鎌倉幕府 場所。 鎌倉幕府の場所と史跡を巡る『大蔵幕府⇒宇都津宮辻子⇒若宮大路幕府』編

鎌倉幕府の年表や役職を解説。場所やその跡地にも迫る!

鎌倉幕府 場所

鎌倉幕府の前から、武家政権は既にあった 平安末期の時代、 鎌倉幕府が出来るその前から、京都から離れた場所に武士が作った 「地方行政」の様なものは実際に存在していました。 また武家による日本全土を統治した 「武家政権」というものも、既に鎌倉幕府が出来る前からあったのです。 鎌倉幕府が出来る少し前に平清盛と平家一族が作ったのが、日本で最初の武家政権でした。 この武家政権は後の鎌倉幕府とは異なり、西の京都に拠点を起き、公家や朝廷と密接に関わっている政権でした。 ですが、まだ公家や朝廷の力が強かった為に、あくまで京都を中心とした武家政権であり、又、それに従わない武家も日本中に多数存在していました。 特に、平家と争い関東に逃れた武家の頭領の家柄だった源頼朝は、平家と対立していたのです。 しかし結果として、平安時代の末期に平家による武家政権が出来たのをきっかけにして、関東の武士達の間にも朝廷から独立した地方自治を望む自我が芽生えて行く事になり、 鎌倉幕府を作る原動力になって行くのです。 それは同時に源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命された時でもあり、そこが正式に鎌倉幕府が出来上がった時となっています。 源頼朝の父である源義朝は、平治の乱で平家と戦いに破れ亡くなり、その子であった源頼朝は生きて落ち延び、当時関東へ逃れてきた流人でした。 そんな源頼朝でも一応は源氏の頭領の家柄であり、また 頼朝の父の時から関東には地盤がありました。 そのため関東の御家人達が彼の力を頼りにして、 平家へ反撃する体制を立て直す場所として都合が良かったので鎌倉が選ばれたのでした。 主な時期を京都で過ごしてきた源頼朝は、正直、関東の実情や地の利に明るかったわけでは有りません。 ですが、源氏の頭領の家系である頼朝と源氏にゆかりのある八幡宮があった鎌倉という場所が、関西の平家と朝廷の支配に不満を持つ関東武士達を集めるのに、 精神的な支柱として十分な役割を担っていた為、頼朝は、元々関東にいた御家人達に勧められた通りに、鎌倉の場所を選んだのでした。 御家人達は鎌倉という場所を源頼朝に勧めたもう一つの理由、それは 鎌倉の地形が守りやすい天然の要塞だったという事がありました。 現代、鎌倉へ入る道は何本かに限られています。 そして、その限られた道路を通って鎌倉市中心部へ入る為、道路はいつの時代も渋滞が絶えません。 入り口が狭く入る場所も限られているという事は、同時に攻める側にとっては大量の軍勢で攻め込めないという事にもなります。 鉄砲や大砲があり船から艦砲射撃が出来る、後の世の戦とは異なり、この時代の海戦は、船の上で鎧をつけたまま弓や刀で白兵戦を繰り広げる戦い方が基本でした。 もちろん敵地を攻める時には浜辺から船をつけて上陸しなければならず、上陸時に無防備になる為、 海から鎌倉へ攻め入る事は当時の常識では無理だったのです。 陸上の合戦が主流だった当時、 三方を山に囲まれている地形の鎌倉は険しい城壁に囲まれているかの様な、まさに天然の城と言える場所でした。 つまり鎌倉は攻められ難く守りやすい場所だったのです。 この事が当時強大な力を持っていた 平家の軍勢が、鎌倉へ攻め寄せてくる事が考えられていたのでとても重要でした。 また前線基地としてこれから東海道を攻める上でも、攻め寄せる敵を迎え撃つ上でも、最適な場所だったのです。 三方向が山に囲まれて、主な玄関口は相模湾に面した海だけです。 昔は鎌倉に陸路で入ろうとするには、険しい坂の山を越えなければ行けませんでした。 そんな 昔の鎌倉の玄関口は、今はおなじみの由比ヶ浜です。 ここに、はるか昔に源氏の祖先である 八幡太郎義家が八幡宮を祀りました。 この事から関東武士達にとって、 鎌倉は武家のシンボルが祀られている神社があるパワースポットになり、源氏の流れを持つ家柄に生まれた武士ならば、一度は住みたい場所になりました。 八幡宮は、由緒正しい清和源氏の氏神様を祀る神社 元々は、奈良の近畿に清和源氏の氏神様と言われていた八幡宮がありました。 そこでの元服名をとって後に八幡太郎義家の名前でも有名になる、源頼朝の祖先でもある源義家が、鎌倉に館を構えた際に祀った神社を鎌倉に作りました。 足利や武田や新田と言った清和源氏の血を引く関東の武士達にとっても、 この鎌倉の場所はそんな義家が建てた小さな八幡宮が、 精神的な支柱になっていたのでした。 これから平家の軍勢と一戦を交える関東武士達が集う場所として選ばれたのが、源氏の氏神様を祀る八幡宮のあった鎌倉だったのです。 後に、平家と戦う前に頼朝は、この小さな由比の八幡宮をもっと内陸の鶴が丘へ移し、社殿も豪華に改築しました。 そして玄関口である由比ヶ浜から八幡宮までに、豪華で広い参道を作りました。 これが今の若宮大路です。 鎌倉幕府は、東北征伐の前線基地になる 1192年平家も木曽義仲も倒した源頼朝は、正式に征夷大将軍に任じられました。 この時、征夷大将軍になった頼朝のすべきことは、大将軍の名のもとに 東北の地方政権である奥州藤原氏を倒す事にありました。 そもそも幕府という名前の語源も中国に由来する将軍の前線基地、陣営の幕を意味するものにあると言われています。 中国の故事では遠征に出かけた大将軍は、遠征の地で仮の自治政府をする事が出来ました。 頼朝が征夷大将軍に任じられた事により、ここに名実ともに鎌倉幕府が誕生した事になり、鎌倉が地方政治の中心地になる口実と実権を得ました。 そして鎌倉はその後は前線基地としての役割を果たす事になり、また頼朝が大将軍になった事で朝廷から離れた場所の鎌倉で幕府の名の下に自治政府が作られて行く事になります。 こうして敵から守る為と武家の精神的な支えである八幡宮を抱えた鎌倉は、 徐々に精神的な部分からより現実的な政治的な部分へと役割が移っていく事になります。 執権政治時代に増改築を繰り返した鎌倉城 源頼朝も亡くなり、時は流れて、承久の乱で勝利した執権北条氏。 朝廷も抑えて日本に大きな敵もいなくなった鎌倉幕府ですが、 北条氏はそれでも安心は出来ませんでした。 今度は 御家人の中から裏切り者が出て、鎌倉を攻めてくるのでは無いかと思ったのです。 そこで鎌倉幕府は北条氏の執権政治の間、常に鎌倉城の防御を固める改修工事を重ねていきました。 北条氏に楯突く者や反旗を翻し倒幕の軍勢を上げる者達を恐れ、反乱軍が容易に鎌倉へ攻め込めない様に鎌倉へ入る出入り口を限定しました。 またその出入り口を人工的に作り直して、更に攻め込みにくい切通りへと変化させていったのです。 こうして唯一鎌倉へ入る出入り口である各所の切通しを要塞化し、その他の侵入口は山中に巨大な崖や堀を巡らせて、山中を通った切通し以外での侵入ルートは全て塞いでしまったのでした。 鎌倉は来る者を拒む場所になった為、大人数の合戦には不向きな土地になって行きます。 その為、大軍勢を街の中に常駐して置くことが出来ず、御家人達は鎌倉の外にある自分の領地の中に自分の軍勢を持っていたので、 鎌倉へ入る時には無防備に近い状態でした。 一方で政権を握っている北条氏達には、常に幕府防衛用常備軍が鎌倉の中には存在していたので、反乱や反逆者が出た場合や忙殺したい敵対勢力があった時には、 ほぼ無防備な状態で鎌倉の中にいる敵を打つ事が出来たのです。 滅亡の時に唯一見せた!難攻不落鎌倉城の底力 そんな天然の要害を200年の時をかけて増改築し難攻不落に作り上げた鎌倉城が、 最初で最後の活躍を見せたのは、奇しくも 鎌倉幕府が滅亡した最後の戦いのときでした。 倒幕の大軍勢で新田義貞が攻め寄せた時、幕府の主力兵力は4分の1以下まで減っていました。 それでも鎌倉の入り口である各所の切り通しでは、 少ない兵力でも新田軍を何日にも渡って退け撃退し続けたのです。 そんな鎌倉もやがて新田軍に守りの薄かった稲村ヶ崎を突破されてしまい、幕府軍は一気に総崩れとなり鎌倉の街も大混乱。 北条一族も、東勝寺にて全員が最後の時を迎える事になりました。 鎌倉には関東武士達のロマンがいっぱい! いかがでしたでしょうか? どうして鎌倉幕府が鎌倉の場所に作られたのか。 それはもともと、関東の武士達が認める武家の頭領である源氏の祖先が、八幡宮を関東に祀った場所であった事と、源氏の頭領の家柄である源頼朝の存在が重なり、源氏と武家のシンボルが鎌倉に集まったと言う事で決まりました。 そんな武家の精神的支柱だった八幡宮。

次の

鎌倉城の場所はどこ?どうしてその場所になったの?

鎌倉幕府 場所

現在は鶴岡八幡宮の東側の清泉小学校の前にその跡地の石碑があります。 この大蔵幕府は次の宇津宮辻子幕府へ遷すか否かの議論の際に少し揉めた場所です。 『吾妻鏡』には金浄法師が「大蔵幕府の土地は四神最上の土地であるため引っ越す必要はない。 西方の土地を広げた方が良い」と記録があります。 つまり、鎌倉幕府を最初に開いたこの地は適当に置かれた地ではなく、京都の平安京のように四神の計算がされて造られています。 東御門旧跡碑 ここは大蔵幕府の東御門があった跡地です。 西御門旧跡碑 こちらは大蔵幕府の西御門跡地です。 政所 これが政所で鶴岡八幡宮と大蔵幕府の間にあります。 場所では若宮大路幕府跡地から200m程です。 現在は石碑もなく目立たないため通りすぎてしまうでしょう。 問注所は源頼家によって正治元年に現在の問注所跡地へ移設される 鎌倉幕府は裁判や訴訟を扱う「問注所」を当初は大蔵幕府の東西の廂 ひさし に設置しました。 しかし、鎌倉幕府2代将軍の源頼家が喧噪を嫌がったため、善信の家を仮の問注所として新たにここに問注所を新設しました。 ここが源頼家が設置したがあった跡地です。 ここへは中世三大日記で知られる『十六夜日記』の作者である阿仏尼も京から訴訟のために訪れています。 1225年に宇津宮辻子幕府へと引越しをしますが、その際には大蔵幕府で説明したように議論が起こりました。 『吾妻鏡』には金浄法師が「四神最上の土地から引っ越す必要はなく、現在の大蔵幕府の西方を広げれば良い」とあり、さらにその後に相談した陰陽師の1人によると「大蔵幕府は先祖 源頼朝 が子孫を見下ろす墓があると子孫は絶えてしまう」「源頼朝の墓はまさにそのようになっている」「頼朝の子孫はみな絶えている」と符合することを言われ、「若宮大路は四神にとっても良い土地」とその陰陽師が言ったことからその意見が採用されました。 この幕府は11年間この地で開かれた後、若宮大路幕府へと遷ります。

次の

鎌倉幕府の場所は?現在はどうなっている?

鎌倉幕府 場所

現在は鶴岡八幡宮の東側の清泉小学校の前にその跡地の石碑があります。 この大蔵幕府は次の宇津宮辻子幕府へ遷すか否かの議論の際に少し揉めた場所です。 『吾妻鏡』には金浄法師が「大蔵幕府の土地は四神最上の土地であるため引っ越す必要はない。 西方の土地を広げた方が良い」と記録があります。 つまり、鎌倉幕府を最初に開いたこの地は適当に置かれた地ではなく、京都の平安京のように四神の計算がされて造られています。 東御門旧跡碑 ここは大蔵幕府の東御門があった跡地です。 西御門旧跡碑 こちらは大蔵幕府の西御門跡地です。 政所 これが政所で鶴岡八幡宮と大蔵幕府の間にあります。 場所では若宮大路幕府跡地から200m程です。 現在は石碑もなく目立たないため通りすぎてしまうでしょう。 問注所は源頼家によって正治元年に現在の問注所跡地へ移設される 鎌倉幕府は裁判や訴訟を扱う「問注所」を当初は大蔵幕府の東西の廂 ひさし に設置しました。 しかし、鎌倉幕府2代将軍の源頼家が喧噪を嫌がったため、善信の家を仮の問注所として新たにここに問注所を新設しました。 ここが源頼家が設置したがあった跡地です。 ここへは中世三大日記で知られる『十六夜日記』の作者である阿仏尼も京から訴訟のために訪れています。 1225年に宇津宮辻子幕府へと引越しをしますが、その際には大蔵幕府で説明したように議論が起こりました。 『吾妻鏡』には金浄法師が「四神最上の土地から引っ越す必要はなく、現在の大蔵幕府の西方を広げれば良い」とあり、さらにその後に相談した陰陽師の1人によると「大蔵幕府は先祖 源頼朝 が子孫を見下ろす墓があると子孫は絶えてしまう」「源頼朝の墓はまさにそのようになっている」「頼朝の子孫はみな絶えている」と符合することを言われ、「若宮大路は四神にとっても良い土地」とその陰陽師が言ったことからその意見が採用されました。 この幕府は11年間この地で開かれた後、若宮大路幕府へと遷ります。

次の