あおい 輝彦 グループ。 ジャニーズファンは知らない、最古のグループ「ジャニーズ」メンバーが選んだ第二のステージ

ジャニーズファンは知らない、最古のグループ「ジャニーズ」メンバーが選んだ第二のステージ

あおい 輝彦 グループ

この項目では、かつて活躍していたアイドルグループについて説明しています。 芸能事務所および所属タレント全般については「」をご覧ください。 ジャニーズ 出身地 ジャンル 活動期間 1962年4月 - 1967年11月20日 レーベル (国内) (国外) 事務所 メンバー 真家ひろみ 中谷良 ジャニーズ Johnny's は、(37年)4月にから最初にデビューした日本の。 現在ジャニーズといえば同事務所もしくはその所属タレントを指すことがほとんどであるため、便宜上「初代ジャニーズ」「元祖ジャニーズ」と呼ばれることがある。 4月結成、11月20日解散。 なお、この項では所属メンバーである真家ひろみと中谷良の個別の活動についても記述する。 メンバー [ ] 真家ひろみ(まいえ ひろみ、本名・真家弘敏、リーダー) -。 (いいの おさみ、本名・飯野修實) -。 (現・)出身。 中谷良(なかたに りょう、本名・中谷良三) -。 東京都渋谷区出身。 (あおい てるひこ、本名・青井輝彦) -。 東京都出身。 概要 [ ] ジャニーズのプロデューサーであるは日系二世で、1950年代前半にはサンフランシスコでの日本芸能人の公演に間近で接し、またその多くの知遇を得ていた。 1953年に米国大使館の通訳として来日したジャニーは、居住していたので、近所の子供たちに野球を教えていた。 チームは弱かったためジャニーはヘターズやエラーズなどと呼んでいたが、所属していたあおい輝彦が「ジャニー さんが監督なんだからジャニーズがいいんじゃない?」と提案し、他の子供たちもそれに賛同したためジャニーズと名付けられた。 ある日、雨で野球の練習が出来なかったため、ジャニーは少年たちを引き連れて映画『』を鑑賞した。 彼らは同作に衝撃を受け、ジャニーはエンターテインメント事業への参入を決意する。 ジャニーは米国由来の舞台芸術への憧れを持っており、メンバーもダンスのレッスンを熱心に行った。 1962年4月、野球チームのメンバー4人で ジャニーズが結成される。 当初は新芸能学院(現:名和プロダクション)に在籍していたが、6月にジャニーが ジャニーズ事務所を創業。 ジャニーズは同事務所初の所属グループとなる。 1962年8月、『』でのバックを務め、芸能界デビューする。 同番組は生放送の舞台ショーであったため、ジャニーの芸能方針に一致していたのである。 当時のいわゆる「アイドル枠」としては御三家(、、)がいたが、「歌って踊れるアイドル」という稀有な存在が重宝されることとなった。 12月、『若い涙』でレコードデビュー。 『夢であいましょう』内のコーナー「今月の歌」に採用される。 以降も、、のゴールデンコンビによる楽曲を次々と発表する。 1965年、『』に初出場(ジャニーズとして唯一の紅白出演)。 披露したのは音楽劇『』の劇中歌「マック・ザ・ナイフ」のカバーで、やはり舞台を意識したパフォーマンスであった。 本物の舞台ショーにも積極的に出演した。 1963年1月、『第19回ウエスタン・カーニバル』に出演し、の「ロコモーション」のバックを務める。 1965年、日本版ウェストサイド物語というべきミュージカル『』(脚本:、主演:)にも出演した。 1966年8月28日、本格的なダンスレッスンをするために渡米。 その後、ワーナー・ブラザースとの契約が決まり、予定の3ヶ月という滞在期間を延長してLPレコードのレコーディングを開始。 その中から2曲を全世界に向けてシングルリリースした。 プロモーションフィルムも制作していたが、何らかの原因により吹き込みが叶わなかった。 なお、未発売の楽曲のうち、「」はが作った楽曲で、ジャニーズのLPのお蔵入りが決まった後、1967年にによって演奏及びレコード化され、第1位の大ヒットを記録している(では最高2位)。 1967年1月5日に帰国。 渡米中に爆発的に流行していたを参考にした楽曲を発表するが、程なくして解散へと至ることになる。 11月20日、でのコンサートを最後に解散した。 解散から2年後の1969年12月13日、日本劇場で行われた『オールスター・歌の祭典』にて、1日限りで再結成された。 グループ解散後 [ ] 真家ひろみ 真家宏満、さらに、から命名された 立花正太郎へと2度の改名をする。 俳優やワイドショーの司会として活動していた。 元54期生で声楽家・ソプラノ歌手の白河かほると結婚し、2人で個人事務所 (有)真家企画を設立。 1982年からはタクシー運転手に転職し、その模様が『』や、の著書『あさってのジョー』(文庫化の際に『二度目の仕事 - 日本凡人伝』に改題)で取り上げられた。 2000年3月6日午前2時55分、の為にの病院で逝去した。 享年55(満53歳)。 飯野おさみ 詳細は「」を参照 劇団四季の研究生として歌や演技を学び、歌手や俳優として活動。 歌手としては代表曲に「」、「」などが大ヒット、1976年末の『』へソロ歌手として初出場を果たす。 俳優としては『』の佐々木助三郎役、『』の矢吹丈役などが有名。 ディスコグラフィ [ ] シングル [ ] ジャニーズ• 『』同年。 カップリング曲の「ぼくの手袋破れてる」も『夢であいましょう』で歌われたことがあり、現存する。 流行歌コンパクト盤・若い涙(17センチLP、4曲入)• 「若い涙」「ぼくの手袋破れてる」「若い夜」「若いんだもん」を収録。 B面曲は中谷のソロ。 後にやがカバーしている。 B面曲はジョニー・ティロットソン、、、との競作。 後にのがカバーしている。 バットマン(1966年5月30日)• 両面共に演奏は。 A面曲はドラマ『』主題歌。 両面共に楽団のカバー。 A面曲は『』の主題歌。 B面曲は中谷のソロ。 A面曲はあおいのソロ。 B面曲は飯野のソロ。 A面曲はあおいのソロ。 原曲はメキシコのボーカルグループであるロス・トレス・カバジェロスの「」( El Reloj)。 両面共、後にフォーリーブスがカバーしている。 流行歌名曲シリーズ・泣いていたジェニー(17センチLP、4曲入)• 「泣いていたジェニー」「涙くんさようなら」「君が若者なら」「ひとりぼっちになったとき」を収録。 A面曲はの主題歌。 A面曲は、映画『』の劇中歌として使用されている。 B面曲は中谷のソロ。 第22回参加作品。 中谷良• A面曲はのカバー曲。 シングル(日本国外盤) [ ]• The Johnnys名義。 アルバム [ ] ジャニーズ• ジャニーズ ステレオ・ハイライト 第1集(1966年)• ジャニーズとアメリカ旅行 〜 ジャニーズショウ実況録音(1966年11月)• 1966年8月21日に渋谷公会堂で行われたコンサートより収録。 中谷良• We're the JOHNNYS(1989年12月10日)• インディーズ作品。 らによるオムニバスCD。 中谷の楽曲は、本人による作詞作曲の「予期せぬ出逢い」が収録。 同名のビデオ作品も同時に発売されており、中谷も出演している。 ソノシート [ ]• (1964年)• のノベルティ。 1曲目にのオリジナル版、2曲目にジャニーズによるカバー版が収録。 ハロー・ジャニーズ(1965年)• 「ぼくの瞳に君がいる」「栄光のマーチ」「チキン・オブ・ザ・シー」「ガール・ハッピィ」を収録。 女友シート・ジャニーズのないしょ話公開(1966年)• 『』1966年4月号特別付録。 ビクターミュージックブック バットマン ダイヤモンド強奪計画• ジャニーズが歌う「バットマンのテーマ」(「バットマン」と同一)と、ドラマ声優陣によるオリジナルドラマ「ダイヤモンド強奪計画 1 」を収録。 楽曲提供 [ ] 真家ひろみ• ファイヴ・キャンドルズ「大阪の娘」• シングル『アイ・ラヴ・ビイ・ビイ』のB面曲。 バラエティ番組 [ ] ジャニーズ• 夢であいましょう(NHK)• (日本テレビ)• 木の実ナナのバックダンサーとして出演。 (日本テレビ)• の夏休み• (NHK)• 明日があるさ(日本テレビ)• (日本テレビ)• (日本テレビ) 真家ひろみ• (1968年4月1日 - 1969年3月 、フジテレビ)• メイン司会であるのアシスタントとして、毎週水・木・金曜のサブ司会を務めた。 テレビドラマ [ ] ジャニーズ• へそまがりに突撃! (1965年7月3日、日本テレビ)• 太陽のあいつ 第9話「スタントカー大混乱!! 」(1967年6月22日、) - スタントマン志望の若者たち役• この回のラストで、同名主題歌をダンスとともに劇中歌として披露している。 (NHK) - あおい輝彦のみ出演 真家ひろみ• (1969年4月2日 - 1970年3月25日、フジテレビ)• 戦いすんで日が暮れて(1969年、日本テレビ) - 西郷大一郎役• 第6話「手錠と味噌汁」(1972年、日本テレビ) - 谷昭一役• 第37話「友情の星よ永遠に」(1972年、TBS) - 加島役• 第192話「バラバラ殺人事件」(1979年、TBS) - 野口一郎役• (1979年、フジテレビ) - 忠吉役• (版)(1980年4月1日 - 9月30日、) - 山田市太郎役• (、NHK) 映画 [ ] ジャニーズ• (1963年4月18日、松竹)• やぶにらみニッポン(1963年12月1日、東宝)• あの雲に歌おう(1965年1月15日、東映)• 青春大統領(1966年4月27日、日活)• (1967年4月29日、東宝)• 君は恋人(1967年11月3日、日活) 真家ひろみ• ・橋の花と喧嘩(1969年7月5日、松竹) - 深作直助役• 戦いすんで日が暮れて(1970年1月31日、松竹) - 西郷大一郎役• 花の不死鳥(1970年7月1日、松竹)• 喜劇 あゝ軍歌(1970年9月15日、松竹) - 若者役• (1977年8月20日、日活ロマンポルノ) - 加納達則役• 杳子(1977年10月22日) - 杳子の恋人役 中谷良• 怪獣の観た夢(1992年4月、)• 北公次主演のOVA作品。 舞台 [ ] ジャニーズ• 焔のカーブ(1965年4月・、作・、音楽・)• 夏の踊り 〜四つの約束〜 / 喜劇・青春大騒動(1965年8月1日 - 26日、)• 宝島(1966年1月、日生劇場、作・石原慎太郎、音楽・中村八大)• いつかどこかで 〜 フォーリーブス物語(1967年6月、大阪、脚本・ジャニー喜多川) 中谷良• 第2幕「オー・マイ・ママ」に出演。 郷ひろみヤングミュージカル 走れ あしたに!! (1974年) - 高校教師役• 郷ひろみのコンサート内でのミュージカル。 オリジナルミュージカルプレイ 友情(1975年1月) -中谷良三役• 「フォーリーブス リサイタル'75」内でのミュージカル。 ライブ・ミュージカル 少年たち 〜フォーリーブス・不朽の名作〜(1975年4月5日 - 5月5日) - 中谷良三役 真家ひろみ• 現代股旅人生・奮闘公演『帰って来た女剣劇 〜 みどりの七変化』(1979年2月28日 - 3月5日、新宿) ステージ [ ]• 第19回新春ウエスタン・カーニバル(1963年1月14日 - 21日、)• 第20回ウエスタン・カーニバル(1963年5月5日 - 12日、日本劇場)• 第21回ウエスタン・カーニバル(1963年9月2日 - 8日、日本劇場)• 第22回新春ウエスタン・カーニバル(1964年1月14日 - 2月21日、日本劇場)• 第23回ウエスタン・カーニバル(1964年5月5日 - 12日、日本劇場)• 第24回ウエスタン・カーニバル 〜ペギー・マーチがやってきた(1964年8月26日 - 9月1日、日本劇場)• 第25回新春ウエスタン・カーニバル(1965年1月14日 - 21日、日本劇場)• 第26回ウエスタン・カーニバル(1965年5月5日 - 12日、日本劇場)• 第27回ウエスタン・カーニバル(1965年8月28日 - 9月3日、日本劇場)• 詳細不明、のショーに出演(1965年9月、梅田コマ・スタジアム)• ジャニーズ・ショー(1965年12月22日 - 24日、日本劇場)• 第28回新春ウエスタン・カーニバル(1966年1月15日 - 21日、日本劇場)• ジャニーズリサイタル(1966年、)• 第29回ウエスタン・カーニバル(1966年5月5日 - 12日、日本劇場)• 第30回ウエスタン・カーニバル(1966年8月27日、日本劇場)• 第31回新春日劇ウエスタン・カーニバル(1967年1月15日 - 21日、日本劇場)• 第33回ウエスタン・カーニバル (1967年8月26日 - 9月1日)• ピーナッツ・ホリデイ〜ジャニーズと共に! (1967年9月2日 - 8日、日本劇場)• 解散コンサート(1967年11月20日、渋谷公会堂)• オールスター・歌の祭典(1969年12月13日、日本劇場)• 1日限りの再結成ステージ。 書籍 [ ] ジャニーズ• ジャニーズ'65(1965年10月31日) - 写真集 中谷良• ジャニーズの逆襲(1989年10月、データハウス) 真家ひろみ• どうぞ - ジャニーズ・タクシー奮走記(1993年5月、マガジンハウス) 脚注 [ ] 注釈 [ ].

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あおい輝彦の現在は?嫁は子供たちはどうしている?

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10月17日のフジ系「何だコレ!?&林修ドリル 日本のナゾを解明!合体SP」にVTR出演した俳優・あおい輝彦が、ジャニーズの原点を明かした。 そのメンバーだったあおいは、ジャニーズというグループの誕生について「少年野球のチームだった」と切り出したのだ。 あおいは「子供のころ、ワシントンハイツという米軍のキャンプ地があった。 その中で少年野球チームが練習をやってたんです」と説明。 現在でも休日になれば運動場で少年野球チームが練習している姿があるが、当時のジャニーズはまさに野球チームそのものであり、そのチームの監督こそがジャニー喜多川社長だったという。 そんなある日、「練習をしようと思ったら雨が降ってきて。 『映画でも観に行こうか』といって観た映画が、当時大ヒットしていた『ウエスト・サイド物語』だったんです」とあおいは語る。 1961年のアメリカ映画『ウエスト・サイド物語』。 当時、『ウエスト・サイド物語』といえば、500日以上に渡って劇場上映されていたというから大大大ヒット映画だ。 それを見た野球チーム・ジャニーズの面々は「みんな、大感激して。 ジャニーさんにお願いして、野球の練習がだんだんミュージカルの練習になっていった」とのこと。 球児たちが白球よりも追うことに夢中になったミュージカルの世界。 その原動力はいまも、ジャニーズのなかで息づいていることだろう。

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あおい輝彦が独占手記、ジャニーさん死去に「兄貴を亡くした気持ち」 (1/2ページ)

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昨年の紅白歌合戦では、過去最多6組が出場を果たしたジャニーズ事務所。 創業50年以上経つ今もなお業界で力を誇るが、その原点は「ジャニーズ」という名の4人グループだった。 「ジャニー喜多川社長がアメリカから帰国後、近所の少年たちを集めて野球チームを結成。 その後、チーム内の少年4人で『ジャニーズ』というグループを作ったのが、事務所を設立するきっかけです。 『ジャニーズ』は1962年に結成し、65年には紅白歌合戦に出場。 『涙くんさようなら』などの代表曲があります。 メンバーは真家ひろみ、飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良。 67年に解散した後は、飯野はミュージカル俳優、あおいは歌手や俳優、声優として活躍。 中谷は89年に『ジャニーズの逆襲』という暴露本を出し、話題になりました」(芸能関係者) 中でもリーダーの真家は、俳優業やワイドショーの司会を経て、82年からタクシー運転手に転職した。 当時の真家に会ったベテラン芸能記者が語る。 「故・レオナルド熊さんの妻である元松竹女優の中川加奈さんにインタビューした際、『昔、真家くんにプロポーズされたの』という話を聞いたのですが、その翌週、タクシーに乗ると偶然にも運転手が真家さんだったんです。 それでその時の話をすると、『加奈ちゃん懐かしいなぁ』と嬉しそうに笑ってましたね。 時間が経ってもお互いに良い思い出だったんだと思います。 それから色々話してくれて、『このタクシーの中が僕の第二のステージなんです』と言っていました。 2000年に心筋梗塞により53歳で亡くなってしまいますが、元スターが第二の人生を明るく生きる姿に感銘を受けましたね」 色男で女性の指名客も多く、話が面白いので個人タクシーは繁盛していたという真家。 ジャニーズ事務所の礎を築いた「元祖ジャニーズ」のリーダーは、大人物だったようだ。

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