の儀をとげさせましょう」 「なにぶんとも」 「なお 准后 ( じゅんごう )( 廉子 ( やすこ ))にも、また宮(大塔ノ宮)にもこのさいぜひ、お目通りねがっておくがよろしかろう」 「は」 「お辺は鎌倉入りの 殊勲者 ( しゅくんしゃ )、かつは足利ともならぶ立派なお家柄でもあることだ。 朝廷としても、ご粗略にはなされまい。 ま、忠顕にまかせられい」 「ひとえに」 再度の礼をしてから、義貞は初めて杯をふくんだ。 従来、ひそかには、帝の密詔や宮の令旨も賜わってはいたが、直接、宮廷人に近づくのは、これが初めての義貞だった。 いや彼だけでなく、先天的みたいに武将は朝廷人の前へ出ると妙にみな弱くなる。 そこへゆくと、折ふし、この座に居あわせた佐々木道誉は、都 ずれしていた。 物質欲にはもろく、優越感にはひたりやすい公卿の弱点を、彼はよく見ぬいており、いつのまにか、ここでも 千種 ( ちぐさ )忠顕のふところの人となりすましているかっこうだった。 「ま、中将どのにも、ちとお過ごしなされませ……。 それに新田殿も、ここは中将どのの御私邸だ、そうお堅くならんでも」 と 如才 ( じょさい )なく、ふたりのあいだを、とりなしていた。 そして彼独自な 戯 ( ざ )れ 言 ( ごと )なども自由に吐いて、しかもさりげないそんな雑談の中で、義貞の人物を 測 ( はか )ってみたり、また忠顕の口うらからは、政局の機微なども抜け目なく感じとっている彼だった。 もっとも、千種忠顕と道誉との関係は、ほかの武将連の比ではない。 かつての、隠岐 遠流 ( おんる )の日には、佐々木道誉がその護送役だった。 天皇、 准后 ( じゅんごう )、侍者の忠顕などを送って、出雲国まで付いて行ったことでもある。 しかし、この晩は、義貞という者が来て、終始、かたくなっていたせいか、道誉もあまりいつものような酒興はみせず、ほどなく先に 佐女牛 ( さめうし )の屋敷へ帰って行った。 彼が帰ると、義貞も、すぐ辞しかけて、 「すべてこれらの物は、 私 ( わたくし )すべきでないと考えられますゆえ、なにとぞ、公庫へお収めおきを」 と、鎌倉戦利品の 数々 ( かずかず )を、献上目録としてさし出した。 また千種忠顕個人へは、べつな一目録が、手土産として、贈られた。 たいへんな財。 ひとくちにいえば、金銀珠玉といってしまえるが、鎌倉幕府の滅亡による戦利品の種目と量は、一部だけでも、莫大だったに違いない。 義貞が帰ったあとで、忠顕は、その献上目録の数々に目を通しながら、 「さすがは、北条九代の府」 と、驚嘆していた。 ここぞくぞくと入洛中の凱旋軍も、すべて、から手で入京はしていない。 かならず敵地から押収した戦利品の一部は、公庫へ献上し、また宮廷人の要路へ、 賄賂 ( わいろ )されている。 が、義貞のもたらしたほどな財宝はかつてなかった。 「新田は、 律義 ( りちぎ )な男とみえる」 忠顕は、すっかり惚れこんだふうだった。 明けると。 約束どおり義貞は、弟の脇屋義助をつれ、 「よろしく、おみちびきを」 と、千種家の門へ来ていた。 参内のためにである。 すでに忠顕から宮中へは「義貞着到」の届けや拝謁の手続きなどが 執 ( と )られてあった。 いま、新政府では。 そして、さっそく、 記録所 雑訴決断所 侍所(近衛軍) などの機構を設け、恩賞のわりあてだの、国司制度の復活、税制、財務の急などをすすめることになっているが、まだ、それぞれ委員は人選中で、それらの機関が、はたらき出すまでにはいたっていない。 「……されば、よい 機 ( しお )に、御出頭あったものといってよい。 もし鎌倉においでたら、恩賞にあずかっても、それら 枢要 ( すうよう )の職につくことはなかったろう。 ぜひ、ご 推挙 ( すいきょ )申し上げる」 忠顕はそんなことまで言ったりした。 そして、やがて彼と共に二条富ノ小路の仮皇居へ参内した。 が、これは 違例 ( いれい )であった。 多くの上洛武将は、六波羅から着到の証判をうけ、日時の指示を待ってから単独でみな参内している。 しかし 賜謁 ( しえつ )は、上々の首尾で、義貞は身にあまる思いにくるまれ、さらにべつな庭では、 准后 ( じゅんごう )三位ノ 廉子 ( やすこ )にも 謁 ( えっ )した。 そして帰路、 神泉苑 ( しんせんえん )の御所に大塔ノ宮をおたずねして、そこでは御酒をたまわり、すべてこの一日は、彼の最良の日らしくみえた。 洛内はいま復興の物音で、一見、新政府の開幕はじつにすばらしい。 諸官衙 ( しょかんが )から公卿武将の家々まで、 普請 ( ふしん )をしていない所はなく、戦災で焼け落ちた五条大橋も、いつか 新橋 ( しんきょう )の 粧 ( よそお )いを成しかけている。 義貞は、こうした物音の中に住みはじめて、 「義助、ここの 古館 ( ふるやかた )も、このままにはしておかれんな」 と、着京後すぐ、二条 烏丸 ( からすま )の改築を考えていた。 「されば船田ノ入道も、 才覚中 ( さいかくちゅう )のようですが……。 何せい、大工や諸職の職人は、昨今、引ッぱりだこだそうで」 「それは兵舎や武者長屋のことであろ。 それも急ぐには急ぐが、この古館自体を、さっそく、何とか修理させい」 「こころえました」 「昨夜も佐々木道誉の招きで、彼の 佐女牛 ( さめうし )のやしきへ行ってみたが、豪奢、目ざましいのに驚いた。 ……もっとも、常に彼の門へは、公卿 大臣 ( おとど )の車が見えるらしいが、わが家にしても、しぜん将来は、上卿たちとの往来もしげくなること、これではいかにもひどすぎよう」 まもなく、ここでも 大普請 ( おおぶしん )が始まッた。 執事の船田ノ入道は、金にいと目をつけなかった。 世間沙汰でも、鎌倉攻めを果した新田家は、武家中第一の内福だろうという評だった。 殿 ( でん )ノ法印良忠もよくみえ、新政府の重職の者をつれて来たこともある。 新政府の店びらきと共に、その裏面における武家と公卿官人らの接触は、ほとんど日々夜々の招宴となり、目にみえぬ何かが取引されていた。 いうまでもなく。 また、新しい職制の座をさして、その猟官に、やっきとなっている者は無数だった。 総じて、公卿層も武士階級も、旧北条領の全国にわたる 厖大 ( ぼうだい )な土地が、自分も入れて、誰にどう分け与えられるのか、それの発表がないうちは落ちつき得ない風であり、それの運動や猟官のうごきには、もちろん 贈賄 ( ぞうわい )がつきものだった。 はなはだしきは、天皇の 准后 ( じゅんごう )三位ノ 廉子 ( やすこ )すらも、 賄賂 ( わいろ )を好む方のおひとであると、執事船田ノ入道などは、職掌柄、たしかな筋から耳にいれていた。 「ほんとかの?」 義貞は、あやぶんで、 「粗相するな」 と、彼の執事振りにも、その渉外面の行き過ぎにも、注意を与えたほどだった。 すると、船田の 善昌 ( ぜんしょう )は、 「いや案外なもので……。 じつはてまえも、よもや 後宮 ( こうきゅう )のおん 方 ( かた )まではと、さし控えておりましたが、何と、足利家の執事、 高 ( こう )ノ 師直 ( もろなお )のごときは、とうに 御簾中 ( ごれんちゅう )へ近づきを得て、准后のお覚えもいとめでたいそうでございまするで」 と、 暗 ( あん )に自分の手腕も誇るかのように言って笑った。 ついこのところ、公務の忙しさに取りまぎれて。 爾来 ( じらい )、ご不沙汰申してきた。 つもるおはなしもいろいろとたまっている。 お気がるに、今夕、お出かけくださるまいか。 お待ち申しあげておる。 月毛の背に新しい 鞍 ( くら )をおけ」 と、近侍の 瓜生保 ( うりゅうたもつ )に、駒支度をいいつけ、自身もすずやかな小袖 狩衣 ( かりぎぬ )を、つとめて都風に、着かざっていた。 「 兄者 ( あにじゃ )、おひとりですか」 「む、高氏の招き 文 ( ぶみ )には、誰と 御一 ( ごいっ )しょにとも書いてない」 「さればといって、万が一にも」 「まさか、そのような害意ではあるまい。 そちや船田ノ入道は、すでに公務のうえで六波羅へはいくたびとなく参っておるゆえ、こよいは義貞ひとりを客に呼び、何か、高氏もくつろぎを見せたいつもりなのであろ」 「ともあれ、ご油断なきように。 が、それでもなお不安なのか、五条大橋と二条烏丸のあいだに辻立ちの者をおいて、もしもの時には、すぐ伝令が聞えるような配置まで取っていた。 架 ( か )けかえられた五条大橋はまだ木の色も新しい。 「ようこそ」 まず出迎えにみえたのは、執事の 高 ( こう )ノ 師直 ( もろなお )だった。 下へもおかず、 客殿 ( きゃくでん )にみちびく。 ここは、 薔薇園 ( しょうびえん )の亭ともよばれ、平家全盛時代ほどなものはないが、ついさきごろは、後伏見、花園の二上皇もご避難していた御所ではあり、さすがにその 規模 ( きぼ )は義貞が私邸にもらった二条 烏丸 ( からすま )の 古館 ( ふるやかた )の比ではない。 「…………」 義貞は、何へともなく、反撥をおぼえた。 思い上がった 主顔 ( あるじがお )を目に見るような気がされてくる。 だが、ただ 晩涼 ( ばんりょう )の川風と、庭の 蛍 ( ほたる )だけは、いささか、それをなぐさめるに足るものだった。 ……」 ちょっと、義貞は、居ずまいを直した。 しかし、高氏ではなかった。 どこかで見たような尼とは思ったが、いわれるまでは、気づかなかった。 「まことに、お久しゅうございました」 「ほうっ、 草心尼 ( そうしんに )だの」 「はや、お忘れかと思いましたが」 「なんの、 尼前 ( あまぜ )を忘れようか。 もう十年も会わなんだであろ。 そうだ、国元の世良田で会ったきりだったな。 ……それにしては変っていない」 「あなたさまも」 「ま。 意外な所で会ったものよの。 変っていない。 けれどその草心尼の 清楚 ( せいそ )な美しさも、年とすれば、もう 四十路 ( よそじ )にとどいていたはずである。 かつてのような濡れ濡れしい若後家の尼とはおのずから落ちつきも違っていた。 義貞と話していても、過ぎた日の責めなどは、ほほ笑みの 翳 ( かげ )にもみせていなかった。 そこで。 義貞もやや眉をあかるくして。 ……いずれあとからこれへ、ごあいさつに伺うはずでございますが」 「時に。 あるじの高氏どのは、どう、おしやったの?」 「じつは、たそがれ、俄に九条殿からお召があって、やむなく、お出ましでございまする」 「え。 外出か」 「新田殿へはお悪いが、公用火急のお召ゆえ、ぜひもない。 昔なじみの 尼前 ( あまぜ )がごあいさつに出て、ようお詫び申しておけ。 かならず早くに帰って来る。 九条ノ民部卿光経どのの所へな?」 義貞は、独り 喞 ( ごち )に呟いた。 九条殿こそはいま、全武門の武士の焦点となっている 上卿 ( じょうきょう )だった。 そのわけは、こうである。 初め、朝廷の軍功調査の局は、 洞院 ( とういん )ノ 実世 ( さねよ )が主宰していたが、諸国の武士どもは、われもわれもと 上表 ( じょうひょう )して、自分の功を言いつのり、かえって、ほんとに勲功のある者は、つつしんで身を 矜持 ( きょうじ )する風で、あえて当事者へ 諂 ( へつら )うようなことはない。 ところが。 じっさいには、実績以上な分外の恩賞にあずからんとする者ばかりが、百人中で九十人の上だった。 藤房は、公平厳正な態度で、査定にのぞんだ。 しかし、その結果は、ついに藤房をも「……ああ」とサジを投げさせてしまったのだった。 なぜなら、 縁故 ( えんこ )の手づる、見えすいた 贈賄 ( ぞうわい )、後宮の女性の口出し、あらゆる浅ましいものの がんじがらめにされてしまい、藤房の潔癖では、到底、その処理もなしえず、やがて辞任を申し出る始末とはなった。 で、ついに恩典局の上卿は、三たびその人をかえて、九条光経におちつき、やっと近日その発表をみるであろうといわれていたさいである。 すると、そこには覚一法師が琵琶を抱えて坐っていた。 あるじが戻るまでのつなぎに、客の 無聊 ( ぶりょう )を、慰めよとでも、いいつけられていたものか。 覚一は遠くから、黙って、客のほうへ礼をした。 至芸であった。 曲の秘妙を聞きわける耳はもたない義貞にも何となく心を打たれた。 彼は、自分の鎌倉の功名と、余一の扇の的とをむすびつけて、祝福感にひたりながら、これが今夜の高氏の馳走であったかと、うなずいていた。 …… 絃 ( げん )はやみ、覚一は、 撥 ( ばち )を絃にはさんで、終りの礼を低くすました。 そして、しずかに退座しかけると、母の草心尼が、 「覚一、こちらへおじゃ。 ……世良田の小太郎義貞さまに、ごあいさつ申しあげたがよい」 と、注意した。 「はい」 と、覚一は、細殿のすみに琵琶をおいて、母の声がするそばへ来て坐った。 もう二十歳をとうにすぎていたが、なるほど、母のそばにちょこねんと坐ると、どこやらまだ子供子供した盲の小法師そのものだった。 「大きくなったの」 義貞は言って。 「いや、いまの一曲にも感服した。 なにか褒美にとらせたいが、持ち合せもない。 そのうち二条烏丸のわがやしきへも遊びに来てくれい」 母子 ( ふたり )をあいてに、ふた言三言、雑談しているうちだった。 忙しげな足音や家臣の声を、廊の外において、あるじの高氏ひとりが、 「やあ、おゆるしを。 ……義貞どの、おゆるしを」 と、坐らぬ前から、詫びを言い言いここへ入ってきた。 はじめのほどは、義貞も余りいい顔はしていなかった。 しかし、高氏がひたすら今夕の事情を 説 ( と )いて、 「じつは、恩賞のご発表が、いよいよ朝議一決を見、それについて九条殿へ召された次第。 悪く取って給うな」 と、まったく、他意はない容子なのである。 「お手柄だったな」 高氏は、なんども、口をきわめて、新田勢の迅速と、その戦術をほめそやした。 とくに、当初五、六百騎の小勢で、生品明神で旗上げしたその決断を、 「当今無双のご勇気」 と、 称 ( たた )え、 「頼朝公の伊豆のお旗上げのほかには、くらぶべきものもない」 とまで言った。 義貞はすっかり酔った。 この間にも、彼は、明日発表になるという恩典の内容に話を触れてみたかったが、おくびにも自分からは問わなかった。 また高氏もいわなかった。 あくまで武辺話に終始した。 また未来の夢をかたるに終った。 そしてやがて深更、五条大橋の風に酔面を吹かれつつ、義貞はここちよげに、二条烏丸へ帰って行った。 「聞いたか。 おい」 「なにを」 「なにをって。 軍功の恩賞沙汰が、いよいよ、朝議を通ったというじゃないか」 「それだ。 それを今、おれもあちこち聞き歩いてみたのだが」 「わからぬのか」 「 皆目 ( かいもく )だ。 発令とだけで、内容はまだたれにも分らぬ。 高札布令 ( こうさつぶれ )に出るわけでもないからな」 「では、恩賞の授与は、一体どういう形で出されるのか」 「勲功にも、第一、第二、それ以下の輩まで、たいへんな数だろうから、とても一時に沙汰書も行きわたるまい。 それは新田とか足利などの、武門の将でも 棟梁格 ( とうりょうかく )の家々のことだろう。 われらのような地方武者の、家ノ子郎党合せても二、三百に足りぬ 中階級 ( ちゅうどころ )の族党はどうなんだ?」 「さ。 そこまでは、聞いてもおらん。 おそらくは、われらの上まで廻って来るには、まだ七日も十日も先になるんじゃないか」 「ばかなことを。 たとえ取るに足らん小党でも、すべてを宮方へ賭け、命がけで官軍のために働いたことでは何の上下があろう」 「ま、そう 息 ( いき )り 立 ( た )つなよ。 われらの軍功が取り上げられぬはずはないのだ。 お沙汰書が遅れるぐらいは仕方もないさ。 早く知りたければ、記録所へでも伺って訊いてみるしかないだろう」 「記録所はどこだ?」 「朝廷の内さ」 「そいつは困る。 むむ、雑訴決断所なら 郁芳門 ( いくほうもん )のそばではないか。 あそこへ行ってみよう。 あそこの 外記 ( げき )か 蔵人 ( くろうど )でもつかまえて、論功ノ 表 ( ひょう )を 内見 ( ないけん )させろといったら、見せぬとも 拒 ( こば )めまい。 這奴 ( しゃつ )らにそんな権能はないのだからな。 おれたちは、命をすてて戦ったのだ。 軍功は 他人 ( ひと )のものではないぞ。 骨肉や家来の血をながして 購 ( あがな )った軍功なのだ」 武者の鼻息はみな荒い。 訛 ( なま )りのある田舎弁で、あたりかまわぬ立ち話だった。 全都の話題をさらっていた。 なにしろいま、洛内人口の大半以上が諸国から来ている武士だった。 そしてそれらのすべてが関心を集中していたことであり、またべつな意味でも、恩賞配分の内容 如何 ( いかん )は、新政府の新政治が、どんな 施策 ( せさく )をひっさげて世に臨んで出るか? それの「お手並拝見」というところでもあるから、武士大衆は個々の欲望にわくわくしつつも、一面そんな興味の期待もかけていた。 しかし、全貌はなかなか分らず、やっとその内容が知れたのは、発布数日後であった。 まず一般は、意外な感に打たれたらしい。 軍功第一ではないが、授与の筆頭におかれて、 飛騨 ( ひだ )一国の守護と、十 所 ( しょ )の地頭職をさずけられた者は、 岩松経家 弟、 吉致 ( よしむね ) のふたりだった。 これは、足利家と新田家の仲に立って、両勢力を結合させ、鎌倉入りの功をとげさせたということと、また、先には後醍醐の隠岐脱出をたすけた働きとによるものだろうといわれていた。 岩松経家、吉致といっても、名さえ知らない者が多かった。 しかしまた、それは 事難 ( ことむずか )しい論功行賞の上における等級の、一種の はぐらかしと見られないこともない。 いかに朝議の決定までには、上で揉みに揉んだ結果だったか。 まず表の一端にもそれは出ている。 足利高氏を 従三位 ( じゅさんみ )、 左兵衛 ( さひょうえ )ノ 督 ( かみ )に任じ、武蔵、常陸、下総の三ヵ国を賜る。 同苗 ( どうみょう )、 直義 ( ただよし )には 左馬 ( さま )ノ 頭 ( かみ )をさずけられ、三河の一部と遠江一国を。 新田義貞を 正四位ノ 下 ( げ )、 右衛門佐 ( うえもんのすけ )に 叙 ( じょ )し、越後守とし、あわせて 上野 ( こうずけ )、 播磨 ( はりま )を下さる。 同、脇屋義助を 駿河守に。 また、楠木正成には、摂津、和泉の一部と、河内守への 叙任 ( じょにん )がみられ、また船上山いらい忠勤の名和長年には、 因幡 ( いなば )、 伯耆 ( ほうき )の両国があたえられた。 それ以下、幾多の武門に、それぞれな恩賞下附が沙汰されたが、ここにたれの目にも、 「これは、何かの間違いか」 とすら怪しまれた例外中の例外があった。 播磨の赤松円心 則村 ( のりむら )にたいする授賞だった。 彼の軍功は、 顕著 ( けんちょ )である。 ところが、発表になってみると、 佐用 ( さよ )ノ 庄 ( しょう )一 所 ( しょ )を賜う、とあるだけだった。 「怒ったろう」 「おれでも怒る」 「ましてや円心入道だ」 「あの戦下手な公卿大将の千種殿さえ大国三ヵ所も受領したというのに、その人を扶けて、早くから中国の 勢 ( せい )を狩り催し、六波羅攻めにも、獅子 奮迅 ( ふんじん )のはたらきをした赤松勢がよ」 「このあつかいでは、恩賞の不平よりは、武士として顔が立つまい」 「勇猛をほこる円心だけに、一族や部下を死なせた数も、赤松が一番だろうといわれておる」 「ばかばかしさよ、とあの円心が、おもてに 朱 ( しゅ )をそそいで、沙汰書を引き裂いて捨てたというが、目に見えるようだ」 と、衆口は、みな円心に、同情的だった。 果たして、それからまもなく、赤松円心の一勢は、朝廷へも届け出ず、ただ一書を六波羅の高氏へ 投 ( とう )じたのみで、憤然、京をひきはらって国元へ帰ってしまった。 それを見た日も、武士大衆は、 「むりはない」 と、みな言った。 みな円心の後ろ姿を思って気のどくがった。 けれど、かえりみて自分たちが必死を 賭 ( か )けて、いま、 掌 ( て )に乗せ得たところの恩賞を見ると、 「……何と、これは」 と、一 抹 ( まつ )の不満と淋しみを噛む顔でない者はない。 内々たれもが、自己の功には過大な期待を持ちすぎるものではあったが、やがて彼らの間に起ったやり場なき不平の色は、ただ単にそれだけのものでもなかった。 国家の名で戦った勝者と勝者との、分けまえ争いも、ひとりの女を捕えて身の皮を剥ぎ、その分け前で、仲間争いを演じ出す野盗山賊のつかみ合いも、何と大した違いはないものか。 後醍醐のご理想も。 新政府の新政第一歩も。 まずはこのおなじ 轍 ( てつ )を踏みはずさない人間通有の欲の目に迎えられ、武士大衆は公然、ごうごうと不平を鳴らしだした。 「これが、ご新政というものか」 「いやもうガッカリだわえ」 「日本全土は、おれどもの力で取ったものじゃないか」 「何で公卿だけの力で、北条の世が 仆 ( たお )せたろうぞ。 おれどもの取った土地ゆえ、おれどもへまず充分に分けるべきを」 「さはなくて、恩賞の、やれ 綸旨 ( りんじ )のと、事々しく、 端 ( はし )クレばかりくれくさる」 「いや、過小でも、貰ったほうは、まだいい方だ。 いまだに、沙汰なしの者すら多いぞ」 野性の言いかたは露骨で、わざと堂上へもとどけとばかり、声を大にして言いつのる。 大かた、おのれ一身は みな功をほこるなれど 君は万姓の 主 ( あるじ )なりとて 日本六十余州 限りある土地を分かたむには いかにせむ もし一国づつを人望まば 六十六人にてふさがりなむ 一郡づつといふも 日本は五百九十四郡 五百九十四人に終りなむ その北畠親房の書は、べつのところで、こういう論旨をも述べている。 その運を開いたのは、朝威であった。 それを武士どもは、自分の力のように思っている。 そもそも、武士はどういうものかといえば、元来、代々の朝敵である。 それなのに、はからずも天皇のお味方に参じ、その家々を失わないですんだだけでも、皇恩というべきだ。 しかるを、多少の忠をいたし、労を積んだからといって、功にほこり、恩賞の不足を鳴らすなど、 怪 ( け )しからんことといわねばならん」 これは「神皇正統記」の著者ひとりの考え方ではなかった。 当時の公卿思想そのものを代弁したものといってよい。 武士は、武士大衆の自力を信じ、公卿は公卿で、 御稜威 ( みいつ )に帰した天下であるとし、それはわが世の春だと思っている。 真 ( ま )っ 向 ( こう )、利害も理想も、武士大衆とは、根本からちがっていたのだ。 だから、土地の分配に、まずその考慮がはらわれていたわけでもある。 力は土地だ。 しぜん天皇も帝室領の拡大を度外視してはいられない。 また大仏陸奥守の土地は、そっくりこれを、 准后 ( じゅんごう )三位ノ 廉子 ( やすこ )の御領とした。 いやまだそれ以外にもたくさんな分け前が、先に取られる処置とはなった。 すこし極端な筆法ではあろうと思われるが、古典「太平記」には、 このほか相州一族の地 関東諸家の所領をば させる功もなき 宮廷内 ( みやうち )の 伶人伎女、 衛府 ( ゑふ )の諸司 女官、僧侶にまで 一 跡 ( せき )二跡と 内奏より申し賜はりければ いまは武士に 頒 ( わか )つべき地も 闕所 ( けっしょ )すべて、残り少なになりにける などと見える。 これほどでないとしても、准后の阿野廉子あたりから、内々、内奏の運動がおこなわれたのは事実であろう。 彼女が天皇の 寵 ( ちょう )をもっぱらにする後宮第一の女性であり、またさかんに 賄賂 ( わいろ )を容れ、美言をよろこぶ 質 ( たち )のひとであったことは、諸書、どれに照らしても一致している。 世評、これとすれば、この手で、彼女や堂上の要路へ、うまく取り入って、ほくそ笑んだ人々は、あながち宮廷の周囲とだけはかぎるまい。 卑劣な武士、抜け目ない田舎武族までが、 天皇の側臣 随時に秘奏をへて 非義を申し行ふため 綸旨 ( りんじ ) 朝 ( あした )に 変 ( へん )じ、 暮 ( くれ )に改まるほどに 諸人の浮沈 掌 ( てのひら )を返すがごとし とまで、痛言しているふうだった。 なにしろ、想像もおよばぬほどな、裏面運動と、土地 餓鬼 ( がき )の あばき合いではあったらしい。 事務の渋滞はもちろん、裁決のまちがいなどもたびたびで、ただもう、てんやわんやの新政だった。 すると。 朝 ( あした )に夕に、 綸旨 ( りんじ )が変るような乱脈さを見すかして、たちまち、 偽 ( にせ )綸旨が 流行 ( はや )り出した。 恩賞の 偽地券 ( にせちけん )に、天皇の名を 騙 ( かた )って、地方人の土地を 欺 ( あざむ )きとる悪党たちが横行しだして来たのである。 もっと、はなはだしい実例では、当事者の官人が、一ヵ所の領地を四、五人に与える沙汰書を発してしまい、 「ここは、おれのだ」 「いや、おれどもの土地だ」 と、武士同士の殺傷沙汰をおこすなどの騒ぎもあった。 そのため、地方人の陳情団がのぼって来るやら何やらで、その政治的無能が呼んだ混乱と奇観は、奇観というより、いっそあわれなほどだった。 しかも、北条遺産の没収地には、限りがあり、恩賞不足、あるいは、恩賞未受の人数には 際限 ( さいげん )がない。 どう考え出したかといえば。 「待てよ、このまま 公家一統 ( くげいっとう )の天下で行ったら、一体、おれどもはどうなるのか。 また平家以前の世のような、公家の番犬に逆戻りすることじゃないか」 不平の声は、さいげんなく、不平を呼ぶ。 忿懣 ( ふんまん )の果て、彼ら武士大衆は、その野性と無知にまかせて、 「いったい、きのうの戦いは、たれのために戦ったのだ」 と、いい出した。 「おれどもは 公家 ( くげ )の番犬になるため戦ったのではあるまい。 こんなことなら、いっそ昨日の北条天下のほうが、まだ ましだわ!」 その結果は、 あはれ、いかなる不祥事なりとも出来て 武家、ふたたび 権 ( けん )を 執 ( と )る世にまた成れかし と、乱を終った今またすぐ、乱を待つような危険な心理におちいっていた。 元々、彼らにすれば。 その全部とはいえないまでも、大部分の武士輩が、北条の下では うだつも上がらぬものとみて、土地欲、子孫繁栄欲、身一代の 名聞 ( みょうもん )欲などを、この風雲に賭けたのであって、 朝廷が何であるとか なぜ天皇を 至尊 ( しそん )と仰ぐのか そんな理解はおろか、信念らしいものは、いたって希薄なのであった。 そしてただ、 「どうしてくれる?」 とばかり、都のうちにふみとどまって、都じゅうを馬糞と馬蠅の 巷 ( ちまた )となし、大刀、長柄を横たえ歩き、何か、 事件 ( こと )こそ起れと、物騒な放言や火遊びを持ち廻っている状だった。 そこで不思議な戦後社会の現象が 菌 ( きのこ )みたいに咲き出してきた。 しかし公卿理想にしろ、武士の戦争目的にしろ、あんな大量の血をながして、こんな 化 ( ば )け 菌 ( きのこ )を 巷 ( ちまた )に見る気でなかったのはもとよりだろう。 ところが、社会に咲き出たものは何かといえば。 小酒屋の灯の馬鹿繁昌 火つけ、強盗、ゆすりの横行 女 狼藉 ( ろうぜき )、ばくち流行 主殺し、良人殺し 河原の捨て子 乞食、疫病、男娼喧嘩 すべて毒々しい悪の花ばかりだった。 何一つ庶民にとっての安心楽土は 回 ( かえ )っていない。 公家 ( くげ )の大邸は、例外なく新築され、かぎられた大藩の武門でも、負けずに 普請 ( ふしん )へかかっているが、さもない不平武士の大衆には、虚無的な やけ酒があるだけだった。 いや彼らに虚無の酒などという余裕はない。 不平だけでは旗 じるしとして 舁 ( かつ )ぐに足らない。 やはり家門は良くなければならず、人物、器量、声望もある人でなければならない。 新田殿か。 その義貞へ、一時、人気は高まるかとみえたが、義貞はしきりと大塔ノ宮に近づき、 公卿貴紳 ( くげきしん )に親しむふうなので、彼らには自分らの真の味方とも思えなかった。 そしてやがて、彼らの目は、そこに、高氏を発見していた。 おれどものこの不平を分ってくれそうな人は他にない。 足利殿のほかにはいない。 だが、武士大衆の寄せる期待をよそに、その六波羅は、ひっそりだった。 それと。 当 ( とう )の高氏も、めったに 朝 ( ちょう )に出ることもないらしい。 社交上のやむない向きへは、執事の 高 ( こう )ノ 師直 ( もろなお )をやり、公庁の時務には、もっぱら弟の 直義 ( ただよし )が出むいて事にあたっている。 しきりと高氏へ接したがって、六波羅を訪う者でも、高氏と会った者はすくないといわれている。 では、この多事多端な日を一体何しているのかといえば、外観上では何もしていないかのような彼なのだった。 事実、そう見えることが高氏のねらいであったかもわからない。 「ちと、 慎 ( つつし )もうよ」 そういったことがある。 とくに日常、いやでも公卿の庁だの、渉外の局に当る直義や師直にたいしては、 「行き過ぎをやるな。 何事によれ、 下手 ( したで )に下手に」 と、いっていた。 こんなにも彼が気をつかっていたというのも、ひとえに世評をやわらげるためだった。 また露骨な武士大衆の輿望が、ここ急潮に自分へかたむいて来る形勢なども、彼としてはむしろ危険視していた。 なぜならそれはいよいよ、大塔ノ宮一派の嫉視と、宮の宮中における画策の 矛 ( ほこ )を、駆り 尖 ( とが )らせるものと 覚 ( さと )っていたからで、わけて新田義貞の一面小心な競争心の潜在も彼は見のがしていず、あくまで、ここは低姿勢を守ろうとしていたのである。 この間に、新政府では、恩賞令の発布につづいて、こんどはその政治機構の人選を内々ですすめていた。 雑訴決断所 は、ひろく聖断を仰ぐところの役所とあって、五 畿 ( き )、七道、八番の地域にわかたれ、それぞれ政務を分担する仕組みであったが、ここもその上層部は、すべて公卿任官で名をつらねた。 ほかになお、重要な機関では、 武者所 があった。 天皇の一令下に、諸国の武士をうごかすところだ。 また 朝暮 ( ちょうぼ )、禁門をまもる近衛府とともに、みかどの、もっとも信頼に足る武将でもなければならない。 そのひとは誰か。 人々は注目したろう。 ほかならぬ、新田 右衛門佐 ( うえもんのすけ )義貞だった。 高氏もそう解した。 直義 ( ただよし )、師直らは、うすら笑って、 歯牙 ( しが )にもかけぬ風だった。 秋は、駆け出してきた。 ここへ来て、めッきり風は冷涼だった。 八月の五日。 高氏はめずらしく、 左兵衛 ( さひょうえ )ノ 督 ( かみ )の衣冠で、参内した。 さきに、 昇殿 ( しょうでん )をゆるされ、 位記 ( いき )では、途上の 牛車 ( くるま )もはばかりない身分である。 ふっくらと、ふくら雀のように袖をひらいて、彼は牛車の中であぐらしていた。 時に、二十九だった。 あらためて、彼も感慨をおぼえていたろう。 が、必ずしも「大人になった」とは、自分ではまだ信じえなかった。 牛車、衣冠、こんなものは仮の装いと分っている。 苦労もたりないと知っている。 前途の大きな多難は、京洛の盆地をかこむ山々のように彼には見えていたのだった。 何の召か。 朝廷での朝儀はいともおごそかだった。 皇居はいま、二条の 里内裏 ( さとだいり )にあるので、 紫宸 ( ししん )、 清涼 ( せいりょう )の 階 ( きざはし )ではないが、 御簾 ( みす )ちかく彼を召されて、特に、 賜酒 ( ししゅ )を下され、そして 音吐 ( おんと )まぎれなく、帝じきじきのおねぎらいであった。 「高氏。 ……なかなか以て、ゆき届かぬことばかりでござりまする」 「ただの治世とは違う。 そちならではと、思っておるぞ」 「 御諚 ( ごじょう )、身に余ります」 「 長通 ( ながみち )、 叙位 ( じょい )を申しわたせ」 「は」 右大臣 久我 ( こが )長通が、すすんで彼へ辞令をさずけた。 先の 位記 ( いき )を一階 昇 ( あ )げ、あわせて武蔵守、鎮守府将軍に任ず、という朝命だった。 そのうえにも、後醍醐は、 「わが 諱 ( いみな )(実名)の一字をとらす。 ……以後は、高氏をあらためて、 尊氏 ( たかうじ )となすがよい」 と、いった。 後醍醐の名は、 尊治 ( たかはる )である。 寵遇 ( ちょうぐう )の象徴としてこれ以上な 附与 ( ふよ )はない。 高氏は、感激した。 彼には愚直な一面もある。 かほどまでに自分を知ってくれるお人には何らの異心も抱けはしなかった。 かつは、帝王でいながら今日までの迫害と 艱苦 ( かんく )に 克 ( か )ちとおしてきた後醍醐を、彼は、平等な人間としても、心から尊敬していた。 勲位は、その傑出した人からみとめられたということで、いちばい、うれしかったようだった。 で、彼は六波羅へ帰ると、 「今日は 云々 ( しかじか )であったぞ」 と、参内のもようを一統の家臣にかたって、さっそく内祝の酒を酌みあい、兵の端にまで、褒美のしるしをわけてやった。 また、この日以前に、朝廷から授与されていた武蔵、常陸、下総三国の土地も、一郡二郡、あるいは一庄半庄と小分けして、まるで池の鯉へ 麩 ( ふ )をちぎッて投げやるように、おもなる部将へ、あらかた、頒け与えてやったのだった。 そこで近ごろ、「物惜しみせぬ大将よ」とは、雑兵の末端までが、尊氏をさしてすぐ言うことばとなっていた。 かつての日、北条氏のために流された人々が、前後して、この秋、都へ帰ってきた。 じつにさまざまな人だったが、 硫黄 ( いおう )島からよび戻された僧の 文観 ( もんかん )やら、 讃岐 ( さぬき )の配所にいた 宗良 ( むねなが )親王などもそのうちのお一人だった。 「こうして、ふたたびお目にかかれる日があろうとは……」 親王は、父後醍醐との一年半ぶりの 邂逅 ( かいこう )に、人の子の情と自然な 嗚咽 ( おえつ )をどうしようもない姿だった。 「馴れぬ配所で、からだでも悪うしたのか」 と、さすが後醍醐も、いたましげなお目をそばめた。 親王は、やっと涙をふいて。 「いえ、べつに病みはいたしませぬが、あけくれ、隠岐の絶海や、また都のあとをのみ思って……。 あれいらいは」 「物もよう喰べなんだのであろう。 護良 ( もりなが )とちごうて、 其許 ( そこ )は生れながら体もひよわい、気もよわい。 こういう世に生きるには、もっと心を大きく身もたくましく持たねばならんな。 これからは何が望みか」 「何も望みませぬ。 ただただ、二度と戦のないことが望まれまする。 今、かえりみてもぞっといたします。 ……これは、捕われて讃岐へ流される前の 詠草 ( うたぐさ )ですが」 「どれ、見せい。 なに、 思ひきや 手もふれざりし あづさ弓 おきふし我れに 馴れむものとは とか。 はははは、いかにも 宗良 ( むねなが )らしい歌よな。 だがこれからは、すべて朝政に一統され、公武の別などなく、武士も 朝臣 ( あそん )としてみな 朝 ( ちょう )に仕え、公卿も武を忘れてはならぬのだ。 そことても、世捨て人にならぬかぎりは」 「おゆるしを給わるなら、ふたたび山へ戻って、静かに、歌の道でも励んでいとうございまする」 「 叡山 ( えいざん )へ帰りたいのか」 「はい」 「やはりそちは歌の家、二条為子の腹の子ではあるの。 ……のう、友には、そなたという者がおるし」 と、ふと親王は、わが 懐 ( ふところ )をのぞいて言った。 ご不審がられて、帝が、そも何を抱いているのかとお訊ねになると、親王は、一羽の雀を 掌 ( て )にのせてお見せした。 まもなく、宗良親王は、 叡山 ( えいざん )へ上って、元の天台 座主 ( ざす )につき、願いどおり墨染の身に返った。 「おなじ 竹 ( たけ )の 園生 ( そのう )、おなじ御子ながら、違うものかな」 と、世人は言った。 ことばの裏に、大塔ノ宮をさしていたのはいうまでもない。 秋もいつか十月を過ぎ、 肥馬 ( ひば )天に 嘶 ( いなな )くときを、その将軍の宮は、神泉苑の御所のふかくに、若さと智と、また多血から来る 鬱々 ( うつうつ )な 忿懣 ( ふんまん )とをやりばなくしておいでだった。 あり余る若さと 鬱 ( うつ )のやりばとして、宮はよく洛外へ 狩猟 ( かり )に出た。 供にはいつも吉野、十津川いらいの 猛者 ( もさ )を大勢つれていた。 木寺相模、岡本三河坊、野長七郎、矢田彦七、平賀三郎などである。 これら原始人めいた郷士出身の一群は、みずから宮将軍の功臣と誇ッて、他人を下に見、社会の 規矩 ( のり )にも 嵌 ( はま )らない荒くれだった。 御命 ( ぎょめい )とあれば水火の中へでもとびこんでゆく。 宮にはこれがたまらない御快味だった。 宮廷人の中では味わえないものである。 猛獣使いのみが知る 鞭 ( むち )の快とおもしろさであるらしかった。 「良忠です。 戻りまいてございまする」 「お、帰ったか 殿 ( でん )ノ 法印 ( ほういん )。 して 忠顕 ( ただあき )の返辞は?」 「 千種 ( ちぐさ )どのには、やはりこのさいは、とばかりで……」 「 狩猟 ( かり )はよせという意味か」 「世間の目、いかがなものかと」 「小心な奴の」 大塔ノ宮は笑って。 「ではなお、四十九日は 喪 ( も )に服して、諸事、門を閉じたままでいろと申すのだな」 「いえ、さにはございませぬ」 殿ノ法印は、べつな答えをもたらすため、すこし膝を前へすすませた。 そのため宮中はここひっそりで、諸政、一頓挫のかたちだった。 だが世上の推移は一刻もとどまっていず、先ごろ尊氏が、鎮守府将軍号をうけ、また 御諱 ( おんいみな )の一字をいただいたなどいう破格な聞えは、いよいよ武士層のあいだに、足利の存在とその実力を 牢固 ( ろうこ )なものに思わせ、いまや六波羅一劃は、大塔ノ宮から見ると、かねがね予想していた通り恐るべきものになりかけていた。 宮はおくちを噛む。 なんたることだ。 高時を討ったのにまたすぐ次の高時が出来かけている。 聞くところによると。 まるでもうそれは主権者気どりではないか。 その彼へ、またぞろ、過大な恩賞に次ぐ抽賞とは何ごとか。 危険を増長させるのみである。 諫言はたびたび 奏 ( そう )してあるがお用いのふうもないのだ。 といってこの 趨勢 ( すうせい )を坐視してはいられない。 宮は、 喪 ( も )の門に、その閑に、たえきれなかった。 そこで今日、 殿 ( でん )ノ法印を、おなじ思いの千種忠顕の所へやったわけであったが、忠顕はこう分別を、お答えしていたのである。 「とかく足利の方でも、われらへ目を光らせているにちがいありません。 ましてご 服喪 ( ふくも )の折、野駈けに出て、洛外で密談に寄り合うなどはまずいでしょう。 ……それよりは新田と二人で、こよいひそかに御所へ 参 ( さん )じまする。 ほかに耳よりな或る一事もございますので、万事くるめて、そのせつの御談合にゆずりたいとぞんじます」と。 やがて。 夕日も静かに。 神泉苑 ( しんせんえん )の御所は、赤松の幹のほの赤い 縞目 ( しまめ )の奥に 墨 ( すみ )いろを 刷 ( は )いていた。 「たれだ?」 宮はお湯殿の内だった。 湯上がりのつやつやしい濡れ髪を、愛妃のお手で 櫛梳 ( くしけず )らせ、その総髪の毛さきを、 剪 ( き )り揃えさせておられたのである。 「 召次 ( めしつぎ )の者か」 「は」 青侍の姿は、廊の外にかがまったままでいた。 「待たいでもよい。 そこでいえ、何の用だ」 「ただいま、河内守どのがおとずれてみえられましたが」 「河内? ああ楠木か」 「はい」 「決断所の 寄人 ( よりゅうど )でもありながら、田舎にのみひき籠って、めったに 出仕 ( しゅっし )もせぬと聞く正成が、めずらしくも出てきたとみえるな。 通しておけ」 お支度は長かった。 宮ご自身、美丈夫ではあり、なかなか身粧いに丹念なうえ、愛妃の心くばりもこまやかなので、やがてやっと客殿へ渡って行かれた。 「はて。 ……見えんではないか。 どこにおる、正成は」 すると、まだほの明るい 庭面 ( にわも )の 階 ( きざはし )の下で。 「これにおります。 いつもごきげんようわたらせられ、大慶に存じあげまする」 「やあ、なんの遠慮。 通せと申しつけておいたのに」 「いやたんだ今、六条の宿についたばかりで、このとおり旅のほこりのままでございますゆえ」 「ここ一ト月も田舎だそうだの。 きょう出て来たか」 「はい。 先年、お旗上げの 砦 ( とりで )として、ご籠城のみぎり、賊軍のため焼亡した 笠置寺 ( かさぎでら )へ、さきごろ 造営再建 ( ぞうえいさいこん )のありがたい勅が 降 ( くだ )されましたので。 ……それの木材、 人工 ( にんく )などの用務をおびてのぼりました」 正成は 吶々 ( とつとつ )と言いながら、たずさえて来た大ぶりな竹籠の献上物を、宮の坐っている広縁まで 捧 ( ささ )げてから、また階を下りて、庭面に低くぬかずいた。 「なんだの? これは」 「河内の秋の物でございます。 山の芋、栗、甘柿、 野葡萄 ( のぶどう )、 松茸 ( たけ )などの山の 幸 ( さち )。 もしや野山に 臥 ( ふ )しておわせられた 戎衣 ( じゅうい )(軍服)の日を思い出られて、珍しくもない物ながら、ふと、おなぐさみにもなろうかと存じまして」 「忘れていた。 まことに、これらの物で露命をつないでいた日のことを我れ人ともにもう忘れかけている。 今夜の客どもにもそういうて馳走してやろう」 「ご内客でございまするか。 ではいずれまた改めて、ご拝謁にあがりますれば」 「ま。 ……そう急がいでもよかろう」と、宮はふりむいて、さっきから広縁の端に侍坐していた 殿 ( でん )ノ法印良忠の顔を見た。 どうせ今夜の客は、新田と 千種 ( ちぐさ )だし、楠木とても、宮はわが腹心の一人としておられたので、ならば、同席させてもと、思いつかれたものらしかった。 ……だが、殿ノ法印の目を見ると、彼は、ひたい越しに宮のご意志を読んで止めていた。 それで急に、宮もためらいに戻ッたらしい。 正成の帰ったあとで、宮は殿ノ法印にむかって、 「良忠、そちはなぜ彼を、きらったのか。 正成には何か心をゆるせぬ疑いでもあってなのか」 と、訊いていた。 「さような河内殿とは思いませぬ。 なれど余りに真っすぐな田舎武人」 「どうも、そちとは前々からちとソリが合わん風だの」 「なかなか」 と、法印は笑いはぐらした。 「個人としては、世にめずらしき河内殿と、とくより尊敬しておりまする。 なれどその楠木も、土豪の 雄 ( ゆう )でこそあれ、中央の 賢 ( けん )ではありませぬ。 廟堂 ( びょうどう )のご政治むきなどには、とんと役にもたたぬ者と、記録所や決断所でもはや定評となっております」 「あの風貌は殿上でもだいぶ損していような。 口かずも多くはきかず、いつも片目まばゆげに、 沈湎 ( ちんめん )と坐っているとか。 それでは 錚々 ( そうそう )たる列臣のあいだにあっては、なお精彩がないはずだ」 「しぜん、腹のわからぬ者だという蔭口もございまする。 したがこの良忠は、 笠置 ( かさぎ )、赤坂、千早など、多年にわたって見てまいりましたゆえ、さような人物とは疑いませぬ。 むしろその寡黙や沈剛の風を愛するのではございますが、どうもその…… 融通 ( ゆうずう )がききません。 世事にはくらく、信じると曲げず、そのうえ無口ときているので、従来、楠木との談合だと、こちらがいらいらする例は一再ならずでありました」 「……あるな。 ハハハハ、そんな風が」 「正直者です、直情です。 しかし人は愚直とそれをいうのでしょう。 ちかごろ、六条、二条などの河原では、 凡下 ( ぼんげ )の 輩 ( やから )が、やたらに 落首 ( らくしゅ )をたてることが 流行 ( はやり )でございますが、そのうちにこんなのもあったとか聞きおよびます…… みぎもひだりも くらやみの関 と添え句した者があるそうで」 「御新政を 諷 ( ふう )したのだな」 「 凡下 ( ぼんげ )のいたずら、深い意味ではございますまい。 なれど洛民どもの間でさえ、宮将軍と足利とは、いつかは真二つに割れるにちがいない、新田と足利も、元々からの不和だしなどと、はやくも申しおりますそうな。 ……で、宮将軍へ付くか足利へ寄るか、とまたもや武士みな 去就 ( きょしゅう )の迷いを右往左往にしておりますので、それを 嗤 ( わら )ったのかもしれませぬ」 「ふーむ」 「かたがた、こよいのご談合は、機微むずかしいところです。 そんな席へあの 煮 ( に )えきらぬ河内殿が加わっては、新田、千種の両所も、ぞんぶん腹のそこを割っておはなしもできますまい」 「そうだの。 余り才用のきかぬ不自由者は、時によって邪魔になる。 まずよかろう。 楠木を加えれば、名和(長年)なども入れねばならず、そう大勢となっては、密談の 主旨 ( しゅし )にそむく」 客殿に灯をみるとまもなくだった。 約束のとおり千種 忠顕 ( ただあき )と義貞はつれ立って来た。 供もつれず、二人とも 微行 ( しのび )であった。 「こよいは水いらずだ。 いかにすべきかを、とくと 諜 ( しめ )しあっておこうと思うが……夜は長い、ま、杯をとるがよい」 宮は言った。 まずそのお膝をくつろげて。 客は、千種ノ中将忠顕 新田 右衛門佐 ( うえもんのすけ )義貞 それだけである。 それに 殿 ( でん )ノ法印良忠が、宮のわきに 侍 ( じ )していた。 人払いした客殿の灯の外は、 夜寒 ( よさむ )の虫声だけだった。 「 佐 ( すけ )」 と、義貞をさして、宮は。 「どうだな、都の住み心地は」 「は。 何かと中将殿のおさしずをうかがっておりますれば」 「忠顕の指南役はよいが、この忠顕は、公卿らしからぬ荒公卿での。 かつては、ばくち好きで女盗みの上手な男、と堂上までも聞えたものだ。 ……ほ。 香のよい 松茸 ( たけ )やら、 種々 ( くさぐさ )な山の 幸 ( さち )が、見事に台盤に盛られてございますな」 「む。 たそがれ見えた正成の田舎土産だ。 喰べてやれ」 「河内守がみえましたか」 「笠置寺再建の用務でのぼって来たという」 「寺の 建立 ( こんりゅう )奉行などは、もっとも楠木にふさわしい役柄でしょうか。 決断所ノ 寄人 ( よりゅうど )などはあの 仁 ( じん )の 能 ( のう )でないとみな言います。 自身もそれは知ってか、余り顔を見せませんな」 野葡萄 ( のぶどう )の幾ツブかを口に入れ、忠顕はその皮を器用に 懐紙 ( かいし )へ吐いてくるみながら言った。 雑談の会ではない。 まもなく宮将軍を中心に真剣な小声となった。 目的は、尊氏をこれ以上のさばらせず、究極においては、自滅か追討の 淵 ( ふち )へ追い落してしまおうとする点にある。 「そこで一案がございまする。 この親房(神皇正統記の筆者)の北畠一門には、かつて近江伊吹山の下であえなく断罪にされた 源 ( げん )中納言 具行 ( ともゆき )がある。 で、新政府の樹立後は、准大臣として、隠然、元勲の重きをなしていたのである。 「それはよい。 ……なかなか遠謀でもある」 後醍醐は、その献策に、こう一議なく、うなずかれて。 「さっそく、大臣どもの議判にかけ、そのうえで裁可を与えよう」 「いや! 古びた仰せを」 宮は、甘えるでもなかったが、父皇の前だといつもこうすぐ 耳朶 ( じだ )を紅くする。 何事によれ、歯に 衣 ( きぬ )きせぬことが、 生 ( う )ぶ声早々な新政体のためだし、唯一の孝道ともおもっておられるようなのだった。 「いかんのか」 子なればこそか、父皇は笑って、子の 護良 ( もりなが )を見ておられる。 「すべて、天子ご一存の新政となった今。 いちいち公卿どもへおはかりなどにはおよびますまい」 「それでは補佐が無用になる。 儂 ( み )とて、神ではないのだから」 「親房はよく言います。 天皇は 現人神 ( あらひとがみ )でおわしますと」 「あれもこまる。 親房の 一徹 ( いってつ )には 儂 ( み )からして少々まいる。 第一政治の直裁は、人間でなければできぬ。 正成や義貞らにもない 器 ( うつわ )の大きさ、また、衆望をひきつける何かがある」 「それが彼を増長させているのです。 そうしたお 上 ( かみ )の 恩寵 ( おんちょう )を逆用して、勢いを諸州に 蓄 ( たくわ )え、武士を手なずけ、時が来たら、天下の権をにぎって、いにしえの頼朝、きのうの北条に、おのれ成り代わろうとしているものを」 「 護良 ( もりなが )」 「は」 「ここは二人だけだからよいが、余りな激語はちとつつしめ。 いくたび聞いたことかしれぬ」 「にもかかわらず、お用いはいただけませぬ」 「わかっているのだ、わからずにいるわけではない」 「では、先ごろ尊氏へなされた過分な 陞進 ( しょうしん )や 恩遇 ( おんぐう )もですか」 「尊氏のもつ底力は、なんとしても無視できぬ。 戦は終ったばかりなのだ。 このさい、このんで彼を 怒 ( いか )らすでもあるまい」 「いっそ怒らした方がよいのではありますまいか。 今なれば、ふいに上意をかざして六波羅をつつみ、彼を討つことはまだ難事ではありませぬ。 ……しかし年を経て、彼の勢力が 駸々 ( しんしん )と諸州に根を張るようにでもなったすえには、 一朝 ( いっちょう )には仆せますまい。 なぜなら前に北条の仆れた 轍 ( てつ )を見ておりますから」 「待て。 それゆえ、そうさせぬ政略として、そこが申し進めてきた今日の一案ではないか。 ……そうだろう、そこの申す若さと、遠大な 計 ( けい )の内容とは、 矛盾 ( むじゅん )すぎる」 それには、宮も口をとじるしかなかった。 たしかに矛盾であった。 宮の口吻では、一日たりと、尊氏は生かしておけぬ者としていたのである。 だが、先に述べた案は、そう性急な計ではなかった。 「のう…… 護良 ( もりなが )。 それを 容 ( い )れたらそこの意見も通ったのと同じではないか。 まずもすこし尊氏の仕方を見ておれ。 そしてその上でもなお、危険な者と見えたなら、いつでも討って取る備えを支度しておくがよい」 かくまでの御諚では、宮も、父皇のお立場を察して、一応それで満足しなければならなかった。 目ざましい行装だった。 十一月の初めである。 沿道の見物人は、その行列へ息をのんで、 「あんな小さい親王さまも、みなと一しょに、みちのく( 奥羽 ( おうう ))の遠くへ行くのか」 と、信じられぬようなおももちで見送っていた。 勅の旗を奉じて。 この朝。 「なにも御存知あるまいに、お祭りにでも行く気で乗って行かしゃるのであろう」 見物の男女は言っていた。 しかしこの赴任は、すでに前の月の勅令で、 参議左近衛ノ中将顕家ヲ 陸奥守ニ任ジ 親王 義良 ( ノリナガ )ヲ 副 ( ソ )ヘテ 陸羽ノ鎮守ニ 差シ 下 ( クダ )シ賜フ と、わかっていたものだった。 そしてこれはまた、朝廷が東国東北の武士勢力を 牽制 ( けんせい )するために打った一大布石であったことも、権力にたずさわる者にはすぐ読みとれていた。 元来、奥羽二国の富は、日本の半分にあたるといわれていた黄金の産地ではあり、馬匹の供給源でもあった。 さきに、北畠親房と忠顕から大塔ノ宮へすすめ、やがて帝のご同意となった一案とは、これだったにちがいない。 その 補佐 ( ほさ )には。 顕家 ( あきいえ )の父、北畠 亜相 ( あそう )(親房)、結城宗広。 そして、これがすむと、こんどは十二月の中旬、足利家へたいして、足利 直義 ( ただよし )への、鎌倉赴任が、朝廷から命じ出された。 幕府は亡んでも、鎌倉そのものは、まだ生きている。 当然、新政府はそれを、 「いつまで、いまのままにはしておけぬ」 と見ていたに違いない。 で、朝令によると。 要するに、そこを奥羽の鎮守と同格なものにして、武士勢力をたがいに 牽制 ( けんせい )させ、そのどちらにも親王将軍を上において、都の朝命を、一様に 布 ( し )かせようという政治構想のものと見られた。 「 兄者 ( あにじゃ )」 直義は、命をうけて、いよいよ鎌倉へ下るという日の朝、尊氏の部屋へひとり来て、 「当分、西と東にわかれて暮らさねばなりませぬ。 切に、おからだだけはお大事に」 と、別辞をつげた。 「ご苦労だな、直義」 尊氏はそういって。 「あとは心配するな。 むしろ心配はそちの身にある。 鎌倉へ赴任のうえは、まいどの言だが、控え目をくずすなよ。 諸政、朝命のままにの」 「どうも、都ではちとやり過ぎたかもしれません。 なぜか公卿どもはこの直義を、尊氏のふところ刀だの、切れ者だのといって、いたく恐れられております。 鎌倉では、当分、 呆 ( ほう )けておりましょう」 「が、その精力に吐け口がなくなると、そちの若さは 前 ( さき )の高時にもなりかねんな。 高時の真似はせんでくれい」 「ご冗談を」 と、直義は笑った。 「それよりも、私と入れ代えに、 嫂君 ( あねぎみ )(尊氏の妻登子)と千寿王どのを、都へお 上 ( のぼ )せ申しましょうか」 「さ。 ……?」 尊氏は考えていた。 が、迷いを 断 ( た )って。 「 斟酌 ( しんしゃく )におよばん。 母子 ( ふたり )は従来どおり鎌倉におくとしよう」 「お淋しくはございませぬか」 「まだ家庭の淋しさなどは思う身にもなっていない。 わかるだろうがの直義」 「お察しできまする」 「この都とてまたの 変 ( へん )が、いつ起るやもしれぬのだ。 それと東国においても、北条の残党が勢いを 培 ( つちか )って、これもいつ 蜂起 ( ほうき )するか計りがたい。 ……妻子とひとつに暮らすなどは、さて、幾年の先になろうか」 六波羅の広場では、はや人馬が整列を作っていた。 直義について鎌倉勤仕となって行く諸将たちで、長井、二階堂、仁木、武田など数十家の人数は二千をこえている。 その中には、もと北条家の重臣だった降参の将も少なからず見え、また飛騨守にあげられた岩松経家も、入っていた。 「では、たのむぞ」 尊氏は、弟をそこまで送り出して、同時に 東下 ( とうげ )する諸将たちへも、いちいち 一顧 ( いちこ )ずつの別れを送った。 かくて奥羽にも鎌倉にも、幕府でない、新政体下の民政府ができ、一応、形はととのったかのようなうちに、元弘三年は暮れ、明けて、 建武 ( けんむ )元年に入っていた。 「あっ。 もしっ……」 居酒屋の女はあわてて呼びとめたが、たらふく食ッて飲んで立った三人づれの侍は、もう六条の往来中を、もつれあって歩いていた。 するとすぐ、女に代って、店の亭主らしいのが、突ンのめるように、その三人を追いかけて行き、 「だんな、ご冗談を」 と、 恐々 ( きょうきょう )ながら、何か片手の物をつき出して、哀訴にかかった。 「なに」 と、侍たちは、その手へ、ぎょろと 一瞥 ( いちべつ )をそそぎ合って。 「冗談とは何だ、冗談とは」 「どうぞ、その……召上がったお代を払っていただきたいんで」 「酒代か」 「へい」 「正直なやつではある。 剰銭 ( つり )はいらんよ。 酌 ( しゃく )の小女にくれてやったのだ。 取っておけ」 「おふざけなすっては困りますよ」 「まだ言ってやがる。 よく見ろ。 うぬが手に持っているそれが金だ」 「これは……だんな、どう見たって、 銭 ( ぜに )ではございませんぜ、ただの紙キレで」 「知らんな、きさまはまだ」 「たれだって、こんな物ア」 「こんな物とはなんだ、こんな物とは。 これっ。 読んで聞かせる。 その 裏面 ( うら )を返してみい。 よくおぼえておけ。 すなわちこれは、ことし建武元年正月から、ひろく朝廷から発せられた楮幣と申す 銭 ( ぜに )なのだ」 「で、でも」 「まだ申すか」 「ちょへいか、ちょろまかしか知りませんが、こんな紙きれでは、 市 ( いち )の仲間が受けとってくれません」 「だまれ。 そんなはずはない」 「ないッたって、世間で通用しないものは、どうしようもありませんや。 銭 ( ぜに )でお払いなすってください」 「銭など持たん」 「じゃあ食い逃げなさるおつもりなんで」 「こいつが」 と、やにわに、侍の一人は、亭主の襟がみをつかんで。 「かりにも、大塔ノ宮の 候人 ( こうじん )、 殿 ( でん )ノ法印殿に 扶持 ( ふち )されているおれどもをさして、よくも食い逃げ武士と、汚名をきせたな。 もうゆるせん。 さアこう来い」 盛り場の辻でもある。 まわりはたちまち黒山の人だかりをみせていたが、こうなると、わっと一角から崩れ立つ。 うちのひとを。 うちのひとを」 と、はだしで駈けて行くのもみえたが、 殿 ( でん )ノ法印の身内と聞いては、たれも恐れをなして、詫びてやる者もなかった。 そしてただ「ちょへい? ちょへい?」という 怪訝 ( いぶか )りの小声だけが、魔の ( ささや )きみたいに、盛り場の昼を、吹き廻っていた。 宮の 候人 ( こうじん )、 殿 ( でん )ノ法印良忠は、大塔 幕下 ( ばっか )第一の羽振り者だが、神泉苑にちかい六角の彼のやしきも、宏大なこと、世をも人をも恐れないものがあった。 朝から晩まで、人出入りが多いのも特徴で、「……今日は何があるのか?」と往来の目は振向いて行った。 去年、 硫黄 ( いおう )島から帰されてきた 文観 ( もんかん )僧正の供人の列なども、しばしば門を出入りしていた。 すべてみな、時めく宮将軍の威勢が、背光となっていたのはいうまでもなく、その背光を負って、近ごろ彼の門では、 一能一芸の士を招く と称し、公然と、強弓をひく 猛者 ( もさ )や、太刀使いの達者を、ひろく世間から募っていた。 ましてしかるべき武歴でもあれば、どしどし召抱えて、邸内の侍長屋や兵舎に入れ、私兵として、 唸 ( うな )るほど飼っていたのだった。 「おい、町にはまだ、怪しからんやつがおるぞ」 そこの兵舎門からいま居酒屋のおやじの襟がみを引きずッて入って来た三人の侍も、おそらくここの私兵仲間か。 その組頭でもあったのか。 くせになる。 御新政のためにもならん」 と、あたりへ言った。 奇妙な世界といっていい。 兵舎にはちがいないが、長屋によっては、赤子のオムツや女の腰巻めいた物が干してあり、べつな囲いでは、 博奕 ( ばくち )にうつつを抜かしている車座の群れがある。 銭 ( ぜに )、新発行の 楮幣 ( ちょへい )などが、むしろ仲間でさかんにやり取りされている。 「おや組頭が、誰か、しょッ曳いて来たらしいぜ」 「六条の飲屋のおやじだ」 四、五人が抜けて、彼方へ走り、その三人と何か話しているうちに、一同、げたげた笑い出していた。 「何のこった、また 楮幣 ( ちょへい )の いざこざか」 「いやおれもゆうべ、同じ目にあった。 いつもの 遊女宿 ( あそびやど )で楮幣を出したら、売女どもまで口をそろえて、これは紙キレだと 吐 ( ぬ )かしおる。 「このおやじには、そんな物分りすらもない。 あげくに、おれどもを食い逃げ武士と人中で 罵 ( ののし )り、 楮幣 ( ちょへい )やら、ちょろまかしやら知らぬなどと、御新政向きまで 誹謗 ( ひぼう )しおった」 「こいつがか」 と、おやじの横顔へ足蹴をくれた一人の私兵が、私兵のわが身にくらべて言った。 「ばか野郎。 おれどもがいただく給与は、この正月からみなこの 楮幣 ( ちょへい )で支払われたのだ。 それが通用もせぬ紙きれだったら、この身ばかりか女房子は 乾干 ( ひぼ )しだわ。 しかもおれどものは体を 張 ( は )ってのご奉公だぞ。 酒の売掛けが取れなくても命に別条はあるまいが、こっちは、まかりまちがえば命が飛ぶんだ。 ……ふざけやがって。 ……どうして楮幣がいけねえんだ?」 これは道理である。 けれど一方、酒屋のおやじが、従来見たこともない一片の紙キレなどを、 銭 ( ぜに )として受けとれない、と頑張ッたのも、これまたもっとも至極であった。 まして今のような世に、刀も帯びず、権力にも守られず、ただ頼むものは金でしかないと、銭に生き、銭と苦楽を一つにしている しがない一個の 市人 ( いちびと )とすれば、私兵の兵舎でゴロゴロしている彼ら以上にも真剣に言い争ッたのはむりではない。 するとこの騒ぎの折へ、 殿 ( でん )ノ法印の家臣が駈けて来て。 「何事だ、しずまれ。 法印殿がおひろいで見えられるぞ」 「え、お見廻りで」 私兵たちは、俄に、その慌てぶりを思い思いにして、附近の侍長屋や兵舎の方へ、 拇指 ( おやゆび )を示しながら、 「おうい。 来るぞ」 と、知らせ合っていた。 博奕 ( ばくち )仲間もゴロ寝の組も、みな飛び出して、 厩 ( うまや )の世話だの武器庫の方へ歩いて行く。 「これ。 なにをしたのだ、その者は?」 「はっ」 「町人ではないか」 「さようで」 「だいぶ足蹴にあって、 傷 ( いた )みつけられている 容子 ( ようす )だが」 「捨ておけぬ奴でございまする」 「 間諜 ( いぬ )か」 「いや、たかが居酒屋のおやじではございますが、御新政にそむいて、 楮幣 ( ちょへい )を受けとらぬばかりか、こんな物は紙クズだなどと、恐れもなく、人中において 政治 ( まつりごと )のご誹謗を 吐 ( ほ )ざきましたゆえ、 懲 ( こ )らしめずばなるまいと」 「ははあ、こやつも楮幣に不服なのか。 ならばなぜ、 折檻 ( せっかん )などせず、表向きに、 検非違使 ( けびいし )ノ庁へつき出さんか。 のちほど、表役人の手もとまでつれて来い」 法印は、 颯爽 ( さっそう )と、小姓たちを連れてすぐ歩きかけた。 すると、私兵頭の侍の一人は、自分たちでも、じつは内々不安としている楮幣の真価を、ふと、法印その人へ、直接ただしてみたくなったのだろう、つい思い余った容子で、 「ただその、念のため、お伺いしてみるだけでございますが、ほんとに、手前どものいただいている楮幣は町で 費 ( つか )ってもよろしいンでございましょうか」 と、恐る恐る訊いてみた。 「なんじゃと」 法印は、大喝して。 「きさまらまでが、天下通宝の 楮札 ( ちょさつ )をば、心では疑いおるのか。 また、通用もせぬ 札 ( さつ )を以て、この 殿 ( でん )ノ法印が、きさまらの給与を支払い、それで、きさまら皆、食えぬとでも申すのか」 「と、とんでもない。 さらさら、さようなわけでは」 「たわけめが。 手下の兵へもよく申しわたしておけ。 いまや王政の下、その朝廷の御保証において発 兌 ( だ )された 楮幣 ( ちょへい )なのだぞ。 しかも汝らは宮将軍の一兵だ、世間の中でも威張ッて 費 ( つか )え。 もし非を鳴らす者あらば、いつでもわが門へ引ッぱって来い。 なんで入れられたのか。 居酒屋のおやじはどう自分を低く考えてもわからなかった。 殿 ( でん )ノ法印からここへ引渡され、 一 ( いち )どの調べもなく放り込まれていたのである。 「……たくさんいるが、ほかの衆はどうなんだろう?」と彼の闇馴れて来た目は徐々に、まわりの者の影をさぐり見ていた。 近ごろやたらにふえたと聞く、火つけ、群盗、辻斬り、残党といったような 恐 ( こわ )らしい人相の者は一人もいないらしい。 日ごろ町で見つけているただの男女ばかりである。 いささか彼は安心すると、商売柄、口もかろく、そろそろ暗闇の中の無口な魚たちへ小声ではなしかけていた。 「もし。 おまえさまはどう見ても、どこぞの旦那衆のようなお方だが、どうして牢などへ、ぶち込まれなすったのかね」 「わたくしですか」 と、その五十がらみの男はいう。 「悪いことをした覚えは何もありませんが、ただ先日のこと、記録所にお勤めのさるお公卿さまから、 唐織 ( からおり )十反、そのほか品々のご註文があったので、よろこんでお納めすると、その代金じゃといって、 楮幣 ( ちょへい )とやらいうひょんな 札 ( さつ )の 束 ( たば )を手代にわたしてよこしたではございませんか。 驚きましたね。 かような紙では、代金とも 物代 ( ものしろ )ともいただきかねますと、自分でお返しに伺ったところが、怪しからぬ奴、ひかえておれとのことで控えていると、まもなく検非違使からお役人が来ましてね」 「へえ? じゃあおまえさまも、何か、楮幣を悪くいったんですかえ」 「それあ、言いますよ。 商人 ( あきゅうど )ですもの。 あんな紙きれを、銭だといって、糸屋や 織娘 ( おりこ )へ払っても、先で承知するもんじゃありません。 ……わたしばかりじゃない、そこにいる法師も 工匠 ( たくみ )も、また向うにいる 田楽 ( でんがく )役者の一と組も。 かわいそうに、隅の方で寝こんでいるあの十五、六の子供までがそうなんですからな」 おやじは気づよくなった。 牢中のあらましが、楮幣拒否罪だったのだ。 いや、もっと彼を驚かせた一事がある。 牢には、一羽の雀も入っていた。 だが、少年はぐッすり寝こんでいて目醒めもしない。 そのうちにこっちは話がはずんでいた。 河原に、 楮幣 ( ちょへい )を皮肉った 落首 ( らくしゅ )を立てて捕まった法師だの、楮幣で 洟 ( はな )をかンだことが知れて引っ張られた 遊女 ( あそびめ )だの、どうせ罪は軽いと信じているのか、割合にみな陽気なのである。 ところがその夕、たいへんなことが牢外の噂に流れた。 「どうしてだろう?」 「楮幣を断わッたぐらいな 科 ( とが )で」 「まちがいだ、首を斬られるなンて法はない」 「でも、たしかに役人が外で話していたよ、順ぐり河原へひき出して、見せしめに断罪とするにきまったらしいと……」 「わからない。 ああ」 突如、発狂しそうな声が、 「ご新政だ、ご新政だ!」 すると、くらやみの中の人間がみな、それに和して、 呪 ( のろ )うように 嘆 ( なげ )きあった。 「これがかい? ……これがご新政だというのかい」 むりもない。 この国での紙幣の慣用などには、まだまったく未経験なところへ、新政府の公布も法令一片で、ほかになんらの 馴致 ( じゅんち )をうけていた民ではないのだ。 ただついて来いというのが、新政府の強権意識であったとみえる。 事のおこりはこの建武元年の正月、 天暦 ( てんりゃく )いらい荒廃のままとなっている 大内裏 ( だいだいり )造営 の議が決まって、さてその国費は? というところから、このくるしい捻出案も即時に可決されたものだった。 ただでさえ、新政府の財政面は火の車なのである。 破壊だけで、生産、建設面はまだ何一つ行われていず、天皇の還都いらいは、朝威をかざるに急で、諸式万端、華美と見栄に走って、さいげんもない加速度な支出をぜひなくして来ている。 これでうなずかれるというものである。 政務にある公卿大官から、内奏のきく 准后 ( じゅんごう )のあたりまでが、がつがつ、 賄賂 ( わいろ )を取りいれたというのも、一つにはこの 渇 ( かわ )きが招いたものであったのだろう。 だが、これとて、独創の案ではない。 隣邦の中華では、すでに 元朝 ( げんちょう )の初めにこれをこころみて失敗していた。 紙幣制度にはかならず附帯していなければならない 兌換 ( だかん )の約が国におかれてなかったからである。 ただ形だけを異邦の先例にとってその真似をしたにすぎないものだった。 もっとも、詔と同時に、 鋳銭局 ( ちゅうせんきょく )ノ長官 中御門宣明 ( なかみかどのぶあき )は、銅銭の「 乾坤 ( けんこん )通宝」のほうも昼夜、鋳物工を督してつくらせてはいた。 しかしいずれにしろ経済膨脹の余波がやがて物価におよび、さらに生活混乱のおそろしい様相をよびおこす日はもう寸前といっていい。 それは知れきったことだった。 にもかかわらず、気鋭な若公卿や経済面にくらい新政権の当局たちは、ただ 楮幣 ( ちょへい )の流通がいたるところで嫌われたり、また官民間の物議となっている現象へだけ気をいらだてて、ようやく、 「これではならん」 と、首をひねっていたところだった。 雑炊桶 ( ぞうすいおけ )をさげた牢番二人は、毎度のように、中を覗いて、わめいていた。 「やい、どうしたンだよ、日が暮れれば餓鬼のようにガツガツしていくさるくせに。 いらねえのか今夜の 粥 ( かゆ )は」 「ア。 すみません」 「早く椀を出せ。 椀を」 「いただきます順ぐりに……」 「取ったら、早く次の奴と代れ」 「ですが、牢番さん」 「うるせえナ、何だよ」 「ほんとでしょうか。 昼、牢のそとで、お役人と番衆が、立話で言ってたことは」 「知らねえよ、おらあ」 「楮幣の 科 ( とが )で入った者はみんな河原で首になるって噂ですが」 「なると思ってたらいいじゃねえかよ。 それ以上は心配なしだ」 「じゃあやっぱりほんとですか」 「首になる朝は、かたい盛り飯に、 白饅頭 ( しろまんじゅう )が三ツ付くよ。 その日になれあ分るこった。 楽しみに待つがいい」 晩の牢内は、もう呪いの声もしなかった。 それでもみな 粥 ( かゆ )だけは喰べたらしいが、寝息もしない沼だった。 「……おじさん」 昼、牢のすみっこで、よく寝こんでいたあの浮浪児じみた少年であった。 悄 ( しょ )げ 込 ( こ )んでいる居酒屋のおやじのそばへ寄って来て。 おじさんの店は、戦争前は 粟田口 ( あわたぐち )にあったんだろ。 あの辺も焼けちゃったけれど」 「ヘエ……。 よく知ってるな」 「おらあ、何度もおじさんの店へ、お師匠さんの使いでお酒を買いに行ったんだもの」 「そうか!」おやじは、大きく眸をこらしながら、「む……そういえば、おもい出した。 おまえ、雀をふところに飼っていたね」 「飼ってるよ」 「すると、吉田山の兼好さんのお弟子じゃないか。 命松丸 ( めいしょうまる )とかいったように覚えているが」 「その命松だよ。 おじさん。 ……みんなもう首が失くなっちまった人間みたいに、さっきから 悄 ( しお )れてるけれど、どうだろう、おらがこれから知ってるお方の門へ行って、命乞いを頼んでみたら?」 「ありがとうよ」 おやじは、涙だけをためて。 「気もちはありがたいが、おまえはここをどこだと思うのか。 ここは六条の六道牢だぜ」 「だって、雀じゃないが、おらならここを出られないこともないよ。 あの高い切窓からね」 「それよりおまえはどうしてここへ入れられたのだ」 「河原の落首が悪かったんだよ。 よく河原へ落首が立つだろう。 あれをうちの兼好さまが、いつも面白がっておいでだから、使いに出るたび河原へ廻って、書き写してはお目にかけていたんだよ。 ……すると運悪く、きのう役人に見つかってさ。 ……でもおらあ、死んでもお師匠さんの名は口に出さないときめてたからね」 自分はまるでこの中でない圏外にでもいるような彼の明るさなのだった。 むしろの上のあちこちに 澱 ( おど )んでいた男やら女やらの影は、急にワラをもつかみたい目つきになって、彼のことばに耳を 研 ( と )いでいた。 命松丸はなお言った。 自分のお師の兼好さんはお顔がひろい。 たとえば雑訴決断所の 寄人 ( よりゅうど )佐々木道誉さまなども古くからのお友達だ。 嘘じゃない、おらを信じて、その訴願の使いに出してみてくれ。 首の座を前に、これだけの人間がただ悲しんでばかりいるなんて、余りに 能 ( のう )がなさすぎるじゃないか、おらでさえ見ていられない……と、 昂 ( たか )ぶって 説 ( と )くのであった。 すると、むくむくと、這い寄ってきた男女のうちの一人が。 「ほんとかね。 ほんとにおまえは兼好さんのお弟子で、道誉さまもご存知かい?」 「どうしてそう疑うのさ」 「じつは、わたしたちは 田楽者 ( でんがくもの )だ。 戦もやんだので、近江の衆と一座して都へ稼ぎに出ていたわけよ。 するとおとといの 辻猿楽 ( つじさるがく )で、仲間の役の一人が、 楮幣 ( ちょへい )に引ッかけて、楮幣 もじりの 戯 ( ざ )れ 舞 ( ま )いを 演 ( や )ッたところ、お客には大受けに受けたものの、そのあとは、たいへんな事になってしまってね」 「捕まったんだろ」 「そうだ。 楽屋じゅう 十把 ( じっぱ )ひとからげに引ッ立てられ、三人四人と別々な牢へぶちこまれたというわけさ。 ……ま、長くなるから、それはともかく、道誉さまは伊吹のご城主だし、近江田楽はそのご領下のものなんだよ。 中でも花夜叉などはお抱えの一座だが、わしらは諸国を打って廻る素の旅芸人でしかない。 だが、それにしろご縁故はあるのだから、もしお耳に入れば、何とか助けて下さらぬかぎりもないと思われる。 命松さん、ほんとにおまえ、行ってくれるかね」 「あ、みんながその気になって頼むなら」 「どうして牢を 脱 ( ぬ )けられる?」 「あそこの、高い切窓まで、ここの者がみんなして背なかを組み、それを 人梯子 ( ひとばしご )にして登れば造作ないだろ」 「でも、窓は小さいが」 「だいじょうぶ。 おらの体はもっと小さいぜ」 「外は、たしか紙屋川だし」 「だからなおいいよ。 みんなの帯をつないでおらに持たしてさえくれれば」 日頃の大人たちも、今はみな、一少年の素朴な機智に全生涯をあずけて悔いない顔つきになっていた。 それに命松丸も、世間の大人たちから、かつてこんな信頼感をもって身をくるまれたことはない。 それが彼を無性にその行動へ 弾 ( はず )ませてもいたらしい。 やがて。 その夜のうちのこと。 「……放すよ」 彼は首尾よく牢をぬけ出して、その体を、紙屋川の水の中へ、肩の辺まで 浸 ( つ )けていた。 そして後ろの高い土壁の切窓を振り仰いでいた。 すぐ、スルスルと長くつないだ帯の影が牢の中へ 手繰 ( たぐ )りもどされて、その端も見えなくなった。 だがまだ彼は仰向いたままでいた。 まもなく、ジャボ、ジャボと水音を忍ばせて、紙屋川の向うへ彼は消えて行った。 「そうか。 あれはもう夜明け近かったのか。 ……なにせい、えらいやつに舞い込まれ、とんだ訴えを聞いたものだ」 道誉 ( どうよ )は今朝笑っていた。 佐女牛 ( さめうし )の邸である。 彼の思いだしていたものは、 命松丸 ( めいしょうまる )の姿だったにちがいない。 「主膳。 そして、あの小僧は今朝どうしておるな」 「 朝餉 ( あさげ )をくれ、ひとまず 双 ( ならび )ヶ 岡 ( おか )へ帰れと申して追いやりました」 「双ヶ岡の法師の許へ帰っていったか。 さすればその 兼好 ( けんこう )も、あとからやって来るかもしれんな。

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叶美香さんきめつのやいばコスプレ(鬼滅の刃)画像!甘露寺蜜璃がスゴイ!

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家族を鬼に殺され、ねずこ自身も殺されるはずでしたが・・・。 鬼の血を受けてしまったことで 「鬼化」してしまいます。 そのため、幸か不幸か「鬼」として生存することになりました。 ねずこが竹を口にくわえている理由 まず、ねずこを見た時に最初に目につくのが、彼女の口元にある竹筒ですよね? ねずこは、 基本的にいつも竹筒を咥えています。 それはなぜかと言うと 「鬼になってしまった」から! 鬼は、基本的に人間を食べて生きている存在です。 ねずこも鬼になったばかりの時は、兄である炭治郎に食いかかっていました。 それでも炭治郎は必死に何とかしようと説得したり、傷つけないように頑張った結果もあって、人を食べる衝動は抑えられたので良かったですね〜。 ^^ まぁ一番は 義勇さんが炭治郎を気絶させたことで、ねずこの潜在意識に働きかけたのが功を奏した、といった感じでしょうか? その時に、義勇さんが 人を食べないように、とりあえずねずこの口に竹を噛ませたのが始まりですね! その後は、奇跡的に鬼としてはありえないはずの睡眠を取るようになり、人間を襲う衝動はほぼ抑えられるようになりました。 2人の絆があっての事だと思います。 鬼は人間を食べて生きている存在なので、 鬼という時点で訓練してない普通の人間と比べたら圧倒的に強いですね! 訓練する前の炭治郎も、あわや食われかねないほどに圧倒されていましたから。 さらに、ねずこは鬼化の際に浴びた血の量が多かった事もあって、若い鬼にしてはそこらの鬼よりも強いという感じです。 おまけに、鬼は基本死ぬことはありません。 美脚を惜しみなく披露していますが。 プライベートゾーンが見えてしまわないか・・・心配ですね〜。 ^^ すごーくかっこいい技ですが、今のところあまり使っていないようです。 ねずこは何気にハイスペックですね! ねずこの体格変化 これはねずこ限定というわけではなく、 鬼なら基本的に使える能力です。 体の大きさをある程度変化させられます。 普段は日が当たらないように炭治郎が背負うかごの中に隠れているのですが、その時のねずこは幼い姿になっています。 ですが、 炭治郎がピンチになると大人のような姿になって助け出します! ただし、大人になった姿は鬼化を進めた状態で一種の覚醒状態になるので、本人の自我が失われかけたりすることも。 そして、人食い衝動に駆られたりするので、危険な状態になるんです。 また、ここからはネタバレになってしまいますが、ねずこは無惨の呪いを自力で解除したり、太陽を克服して炭治郎を会話することも可能になります。 ねずこの能力は現状このような感じなんですが、このようにどんどん進化(?)していってるんですよね・・・。 ついに、鬼舞辻無惨に目を付けられてしまったねずこですが、 今後さらに進化して強くなる可能性が高いんじゃないかと思われます〜! 鬼としての常識をことごとく覆しているねずこなので、 もしかしたら鬼舞辻無惨と張り合えるようになるのかも? もしくは、 珠世の薬で本当に人に戻れる日が来るのかもしれませんね。

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